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レイモン・ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館が放射能被害の飯館村にできたのは何故?

レイモン・ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館が放射能被害の飯館村にできたのは何故?

お問い合わせは:03-5848-8605   又は右下チャット  lineでどうぞ 東日本大震災で放射能被害を受けた飯舘村の村長が2018年に自宅の蔵を改造してレイモンペイネとミッシェルアンリの美術館にした。 2003年頃、飯舘村の菅野村長から弊社に電話があった。ペイネの美術館を飯舘村に作りたいので、レイモン・ペイネの版画を沢山欲しいとの電話だった。 当時は、弊社(ギャルリー亜出果)は軽井沢プリンスショッピングプラザに<ギャラリーヴァンドフランス>というフランス絵画版画の専門ギャラリー(1995年~2015年)を経営すると同時に軽井沢プリンスホテル西館の通路にも作品を展示して販売していた。 飯舘村の菅野村長は、その1月程前に軽井沢プリンスホテルでのセミナーに参加して、軽井沢プリンスホテル西館に弊社が展示していたレイモン・ペイネのオリジナル版画を5点程購入したらしい。私も軽井沢プリンスホテルの月末の売り上げ報告で、レイモン・ペイネの版画が数点売れたのは知っていた。 私は、菅野村長の電話から2月程して東京で菅野村長に合ってランチをして話を聞いた。飯舘村に愛の沢という場所があって、小さな湖を中心に運動場や温泉、宿泊施設、レストランもある村人の憩いの公園になっている。 愛の沢の愛の架け橋↓ 愛の沢には男性と女性の性器に似た石があり愛の沢という名前の由来になっているらしい。菅野村長は愛の沢にちなんで、ペイネの恋人達の美術館をオープンしたいとの事だった。ペイネ美術館は軽井沢と南仏アンチーブなどにあるが、飯舘村にも作りたいとの事だった。美術館はペイネのオリジナル版画は定価10万円~20万円程なので格安で美術館をオープンできるわけだ。 私は数か月後にその愛の沢を見に行った。菅野村長は、新しいアイデアと実行力のる人で、飯舘村発展のために色々な試みをしていた。愛の沢のペイネ美術館も村起こしの一環らしい。面白いので、それらの菅野村長の試みを幾つか紹介しようう。 1:村民俳句大会:1980年代に<サラダ記念日>という俳句集を出版して一躍有名になった俳人の黛まどか氏を審査員に呼んで、村民や一般公募の農村や飯舘村をよんだ句の審査会を開いて、選ばれた俳句を高さ30センチ程の石に掘り込み、愛の沢を一周する散歩道に数十個設置して、散歩しながら農村の俳句を楽しめるようにした。その句集も出版した。 飯舘村愛の沢の句碑↓ 2:若妻の翼:農家のお嫁さんのフランスへの集団旅行の企画をした。確か7~8回程実施したようです。農家の若い奥さん達が自分達でフランス旅行の企画を立て、予約も自分達でして、1週間程フランスを旅行するのだ。もちろん、フランス語はできないし、英語も大したレベルではないので、身振り手振りも交えて旅行中のコミュニケーションをすることになる。参加した彼女達はその企画によって自信をつけ、帰国後に村の中の様々な分野で積極的に活躍したそうだ。特筆すべきは、その旅行の実施は秋の収穫の農家が最も忙しい時期を選んで行われた事だ。忙しい時に農家の奥さんが不在になれば、農家は困る事によって、お嫁さんの重要度を認識する仕組になっている。発想が面白い。でも、この企画がフランスだったのはとても良かったと私は思う。アメリカだと犯罪に巻き込まれる危険が高いし、イタリアだと50メートル置きに男が付きまとう。フランスはジプシーやイタリア系のストリート泥棒はいるが、身の危険を感じる事はない。店やレストラン、ホテルで盗難の被害もそんなに多くない。 菅野村長は2年間程の間に数十点のオリジナル版画を買ってくれた。菅野村長は個人で買って、美術館が出来たら村に寄付する予定にしていた。数年後、菅野村長は仙台三越でのミッシェル・アンリ来日展に奥さんと一緒に来てくれた。ミッシェル・アンリの絵画を見て、同時に画家に会って感激し、予定の美術館は「ペイネ&ミッシェルアンリの愛と花の美術館」にする事になった。    ミッシェル・アンリ来日展を見に来てくれた飯舘村菅野村長夫妻とギャルリー亜出果 武田康弘↓   ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館建設は2006年に飯舘村議会で否決されたが、菅野村長は諦めていなくて機会をうかがっていた。菅野村長は自分が書いた本や、ブランドの飯館牛の肉の大きな塊を送ってくれたり、東京に来たときは一緒に食事をしたりして、私達はすっかり友達になった。 私は村長へのお礼にと思って2009年から毎年、子供達の夏休み中に飯館村に行って愛の沢のコテージに宿泊し、飯舘村から1時間程の松川浦という海水浴場にもいった。飯舘村のコテージの傍の草むらから見上げる夜空は素晴らしい物だった。飯舘村は高原で愛の沢のコテージは丘の上にあるので、周りには星空を遮る物がなく、真っ暗なので、満点の星空が広がっている。星が降るというのは、このような夜空の事だとおもう。 飯舘村ホテル+レストランの木こり館 このそばにコテージもある↓   飯舘村コテージに宿泊して近くのやま湖での花火大会や、村の夏祭りにも行った。菅野村長の奥さんが茹でてもってきてくれたトウモロコシを女房や子供と一緒に頬張りながら、花火を見た。村の祭りでは、飯館牛と村でとれた野菜でのバーベキューを楽しんだ。愛の沢を散歩しながら村民の俳句も楽しんだ。数メートル置きあるその民の俳句を口ずさみながら、湖をぐるりと散歩するのは楽しかった。村民が作った俳句をいくつか紹介しよう。「ひと声に牛の寄りくる秋の暮」「下校の子稲刈る父を見て帰る」「トラクターに新妻乗せて花野ゆく」など牧歌的な句が並んでいる。審査員の俳人黛まどかさんが選んだ句だ。私も一句作って、俳句で生活している友人に見せたら、ストレートすぎて俳句になっていないそうだ。彼曰く、私の性格そのままだそうだ。私のストレートな句は「夏の夜天まで響け祭り太鼓」花火の上がる前に、かがり火に照らされた祭り太鼓の演奏があり、太鼓の音が真っ暗な夜空に上って行っていたのを、私が俳句にした。 2011年3月11日東日本大震災が発生した。数週間すると飯館村が放射能で大変な被害に会っている事が解った。菅野村長に何かできる事が有るか聞きいたら、子供達が一番可愛そうなので、なにかプレゼントして欲しいと言われ、寄付を集め読売ジャイアンツと楽天のグッズ400個を飯舘村の幼稚園児と小学生に届けた。 飯舘村の幼稚園の先生にプレゼントを渡すギャルリー亜出果武田↓ まだ、飯舘村全村避難の命令がでる前だったが、3校ある小学校の子供達は、隣町の小学校の校舎を借りて勉強していた。 飯舘村の唯一の書店(町役場のすぐそばにある)↓ 中には1時間以上掛けて通っている子供もいた。子供達は以外に明るく遊んでいた。私は彼らに「今大変な時だけど、この状況を乗り越えた向こうには、素晴らしい未来が待っているから、大変だけど一緒に乗り越えて行こう。」と言いつつ、この子供達が将来苦しむ事が無いようにと祈るような気持ちだった。今でも、時々、あの時会った子供達の事が心に浮かぶ。元気で育って欲しいと念じる。きっと大丈夫だ、元気に育つと思った。 飯舘村の子供達にプレゼントを届けた武田康弘と教室の子供達↓ (株)ワニプラスの佐藤寿彦社長から、菅野村長の手記を出版してくれるとの親切な申し出があり8月に「美しい村に放射能が降った」を出版してくれた。...

レイモン・ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館が放射能被害の飯館村にできたのは何故?

お問い合わせは:03-5848-8605   又は右下チャット  lineでどうぞ 東日本大震災で放射能被害を受けた飯舘村の村長が2018年に自宅の蔵を改造してレイモンペイネとミッシェルアンリの美術館にした。 2003年頃、飯舘村の菅野村長から弊社に電話があった。ペイネの美術館を飯舘村に作りたいので、レイモン・ペイネの版画を沢山欲しいとの電話だった。 当時は、弊社(ギャルリー亜出果)は軽井沢プリンスショッピングプラザに<ギャラリーヴァンドフランス>というフランス絵画版画の専門ギャラリー(1995年~2015年)を経営すると同時に軽井沢プリンスホテル西館の通路にも作品を展示して販売していた。 飯舘村の菅野村長は、その1月程前に軽井沢プリンスホテルでのセミナーに参加して、軽井沢プリンスホテル西館に弊社が展示していたレイモン・ペイネのオリジナル版画を5点程購入したらしい。私も軽井沢プリンスホテルの月末の売り上げ報告で、レイモン・ペイネの版画が数点売れたのは知っていた。 私は、菅野村長の電話から2月程して東京で菅野村長に合ってランチをして話を聞いた。飯舘村に愛の沢という場所があって、小さな湖を中心に運動場や温泉、宿泊施設、レストランもある村人の憩いの公園になっている。 愛の沢の愛の架け橋↓ 愛の沢には男性と女性の性器に似た石があり愛の沢という名前の由来になっているらしい。菅野村長は愛の沢にちなんで、ペイネの恋人達の美術館をオープンしたいとの事だった。ペイネ美術館は軽井沢と南仏アンチーブなどにあるが、飯舘村にも作りたいとの事だった。美術館はペイネのオリジナル版画は定価10万円~20万円程なので格安で美術館をオープンできるわけだ。 私は数か月後にその愛の沢を見に行った。菅野村長は、新しいアイデアと実行力のる人で、飯舘村発展のために色々な試みをしていた。愛の沢のペイネ美術館も村起こしの一環らしい。面白いので、それらの菅野村長の試みを幾つか紹介しようう。 1:村民俳句大会:1980年代に<サラダ記念日>という俳句集を出版して一躍有名になった俳人の黛まどか氏を審査員に呼んで、村民や一般公募の農村や飯舘村をよんだ句の審査会を開いて、選ばれた俳句を高さ30センチ程の石に掘り込み、愛の沢を一周する散歩道に数十個設置して、散歩しながら農村の俳句を楽しめるようにした。その句集も出版した。 飯舘村愛の沢の句碑↓ 2:若妻の翼:農家のお嫁さんのフランスへの集団旅行の企画をした。確か7~8回程実施したようです。農家の若い奥さん達が自分達でフランス旅行の企画を立て、予約も自分達でして、1週間程フランスを旅行するのだ。もちろん、フランス語はできないし、英語も大したレベルではないので、身振り手振りも交えて旅行中のコミュニケーションをすることになる。参加した彼女達はその企画によって自信をつけ、帰国後に村の中の様々な分野で積極的に活躍したそうだ。特筆すべきは、その旅行の実施は秋の収穫の農家が最も忙しい時期を選んで行われた事だ。忙しい時に農家の奥さんが不在になれば、農家は困る事によって、お嫁さんの重要度を認識する仕組になっている。発想が面白い。でも、この企画がフランスだったのはとても良かったと私は思う。アメリカだと犯罪に巻き込まれる危険が高いし、イタリアだと50メートル置きに男が付きまとう。フランスはジプシーやイタリア系のストリート泥棒はいるが、身の危険を感じる事はない。店やレストラン、ホテルで盗難の被害もそんなに多くない。 菅野村長は2年間程の間に数十点のオリジナル版画を買ってくれた。菅野村長は個人で買って、美術館が出来たら村に寄付する予定にしていた。数年後、菅野村長は仙台三越でのミッシェル・アンリ来日展に奥さんと一緒に来てくれた。ミッシェル・アンリの絵画を見て、同時に画家に会って感激し、予定の美術館は「ペイネ&ミッシェルアンリの愛と花の美術館」にする事になった。    ミッシェル・アンリ来日展を見に来てくれた飯舘村菅野村長夫妻とギャルリー亜出果 武田康弘↓   ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館建設は2006年に飯舘村議会で否決されたが、菅野村長は諦めていなくて機会をうかがっていた。菅野村長は自分が書いた本や、ブランドの飯館牛の肉の大きな塊を送ってくれたり、東京に来たときは一緒に食事をしたりして、私達はすっかり友達になった。 私は村長へのお礼にと思って2009年から毎年、子供達の夏休み中に飯館村に行って愛の沢のコテージに宿泊し、飯舘村から1時間程の松川浦という海水浴場にもいった。飯舘村のコテージの傍の草むらから見上げる夜空は素晴らしい物だった。飯舘村は高原で愛の沢のコテージは丘の上にあるので、周りには星空を遮る物がなく、真っ暗なので、満点の星空が広がっている。星が降るというのは、このような夜空の事だとおもう。 飯舘村ホテル+レストランの木こり館 このそばにコテージもある↓   飯舘村コテージに宿泊して近くのやま湖での花火大会や、村の夏祭りにも行った。菅野村長の奥さんが茹でてもってきてくれたトウモロコシを女房や子供と一緒に頬張りながら、花火を見た。村の祭りでは、飯館牛と村でとれた野菜でのバーベキューを楽しんだ。愛の沢を散歩しながら村民の俳句も楽しんだ。数メートル置きあるその民の俳句を口ずさみながら、湖をぐるりと散歩するのは楽しかった。村民が作った俳句をいくつか紹介しよう。「ひと声に牛の寄りくる秋の暮」「下校の子稲刈る父を見て帰る」「トラクターに新妻乗せて花野ゆく」など牧歌的な句が並んでいる。審査員の俳人黛まどかさんが選んだ句だ。私も一句作って、俳句で生活している友人に見せたら、ストレートすぎて俳句になっていないそうだ。彼曰く、私の性格そのままだそうだ。私のストレートな句は「夏の夜天まで響け祭り太鼓」花火の上がる前に、かがり火に照らされた祭り太鼓の演奏があり、太鼓の音が真っ暗な夜空に上って行っていたのを、私が俳句にした。 2011年3月11日東日本大震災が発生した。数週間すると飯館村が放射能で大変な被害に会っている事が解った。菅野村長に何かできる事が有るか聞きいたら、子供達が一番可愛そうなので、なにかプレゼントして欲しいと言われ、寄付を集め読売ジャイアンツと楽天のグッズ400個を飯舘村の幼稚園児と小学生に届けた。 飯舘村の幼稚園の先生にプレゼントを渡すギャルリー亜出果武田↓ まだ、飯舘村全村避難の命令がでる前だったが、3校ある小学校の子供達は、隣町の小学校の校舎を借りて勉強していた。 飯舘村の唯一の書店(町役場のすぐそばにある)↓ 中には1時間以上掛けて通っている子供もいた。子供達は以外に明るく遊んでいた。私は彼らに「今大変な時だけど、この状況を乗り越えた向こうには、素晴らしい未来が待っているから、大変だけど一緒に乗り越えて行こう。」と言いつつ、この子供達が将来苦しむ事が無いようにと祈るような気持ちだった。今でも、時々、あの時会った子供達の事が心に浮かぶ。元気で育って欲しいと念じる。きっと大丈夫だ、元気に育つと思った。 飯舘村の子供達にプレゼントを届けた武田康弘と教室の子供達↓ (株)ワニプラスの佐藤寿彦社長から、菅野村長の手記を出版してくれるとの親切な申し出があり8月に「美しい村に放射能が降った」を出版してくれた。...

レイモン・ペイネテーマパークIN美作

レイモン・ペイネテーマパークIN美作

宮本武蔵の故郷美作市レイモン・ペイネのテーマパーク、ヴァレンタインパーク 1988年岡山県美作市は(当時は英田郡作東町)はフランスの愛の村サン・バランタン(=聖バレンタイン村)と姉妹都市になり、それから10年がかりで愛をテーマの公園バレンタインパーク作東を作り、公園の中央に噴水池<愛の泉>とレイモン・ペイネ原作の<天使と恋人達>の像を置いた。バレンタインパーク内には愛をテーマのホテル、バレンタインホテルとレイモン・ペイネの恋人達の絵画や版画を収蔵した作東美術館、文化交流の館バレンタインプラザが建設された。作東美術館にはペイネの作品140点が収蔵されている。また、丘の上にはヨーロッパ風の鐘を頂く高さ30メートルの作東タワーつくられた。このバレンタインパーク作東はまさに、愛をテーマにしたテーマパークだ。       バレンタインパーク作東<天使と恋人達>  ペイネの作品を収蔵した作東美術館 の像と<愛の泉>     美作市立作東美術館   美術館内に展示されたペイネの作品     美術館内のロダン作<オルフェウス>像         美作市作東美術館の玄関 夫婦愛を象徴するギリシャ神話の紙  

レイモン・ペイネテーマパークIN美作

宮本武蔵の故郷美作市レイモン・ペイネのテーマパーク、ヴァレンタインパーク 1988年岡山県美作市は(当時は英田郡作東町)はフランスの愛の村サン・バランタン(=聖バレンタイン村)と姉妹都市になり、それから10年がかりで愛をテーマの公園バレンタインパーク作東を作り、公園の中央に噴水池<愛の泉>とレイモン・ペイネ原作の<天使と恋人達>の像を置いた。バレンタインパーク内には愛をテーマのホテル、バレンタインホテルとレイモン・ペイネの恋人達の絵画や版画を収蔵した作東美術館、文化交流の館バレンタインプラザが建設された。作東美術館にはペイネの作品140点が収蔵されている。また、丘の上にはヨーロッパ風の鐘を頂く高さ30メートルの作東タワーつくられた。このバレンタインパーク作東はまさに、愛をテーマにしたテーマパークだ。       バレンタインパーク作東<天使と恋人達>  ペイネの作品を収蔵した作東美術館 の像と<愛の泉>     美作市立作東美術館   美術館内に展示されたペイネの作品     美術館内のロダン作<オルフェウス>像         美作市作東美術館の玄関 夫婦愛を象徴するギリシャ神話の紙  

軽井沢ペイネ美術館

軽井沢ペイネ美術館

 軽井沢ペイネ美術館                              軽井沢のペイネ美術館は1985年にできた。オープンの時は、ペイネ夫妻も出席して式典が行われた。ペイネ美術館は軽井沢駅から2~3キロの所の塩沢湖を中心にした軽井沢タリアセンという総合文化施設の中にある。   ペイネ美術館前:ペイネ恋人達の彫刻   タリアセンには、ペイネ美術館以外では、軽井沢高原文庫、深沢紅子野の花美術館、睡鳩荘、イングリッシュローズガーデン、カフェ、レストランや湖上のボートなどが楽しめる。ペイネ美術館から始めて、タリアセンの魅力も紹介しよう。軽井沢は西洋人が発見した避暑地なので、いずれも西洋と深い関わりがある。   タリアセン内の地図     ペイネ美術館は旧帝国ホテル建設時に来日したアントニン・レーモンドが、昭和8年に建てた「軽井沢・夏の家」と呼ばれるアトリエ兼別荘を移築したもので、ペイネ美術館の建物も軽井沢の貴重な文化遺産となっている。   ペイネ美術館の展示品                  ペイネ美術館の建物 アントニン・レーモンド築   この涼し気な、軽井沢夏の家、ペイネ美術館には、ペイネのデッサン、不透明水彩、エッチング&リトグラフの版画、ポスター、ペイネの陶器、人形、などが展示されていると同時に、画集、ペイネのワイン、ペイネのグラス等のペイネグッズも販売している。パリで生まれたレイモン・ペイネの愛と平和の世界をここ軽井沢ペイネ美術館で堪能できる。     軽井沢高原文庫について   軽井沢高原文庫の建物                  軽井沢高原文庫の表示   明治、大正、昭和の文人達は西洋への憧れを軽井沢のイメージに重ねて、多くの作家、政治家、経済人が居住した。軽井沢に住んだ文学者、川端康成、有島武郎、野上弥生子、堀辰雄、室生犀星、立原道造、正宗白鳥などの手書き原稿を展示しているのが軽井沢高原文庫だ。その周りに、有島武夫別荘(浄月庵)、堀辰雄山荘、野上弥生子書斎などが移築されている。軽井沢の明るい自然に文化が調和した歴史を見る事が出来る。   有島武夫別荘(浄月庵)      野上弥生子書斎           堀辰雄山荘(1412番山荘)      

軽井沢ペイネ美術館

 軽井沢ペイネ美術館                              軽井沢のペイネ美術館は1985年にできた。オープンの時は、ペイネ夫妻も出席して式典が行われた。ペイネ美術館は軽井沢駅から2~3キロの所の塩沢湖を中心にした軽井沢タリアセンという総合文化施設の中にある。   ペイネ美術館前:ペイネ恋人達の彫刻   タリアセンには、ペイネ美術館以外では、軽井沢高原文庫、深沢紅子野の花美術館、睡鳩荘、イングリッシュローズガーデン、カフェ、レストランや湖上のボートなどが楽しめる。ペイネ美術館から始めて、タリアセンの魅力も紹介しよう。軽井沢は西洋人が発見した避暑地なので、いずれも西洋と深い関わりがある。   タリアセン内の地図     ペイネ美術館は旧帝国ホテル建設時に来日したアントニン・レーモンドが、昭和8年に建てた「軽井沢・夏の家」と呼ばれるアトリエ兼別荘を移築したもので、ペイネ美術館の建物も軽井沢の貴重な文化遺産となっている。   ペイネ美術館の展示品                  ペイネ美術館の建物 アントニン・レーモンド築   この涼し気な、軽井沢夏の家、ペイネ美術館には、ペイネのデッサン、不透明水彩、エッチング&リトグラフの版画、ポスター、ペイネの陶器、人形、などが展示されていると同時に、画集、ペイネのワイン、ペイネのグラス等のペイネグッズも販売している。パリで生まれたレイモン・ペイネの愛と平和の世界をここ軽井沢ペイネ美術館で堪能できる。     軽井沢高原文庫について   軽井沢高原文庫の建物                  軽井沢高原文庫の表示   明治、大正、昭和の文人達は西洋への憧れを軽井沢のイメージに重ねて、多くの作家、政治家、経済人が居住した。軽井沢に住んだ文学者、川端康成、有島武郎、野上弥生子、堀辰雄、室生犀星、立原道造、正宗白鳥などの手書き原稿を展示しているのが軽井沢高原文庫だ。その周りに、有島武夫別荘(浄月庵)、堀辰雄山荘、野上弥生子書斎などが移築されている。軽井沢の明るい自然に文化が調和した歴史を見る事が出来る。   有島武夫別荘(浄月庵)      野上弥生子書斎           堀辰雄山荘(1412番山荘)      

ギャルリー亜出果とレイモン・ペイネ

ギャルリー亜出果とレイモン・ペイネ

  レイモン・ペイネ版画と私    南フランスのラングドック地方の首都モンペリエは、大学都市として有名だ。特に医学部は歴史が古く、カルガンチュア物語を書いた中世の文学者フランソワ・ラブレーや日本でも20世紀後半に随分話題をまいた、ノストラダムスの大予言<le siecle>を書いたノストラダムスもモンペリエ大学の医学部で学んだ。 私は、1970年代にそのモンペリエで数年間をすごした。    上の写真は、モンペリエの風景週末に友人達と街中のアジア食料品店やスーパーマーケットに買い物に来ていたが、中心地のカフェは高いので横目で眺め散歩だけしていた。 市街地近くの伝統ある医学部や法学部ではなくて、町の郊外にある新設の文学部だ。町から少し隔離されるように、大規模なキャンパスと学生寮が建設され、フランスの国内外から来た学生が浮世離れした生活を送っていた。私もそのひとりで、社会学という日本に帰ってもあまり就職の無さそうな学部の学生だった。将来の事など何処吹く風。進級試験の事とか、今度の休みにどうやって金を使わないで旅行するかぐらいしか頭になかった。修士課程でパリに行くまでこの青い空と爽やかな空気の南仏の街でのんきに過ごした。日本からも結構留学生が来ていた。商社や外務省から1年の短期留学で来た人たちや私のように大学や大学院に通う人、大学を卒業して短期でくる人などがいた。    上記はモンペリエ大学のキャンパス。40年の歳月が流れた。    私が絵画の仕事を始めて数年後1990年頃に、その頃のフランス人の友達から便りが届いた。同じ大学の後輩が版画の仕事を始めたので力になって欲しいとの事。その後輩の版画商はアレクサンダー・トカールといって私より10歳ほど年少なので、私の学生時代にはあった事もない。私がパリに行った時、トカール君はパリまで私に会いに来た。当時まだ日本の地産グループが経営していた、チュイルリー公園脇のモンタボールというホテルの日本レストランで昼食を食べた。彼は箸が上手く使えなくて何度もこぼしていた。トカール君は柔道をやっていたので、先輩後輩の日本の秩序も良くわかり、その後一緒に食事するたびに、私が奢った。大学の先輩なので仕方がない。次の年に、ニースに住んでいる叔父さんのミュレ氏を紹介したいというので、ニースに行った。冬枯れのニースは観光客も数えるほどしかいなくて、町も海岸も閑散としている。夏とは別世界で、あちこちで咲き乱れるミモザの黄色い花がわずかに南フランスを感じさせる。花戦争があるとホテルのフロンドが言っていた。観光客を呼ぶイヴェントとして、どこからか大量の花を運んで来て投げ合うらしい。ミュレさんは、ニースの高台に住んでいて、一寸した金持ちだ。ミュレさんは通信教育教材で儲けたらしい。随分もうけた頃に法律が変わり、そのビジネスがあまり儲からなくなったので版画制作をはじめたそうだ。    1996年頃のトカールさんの結婚式。奥さんのドニーズさんは現在はスーパーマーケットチェーンの役員になっている。 ペイネの版画はミュレさんが手がけた。リトグラフ約40絵柄程とエッチチング12絵柄、ミュレさんは親切な人でニースの空港まで、トカール君と迎えに来てくれて、丘の上の高そうなレストランで昼食をご馳走してくれた。昼間からシャンペンを抜いてワインもしこたま飲んだ後、大型のベンツで自宅に連れて行ってくれた。その途中スピード違反で捕まり、ミュレさんは切符を切られた。不思議な事にそれともフランスでは当然なのか、飲酒運転は調べられもしない。余談だが、私は学生の頃、中古で買ったフイアットに乗っていた。中古なのでさすがに良く故障し、しょっちゅうガソリンスタンドやガレージに駆け込んだ。ある時ガソリンを給油しながら、タバコを吸っている人を目撃した。一瞬眼を疑った。次にフランスのガソリンは燃えないのかとも思った。昼間から心行くまでワインを飲んで車を運転し、ガソリンのそばでタバコを吸いながらフランス人は元気に幸福に生活している。フランスの歩行者用信号の青は渡れ、黄色は渡れ、赤は車が来ていなければ渡れ。私が赤信号で立ち止まっていると、病気なのかと心配して声を掛けてくれた人がいた。フランス人は親切な国民なのだ。 そのミュレさんも1992年頃に亡くなられた。私は再び、ニースに行きトカール君とミュレさんの倉庫で商売をした。当時40絵柄程のペイネのリトグラフが10、000枚程倉庫に眠っていた。私はありったけの金をかき集め、銀行から借金をし、4、000枚程買った。売れそうな絵柄は全部買って、残り6000枚程は少しずつ買う約束をした。あまり人気のない絵柄は、その後もトカール君が日本の業者やアメリカの業者に少しずつ売りつづけた。 1999年にペイネが亡くなったので、私は1000枚買い足した。トカール君がもっていた残りの版画も半年程で完売してしまった。トカール君は大分高く売って儲けたらしい。その後、トカール君やフランスの業者から私が買ったより大分高い金額で買いたいとの要望があった。 私は軽井沢プリンスショッピングプラザ内(後に軽井沢プリンスホテル内)の弊社直営店舗ギャラリーヴァンドフランスで少しづつ販売し、業者卸はしなかった。2015年弊社がギャラリーヴァンドフランスを閉廊して現在まだかなりの枚数を所有している。弊社で販売しているペイネの版画は、版元から買った正真正銘のオリジナル版画で作家の直筆サインと番号が入っている新品だ。現在私が世界で最も沢山ペイネの版画を所有しているコレクターとなった。ペイネのオリジナル版画はフランス、アメリカででも全く品切れとなり、買いたい人がたくさんいるらしい。日本では、長野県の軽井沢と岡山県の美作市にペイネ美術館があるが、フランスにもコートダジュールの一角アンチーブ市に美術館がある。アンティーブ市はペイネ美術館とピカソ美術館を市の観光資源として運営している。ペイネの恋人たちは世界のアイドルだ。私は値上げもせずに、12万円~15万円ぐらいで、本当にペイネの好きな人に少しづつ販売を続けている。  

ギャルリー亜出果とレイモン・ペイネ

  レイモン・ペイネ版画と私    南フランスのラングドック地方の首都モンペリエは、大学都市として有名だ。特に医学部は歴史が古く、カルガンチュア物語を書いた中世の文学者フランソワ・ラブレーや日本でも20世紀後半に随分話題をまいた、ノストラダムスの大予言<le siecle>を書いたノストラダムスもモンペリエ大学の医学部で学んだ。 私は、1970年代にそのモンペリエで数年間をすごした。    上の写真は、モンペリエの風景週末に友人達と街中のアジア食料品店やスーパーマーケットに買い物に来ていたが、中心地のカフェは高いので横目で眺め散歩だけしていた。 市街地近くの伝統ある医学部や法学部ではなくて、町の郊外にある新設の文学部だ。町から少し隔離されるように、大規模なキャンパスと学生寮が建設され、フランスの国内外から来た学生が浮世離れした生活を送っていた。私もそのひとりで、社会学という日本に帰ってもあまり就職の無さそうな学部の学生だった。将来の事など何処吹く風。進級試験の事とか、今度の休みにどうやって金を使わないで旅行するかぐらいしか頭になかった。修士課程でパリに行くまでこの青い空と爽やかな空気の南仏の街でのんきに過ごした。日本からも結構留学生が来ていた。商社や外務省から1年の短期留学で来た人たちや私のように大学や大学院に通う人、大学を卒業して短期でくる人などがいた。    上記はモンペリエ大学のキャンパス。40年の歳月が流れた。    私が絵画の仕事を始めて数年後1990年頃に、その頃のフランス人の友達から便りが届いた。同じ大学の後輩が版画の仕事を始めたので力になって欲しいとの事。その後輩の版画商はアレクサンダー・トカールといって私より10歳ほど年少なので、私の学生時代にはあった事もない。私がパリに行った時、トカール君はパリまで私に会いに来た。当時まだ日本の地産グループが経営していた、チュイルリー公園脇のモンタボールというホテルの日本レストランで昼食を食べた。彼は箸が上手く使えなくて何度もこぼしていた。トカール君は柔道をやっていたので、先輩後輩の日本の秩序も良くわかり、その後一緒に食事するたびに、私が奢った。大学の先輩なので仕方がない。次の年に、ニースに住んでいる叔父さんのミュレ氏を紹介したいというので、ニースに行った。冬枯れのニースは観光客も数えるほどしかいなくて、町も海岸も閑散としている。夏とは別世界で、あちこちで咲き乱れるミモザの黄色い花がわずかに南フランスを感じさせる。花戦争があるとホテルのフロンドが言っていた。観光客を呼ぶイヴェントとして、どこからか大量の花を運んで来て投げ合うらしい。ミュレさんは、ニースの高台に住んでいて、一寸した金持ちだ。ミュレさんは通信教育教材で儲けたらしい。随分もうけた頃に法律が変わり、そのビジネスがあまり儲からなくなったので版画制作をはじめたそうだ。    1996年頃のトカールさんの結婚式。奥さんのドニーズさんは現在はスーパーマーケットチェーンの役員になっている。 ペイネの版画はミュレさんが手がけた。リトグラフ約40絵柄程とエッチチング12絵柄、ミュレさんは親切な人でニースの空港まで、トカール君と迎えに来てくれて、丘の上の高そうなレストランで昼食をご馳走してくれた。昼間からシャンペンを抜いてワインもしこたま飲んだ後、大型のベンツで自宅に連れて行ってくれた。その途中スピード違反で捕まり、ミュレさんは切符を切られた。不思議な事にそれともフランスでは当然なのか、飲酒運転は調べられもしない。余談だが、私は学生の頃、中古で買ったフイアットに乗っていた。中古なのでさすがに良く故障し、しょっちゅうガソリンスタンドやガレージに駆け込んだ。ある時ガソリンを給油しながら、タバコを吸っている人を目撃した。一瞬眼を疑った。次にフランスのガソリンは燃えないのかとも思った。昼間から心行くまでワインを飲んで車を運転し、ガソリンのそばでタバコを吸いながらフランス人は元気に幸福に生活している。フランスの歩行者用信号の青は渡れ、黄色は渡れ、赤は車が来ていなければ渡れ。私が赤信号で立ち止まっていると、病気なのかと心配して声を掛けてくれた人がいた。フランス人は親切な国民なのだ。 そのミュレさんも1992年頃に亡くなられた。私は再び、ニースに行きトカール君とミュレさんの倉庫で商売をした。当時40絵柄程のペイネのリトグラフが10、000枚程倉庫に眠っていた。私はありったけの金をかき集め、銀行から借金をし、4、000枚程買った。売れそうな絵柄は全部買って、残り6000枚程は少しずつ買う約束をした。あまり人気のない絵柄は、その後もトカール君が日本の業者やアメリカの業者に少しずつ売りつづけた。 1999年にペイネが亡くなったので、私は1000枚買い足した。トカール君がもっていた残りの版画も半年程で完売してしまった。トカール君は大分高く売って儲けたらしい。その後、トカール君やフランスの業者から私が買ったより大分高い金額で買いたいとの要望があった。 私は軽井沢プリンスショッピングプラザ内(後に軽井沢プリンスホテル内)の弊社直営店舗ギャラリーヴァンドフランスで少しづつ販売し、業者卸はしなかった。2015年弊社がギャラリーヴァンドフランスを閉廊して現在まだかなりの枚数を所有している。弊社で販売しているペイネの版画は、版元から買った正真正銘のオリジナル版画で作家の直筆サインと番号が入っている新品だ。現在私が世界で最も沢山ペイネの版画を所有しているコレクターとなった。ペイネのオリジナル版画はフランス、アメリカででも全く品切れとなり、買いたい人がたくさんいるらしい。日本では、長野県の軽井沢と岡山県の美作市にペイネ美術館があるが、フランスにもコートダジュールの一角アンチーブ市に美術館がある。アンティーブ市はペイネ美術館とピカソ美術館を市の観光資源として運営している。ペイネの恋人たちは世界のアイドルだ。私は値上げもせずに、12万円~15万円ぐらいで、本当にペイネの好きな人に少しづつ販売を続けている。  

アンチーブ市立のペイネ美術館

アンチーブ市立のペイネ美術館

  2019年11月15日  4回目のペイネ美術館訪問となった。今回のフランス出張は5泊+飛行機内1泊のショートステイだった。パリに3泊、ニースに2泊でペイネ美術館に行き、ペイネの娘アニー・ペイネとペイネ美術館のグジョン館長とあってきた。アンチーブのペイネ美術館も益々充実してきた。         中国では、ペイネが半世紀以上以前に制作して、世界中で発売された人形を、最近中国のメーカーが製作して中国で発売されたが、品質がいまいちと、アニー・ペイネもグジョン館長も嘆いていた。半世紀前、フランスで制作された人形は、散逸していて、このペイネ美術館に少しあるのと、モナコ公国が全ての種類を収蔵しているのみらしい。ペイネ美術館はモナコ公国に人形を譲って欲しいと、何回も交渉したが、モナコ公国が応じなし。仕方がないので、中国製の人形も美術館に飾ってあった。   <小鳥の市場>ご購入ご希望の方は画像をクリックしてください。 中国の12億人がペイネに目し始めたとの事で、このペイネ美術館に来る中国人が最近急増しているとの事。アニー・ペイネも弊社が所有しているペイネのオリジナルリトグラフをもう各3まいづつしかもっていないらしい。つまり、オリジナルリトグラフは貴重になっている。インターネット、ペイネの死後に刷られ、ペイネ自身のサインではなく、サインが印刷された版画が出回っているのでご注意してください。 弊社が所有販売しているは、1985年頃、レイモン・ペイネの親友でリトグラフの版元で会った、ミュレ氏が製作して、レイモン・ペイネ自身がサインしたオリジナル作品で新品です。   購入の方は画像をクリックしてください。<恋のキャッチボール>     アニー・ペイネとアンチーブ ペイネ美術館 グジョン館長2019 11 左にレイモン・ペイネと イタリアの国民的女優ソフィア・ローレン その斜め上はレイモン・ペイネ モナコ公国のグレース・ケリー王女(元アメリカ女優)   美術館前の広場に、ペイネの恋人達の像が立ち、ペイネのキオスクも作られた、アニー・ペイネは少し、原料に成功したらしい。このペイネ美術館にくる外国人の中では、日本人の比率がかなり高いらしい。最近、韓国で大々的にペイネ展が開催されたらしい。    秋のヴィオロン  購入希望の方は画像をクリックしてください。 購入ご希望の方は画像をクリックしてください。    

アンチーブ市立のペイネ美術館

  2019年11月15日  4回目のペイネ美術館訪問となった。今回のフランス出張は5泊+飛行機内1泊のショートステイだった。パリに3泊、ニースに2泊でペイネ美術館に行き、ペイネの娘アニー・ペイネとペイネ美術館のグジョン館長とあってきた。アンチーブのペイネ美術館も益々充実してきた。         中国では、ペイネが半世紀以上以前に制作して、世界中で発売された人形を、最近中国のメーカーが製作して中国で発売されたが、品質がいまいちと、アニー・ペイネもグジョン館長も嘆いていた。半世紀前、フランスで制作された人形は、散逸していて、このペイネ美術館に少しあるのと、モナコ公国が全ての種類を収蔵しているのみらしい。ペイネ美術館はモナコ公国に人形を譲って欲しいと、何回も交渉したが、モナコ公国が応じなし。仕方がないので、中国製の人形も美術館に飾ってあった。   <小鳥の市場>ご購入ご希望の方は画像をクリックしてください。 中国の12億人がペイネに目し始めたとの事で、このペイネ美術館に来る中国人が最近急増しているとの事。アニー・ペイネも弊社が所有しているペイネのオリジナルリトグラフをもう各3まいづつしかもっていないらしい。つまり、オリジナルリトグラフは貴重になっている。インターネット、ペイネの死後に刷られ、ペイネ自身のサインではなく、サインが印刷された版画が出回っているのでご注意してください。 弊社が所有販売しているは、1985年頃、レイモン・ペイネの親友でリトグラフの版元で会った、ミュレ氏が製作して、レイモン・ペイネ自身がサインしたオリジナル作品で新品です。   購入の方は画像をクリックしてください。<恋のキャッチボール>     アニー・ペイネとアンチーブ ペイネ美術館 グジョン館長2019 11 左にレイモン・ペイネと イタリアの国民的女優ソフィア・ローレン その斜め上はレイモン・ペイネ モナコ公国のグレース・ケリー王女(元アメリカ女優)   美術館前の広場に、ペイネの恋人達の像が立ち、ペイネのキオスクも作られた、アニー・ペイネは少し、原料に成功したらしい。このペイネ美術館にくる外国人の中では、日本人の比率がかなり高いらしい。最近、韓国で大々的にペイネ展が開催されたらしい。    秋のヴィオロン  購入希望の方は画像をクリックしてください。 購入ご希望の方は画像をクリックしてください。