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私がフランス絵画商になった理由 ギャルリー亜出果 武田康弘
高校春休みのサイクリング 私は岡山市からさらに、急行列車で1時間程日本海の方に行った中国山地の麓の新見市で生まれ育った。高校2年から3年になる春休みに友人と二人で四国半周のサイクリングに出かけた。 お問い合わせは:03-5848-8605 又は右下チャット lineでどうぞ 新見市写真↓ 瀬戸大橋の無い時代なので、宇野港から高松までフェリーで四国に渡った。四国山地を横断して高知市、土佐清水市と太平洋側を回り、海岸沿いを愛媛県に入り、宇和島、松山、新居浜を回り、四国の出発点の高松に戻った所で、自転車を高松に置き、小豆島に行く友人と別れ淡路島に渡った。淡路島のユースホステルで女子大生と友達になり、一緒に島を回った。 高校生の私は自分の存在の意義、生きる意味をしきりに考えていて、大学は思想関係の学科に行こうと思っていた。私の人生の意味、存在の意義といった根源的な疑問に何等かの応えを探したいと思っていたからだ。 フランスの哲学者アルベール・カミュとの出会い 東京生まれの大学生の彼女は、そんな田舎の高校生の私を面白がっていろんな話をした。彼女は、私にアルベール・カミュの「シジフォスの神話」を読むように進めた。アルベール・カミュはアルジェリア帰りのフランス人作家で彼の思想は<不条理の哲学>となずけられていた。 アルベール・カミュ写真↓ シジフォスの神話に書かれている思想は簡単で、人間の存在には意味はなく、無意味な事を繰り返している不条理な存在でしかないという虚無的なものだ。やはり実存哲学者に分類される19世紀の哲学者ニーチェは<神は死んだ>という有名な言葉をのこしている。つまり、存在の根拠となる絶対的な神が存在しないなら、私の存在に意味を与えるものは無いという事になる。 カミュの小説<異邦人>や<ペスト>は不条理な状況の中で人間が翻弄されて生きる姿が描かれているが、私がその物語から読み取るのは、戦前のモラルが破壊された戦後という時代の雰囲気だ。<異邦人>の主人公は、養老院で死んだ母の葬式の帰りに、海に行き太陽と光を満喫し、水浴びを楽しみ、偶然海辺で会った会社の同僚の女性とセックスをし、その後偶然であったアラブ人の若者と喧嘩になり殺してしまう。 法廷では喧嘩でアラブ人を殺めた事より、母親の葬式の日に、喪に服すこともなく、海で遊び、恋人でもない女友達とセックスをするという、きわめて不道徳な態度が裁判館の不興を買う。しかも、なぜ殺したのかとの裁判官の質問に、<太陽が眩しかったから>と反省を微塵も感じさせない応えをし、死刑を宣告される。 死刑の前日、牧師が来て懺悔させようとするが、彼は拒否する。彼の心が乱れる事はない。彼が、その牢獄の窓から星を見、刑務所のサイレンを聞く様子が描写されている。彼は、明日死刑になる恐怖、不安、絶望より、その夜の静寂と暖かく甘い空気の心地よさ、海の香りと,美しい星空を感じて、それらに生の歓びを感じている。 この部分を読むと、生命の讃歌、地中海讃歌とも思える抒情的な描写になっている。神が消滅し、意味もなく生きる私達の虚無的なはずの生が実は、一瞬一瞬美しく歓びに満ちていると言っているように思える。キリスト教にとっての虚無主義ニヒリズムが実は生命への讃歌になる。 アルベール・カミュ異邦人↓ 太陽の光、海の煌めき、女性の柔らかい肌、吐息、微風に揺れる樹木、全てが生命の歓びを感じさせる。永遠の命、普遍的な意味と決別して、生命が美しく歓びに満ち、一瞬一瞬が生きるに値する。その判断をくだすのは、神でも、永遠でも無く、明日死刑になる若者なのだ。裁判官はその生の歓びを生きる主人公の青年を、不道徳と断じて死刑にする。 アルベール・カミュからフランス文学へ この小説は、不条理の哲学というより、ヨーロッパでもアメリカでも日本でも、戦前の価値観が崩壊して新しい価値観が登場した時代を映した作品だ。 カミュは、戦後から1970年代まで世界思想の大きな潮流だったフランス実存主義思想家の一人でやはりフランス人のジャンポール・サルトルと並び称されていた。当時はフランスの思想家は世界の最先端だった。 カミュ、サルトル、以外にもミッシェル・フーコー、ジョルジュ・バターユなど学生を中心に若い人達に読まれていた。 高校生の私は、カミュやサルトルを読みながら、私の存在にも、人生にも意味はなく世界は不条理に存在するのだ、私は宇宙に偶然投げ出された無意味な存在で石ころ以上の価値はないのだと理解した。 それと同時に、カミュ、サルトルから始まり、ランボー、ボードレール、ルッソーなどフランス文学とドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどロシア文学、アメリカ文学まで耽読した。日本の近現代文学も読み漁った。 ...
私がフランス絵画商になった理由 ギャルリー亜出果 武田康弘
高校春休みのサイクリング 私は岡山市からさらに、急行列車で1時間程日本海の方に行った中国山地の麓の新見市で生まれ育った。高校2年から3年になる春休みに友人と二人で四国半周のサイクリングに出かけた。 お問い合わせは:03-5848-8605 又は右下チャット lineでどうぞ 新見市写真↓ 瀬戸大橋の無い時代なので、宇野港から高松までフェリーで四国に渡った。四国山地を横断して高知市、土佐清水市と太平洋側を回り、海岸沿いを愛媛県に入り、宇和島、松山、新居浜を回り、四国の出発点の高松に戻った所で、自転車を高松に置き、小豆島に行く友人と別れ淡路島に渡った。淡路島のユースホステルで女子大生と友達になり、一緒に島を回った。 高校生の私は自分の存在の意義、生きる意味をしきりに考えていて、大学は思想関係の学科に行こうと思っていた。私の人生の意味、存在の意義といった根源的な疑問に何等かの応えを探したいと思っていたからだ。 フランスの哲学者アルベール・カミュとの出会い 東京生まれの大学生の彼女は、そんな田舎の高校生の私を面白がっていろんな話をした。彼女は、私にアルベール・カミュの「シジフォスの神話」を読むように進めた。アルベール・カミュはアルジェリア帰りのフランス人作家で彼の思想は<不条理の哲学>となずけられていた。 アルベール・カミュ写真↓ シジフォスの神話に書かれている思想は簡単で、人間の存在には意味はなく、無意味な事を繰り返している不条理な存在でしかないという虚無的なものだ。やはり実存哲学者に分類される19世紀の哲学者ニーチェは<神は死んだ>という有名な言葉をのこしている。つまり、存在の根拠となる絶対的な神が存在しないなら、私の存在に意味を与えるものは無いという事になる。 カミュの小説<異邦人>や<ペスト>は不条理な状況の中で人間が翻弄されて生きる姿が描かれているが、私がその物語から読み取るのは、戦前のモラルが破壊された戦後という時代の雰囲気だ。<異邦人>の主人公は、養老院で死んだ母の葬式の帰りに、海に行き太陽と光を満喫し、水浴びを楽しみ、偶然海辺で会った会社の同僚の女性とセックスをし、その後偶然であったアラブ人の若者と喧嘩になり殺してしまう。 法廷では喧嘩でアラブ人を殺めた事より、母親の葬式の日に、喪に服すこともなく、海で遊び、恋人でもない女友達とセックスをするという、きわめて不道徳な態度が裁判館の不興を買う。しかも、なぜ殺したのかとの裁判官の質問に、<太陽が眩しかったから>と反省を微塵も感じさせない応えをし、死刑を宣告される。 死刑の前日、牧師が来て懺悔させようとするが、彼は拒否する。彼の心が乱れる事はない。彼が、その牢獄の窓から星を見、刑務所のサイレンを聞く様子が描写されている。彼は、明日死刑になる恐怖、不安、絶望より、その夜の静寂と暖かく甘い空気の心地よさ、海の香りと,美しい星空を感じて、それらに生の歓びを感じている。 この部分を読むと、生命の讃歌、地中海讃歌とも思える抒情的な描写になっている。神が消滅し、意味もなく生きる私達の虚無的なはずの生が実は、一瞬一瞬美しく歓びに満ちていると言っているように思える。キリスト教にとっての虚無主義ニヒリズムが実は生命への讃歌になる。 アルベール・カミュ異邦人↓ 太陽の光、海の煌めき、女性の柔らかい肌、吐息、微風に揺れる樹木、全てが生命の歓びを感じさせる。永遠の命、普遍的な意味と決別して、生命が美しく歓びに満ち、一瞬一瞬が生きるに値する。その判断をくだすのは、神でも、永遠でも無く、明日死刑になる若者なのだ。裁判官はその生の歓びを生きる主人公の青年を、不道徳と断じて死刑にする。 アルベール・カミュからフランス文学へ この小説は、不条理の哲学というより、ヨーロッパでもアメリカでも日本でも、戦前の価値観が崩壊して新しい価値観が登場した時代を映した作品だ。 カミュは、戦後から1970年代まで世界思想の大きな潮流だったフランス実存主義思想家の一人でやはりフランス人のジャンポール・サルトルと並び称されていた。当時はフランスの思想家は世界の最先端だった。 カミュ、サルトル、以外にもミッシェル・フーコー、ジョルジュ・バターユなど学生を中心に若い人達に読まれていた。 高校生の私は、カミュやサルトルを読みながら、私の存在にも、人生にも意味はなく世界は不条理に存在するのだ、私は宇宙に偶然投げ出された無意味な存在で石ころ以上の価値はないのだと理解した。 それと同時に、カミュ、サルトルから始まり、ランボー、ボードレール、ルッソーなどフランス文学とドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどロシア文学、アメリカ文学まで耽読した。日本の近現代文学も読み漁った。 ...
絵画の価値
2006年の夏に関西の某百貨店に商談で行き、担当者がくるまで、画廊でぶらぶらしていた。総合展だったので、日本の物故作家を中心に展示してあった。不細工な裸婦の絵が掛けてあって、こんな下手糞な絵なんか誰が買うものか、3流週刊誌のヌード写真の方がまだ魅力があると思った。作家名を見て驚いた、20世紀初頭に生まれ、フランスに留学し、文化勲章も貰った作家で、私でさえ名前は知っている。以前、福岡市の県立美術館に行って、ヴラマンクの絵の前に行ったらやはりその作家の名前が書いてあった。何で、ヴラマンクの絵に日本人の作家の名前が書いてあるのだろうと不思議に思っていたら、説明書きにヴラマンクに師事した○○と書いて有った。 その不細工でデブの女のヌードは20号ぐらいで、2000万円の値段が付いていた。当社の天才画家ミッシェル・アンリの油彩画20号が250万円で、これが2000万円もするのか不思議に思った。それから、また新幹線に1時間程乗り、別の百貨店の担当者と夕食を一緒にした時、その絵の話をしたら、20号で2000万円では安すぎるから、多分パステルか水彩であろうとの事。油彩なら1億ぐらいはするそうだ。そんなバナナ。そうしたら、ミッシェル・アンリの油彩を50枚買える。 その文化勲章作家に何の悪意も無いけれど、あほらしくてまた、羨ましくて、でも仕方が無いと思い。盃に日本酒を、たっぷりついで、不思議に思う気持ちを一緒に胃の中に流し込んだ。その、百貨店の担当者にとっては当たり前の事を私が知らないだけだった。日本の画商連中の常識を私が知らないだけだった。聞け我が名を。ドン・キ・ホーテ。 さあ、玉葱の皮を剥こう。まず、マーケット有きである。つまり、お金のある人がいるのだ。お金持ちが高い車も買い、へリコプターや、飛行機まで持っていたり、ついでにゴルフ場も持っていたり、愛人も囲っているかも知れない。そういう人達は、庶民がしない贅沢をしたがり、庶民が持たないものを持ちたがる。バランス感覚からいっても、20億円の家に200万円の絵画は安すぎる。家に訪ねてきた人が、その家の豪華さにため息をつき、調度品の格調の高さに驚きと尊敬を表す。絵画だけ、200万円ではバランスが取れないし、来た人に尊敬と驚愕の念を起こさせる事が出来ない。 そこで、名前の通った物故作家の登場となる。あの、高校の美術の教科書にも登場する、ヨーロッパにも留学した、文化勲章の、日本画壇を築いた・・・と歴史的修飾語には事欠かないこの人たちの絵が必要になる。絵画の質は2の次である。日本人は温順な国民で、私は同国民として最大限の敬意と好意を感じている。社会の歯車を円滑に回すために、私達の温順さがどれだけ、役に立っているか考えた時、賞賛を禁じえない。しかし、どんな物にも負の部分がある。温順な日本人は絵を見る前に、すでに帽子を脱いでいる。女性の顔も見ない内に評判だけ聞いて惚れてしまうようなものだ。生身の女性であれば、幾ら自分の価値観や美観に自信の無い男でも、いくら、温順な男でも、ブスか美人かぐらいは判断がつく。ブスでも財産が有るから結婚する場合もあるが、これは又別問題だ。もちろん、ブスで、性格がよかったり、頭が良く能力が高いからと結婚したりする。(私は外見の美しさだけで女性を判断してはいけないと思う。誤解の無いように。)ところが、絵の場合はお金持ちも審美眼に自信が無いので、目をつぶって買うのだ。そして、画商が並べる薀蓄を覚えて、自分も他の人に説明する。この絵が美しいという根拠のない前提で商談が進む。この絵の良さを理解しない奴が馬鹿なのである。ブスでデブの女のヌードを見ながら、皆がため息をつき、驚きと尊敬を表す。私は馬鹿で結構。こんな、不細工なヌードなどゴミ箱に捨ててやる。いや、買う人がいれば売って一儲けしようか。幸い、私はこの絵を買う事も売る事もしない。つまり、あらゆる意味で蚊帳の外なのだ。 蚊帳の外で叫ぶ。ミッシェル・アンリは天才だと。クチュールの花も風景もなんと美しく、私をうっとりさせるかと叫ぶ。ピエルマテオの描くメルヘン世界に住みたいと思う。ジェベールの原野の風景がどれだけ私の心を和ませるか。リュバロの画くブーケの山野の風景の強烈な色彩を日本画家の誰かが、真似する時が来るだろうと。私は蚊帳の外で叫び続ける。その内、蚊帳が移動して私の周りを取り囲む日が来るであろう。それとも、来ないであろう。どちらでもいい。挑戦し続ける。私には確信がある。何故なら、感動があるから。感動のない芸術が有るのであろうか。
絵画の価値
2006年の夏に関西の某百貨店に商談で行き、担当者がくるまで、画廊でぶらぶらしていた。総合展だったので、日本の物故作家を中心に展示してあった。不細工な裸婦の絵が掛けてあって、こんな下手糞な絵なんか誰が買うものか、3流週刊誌のヌード写真の方がまだ魅力があると思った。作家名を見て驚いた、20世紀初頭に生まれ、フランスに留学し、文化勲章も貰った作家で、私でさえ名前は知っている。以前、福岡市の県立美術館に行って、ヴラマンクの絵の前に行ったらやはりその作家の名前が書いてあった。何で、ヴラマンクの絵に日本人の作家の名前が書いてあるのだろうと不思議に思っていたら、説明書きにヴラマンクに師事した○○と書いて有った。 その不細工でデブの女のヌードは20号ぐらいで、2000万円の値段が付いていた。当社の天才画家ミッシェル・アンリの油彩画20号が250万円で、これが2000万円もするのか不思議に思った。それから、また新幹線に1時間程乗り、別の百貨店の担当者と夕食を一緒にした時、その絵の話をしたら、20号で2000万円では安すぎるから、多分パステルか水彩であろうとの事。油彩なら1億ぐらいはするそうだ。そんなバナナ。そうしたら、ミッシェル・アンリの油彩を50枚買える。 その文化勲章作家に何の悪意も無いけれど、あほらしくてまた、羨ましくて、でも仕方が無いと思い。盃に日本酒を、たっぷりついで、不思議に思う気持ちを一緒に胃の中に流し込んだ。その、百貨店の担当者にとっては当たり前の事を私が知らないだけだった。日本の画商連中の常識を私が知らないだけだった。聞け我が名を。ドン・キ・ホーテ。 さあ、玉葱の皮を剥こう。まず、マーケット有きである。つまり、お金のある人がいるのだ。お金持ちが高い車も買い、へリコプターや、飛行機まで持っていたり、ついでにゴルフ場も持っていたり、愛人も囲っているかも知れない。そういう人達は、庶民がしない贅沢をしたがり、庶民が持たないものを持ちたがる。バランス感覚からいっても、20億円の家に200万円の絵画は安すぎる。家に訪ねてきた人が、その家の豪華さにため息をつき、調度品の格調の高さに驚きと尊敬を表す。絵画だけ、200万円ではバランスが取れないし、来た人に尊敬と驚愕の念を起こさせる事が出来ない。 そこで、名前の通った物故作家の登場となる。あの、高校の美術の教科書にも登場する、ヨーロッパにも留学した、文化勲章の、日本画壇を築いた・・・と歴史的修飾語には事欠かないこの人たちの絵が必要になる。絵画の質は2の次である。日本人は温順な国民で、私は同国民として最大限の敬意と好意を感じている。社会の歯車を円滑に回すために、私達の温順さがどれだけ、役に立っているか考えた時、賞賛を禁じえない。しかし、どんな物にも負の部分がある。温順な日本人は絵を見る前に、すでに帽子を脱いでいる。女性の顔も見ない内に評判だけ聞いて惚れてしまうようなものだ。生身の女性であれば、幾ら自分の価値観や美観に自信の無い男でも、いくら、温順な男でも、ブスか美人かぐらいは判断がつく。ブスでも財産が有るから結婚する場合もあるが、これは又別問題だ。もちろん、ブスで、性格がよかったり、頭が良く能力が高いからと結婚したりする。(私は外見の美しさだけで女性を判断してはいけないと思う。誤解の無いように。)ところが、絵の場合はお金持ちも審美眼に自信が無いので、目をつぶって買うのだ。そして、画商が並べる薀蓄を覚えて、自分も他の人に説明する。この絵が美しいという根拠のない前提で商談が進む。この絵の良さを理解しない奴が馬鹿なのである。ブスでデブの女のヌードを見ながら、皆がため息をつき、驚きと尊敬を表す。私は馬鹿で結構。こんな、不細工なヌードなどゴミ箱に捨ててやる。いや、買う人がいれば売って一儲けしようか。幸い、私はこの絵を買う事も売る事もしない。つまり、あらゆる意味で蚊帳の外なのだ。 蚊帳の外で叫ぶ。ミッシェル・アンリは天才だと。クチュールの花も風景もなんと美しく、私をうっとりさせるかと叫ぶ。ピエルマテオの描くメルヘン世界に住みたいと思う。ジェベールの原野の風景がどれだけ私の心を和ませるか。リュバロの画くブーケの山野の風景の強烈な色彩を日本画家の誰かが、真似する時が来るだろうと。私は蚊帳の外で叫び続ける。その内、蚊帳が移動して私の周りを取り囲む日が来るであろう。それとも、来ないであろう。どちらでもいい。挑戦し続ける。私には確信がある。何故なら、感動があるから。感動のない芸術が有るのであろうか。
21世紀のフランス画家
20世紀の後半に日本で有名になった画家達、ベルナール・ビュッフェもカトランも、ブラジリエ、ミッシェル・アンリ、カシニョールも彼ら先生の、シャプラン。ミディもモーリス・ブリアンションも皆、国立パリ高等美術学校出身(通称ボザール)だ。唯一例外はジャンセンで、彼はアルバニアの移民の子供で、モンパルナの夜間デッサン学校の出身だ。そのため、私はパリの国立美術学校は優れた画家の養成所だと思い込んでいた。 フランスで画家に会っても、なかなかボザール出身者に出会わない。殆どの画家が、(autodidacte)独学だ。ボザール出身の画家は何処にいるのだろうと不思議に思いつつ数年が過ぎた。最近、ボザール出身の2人の画家と仕事を始めた。マルチーフ・デラロフとフランシス・ベランジェールだ。二人とも、教養のある画家で、デラロフはルサロン(フランス画家協会の会長。ベランジェールは絵画部門の会長だ。二人ともボザールの出身だ。ここで、少しフランスのサロンの説明をしおこう。 前述のル・サロン(フランス芸術家協会)は17世紀にルイ14世の元、宰相コルベールが創立したフランスで最も古い公募展だ。絵画のマーケットは17世紀に遡る。16世紀頃までは、画家は職人で、王国貴族、教会や富豪に頼まれて、注文で壁画や肖像画を中心に描いていた。その為に画家はヨーロッパ中を旅して、顧客の元に出向いて描いた。 17世紀になって徒弟制度などもだんだん崩れてきて、画家は描き貯めた絵画を、市場で売ったり、大きな町に絵画を売るギャラリーが出現し始めた。流通商品としての絵画マーケットの始まりだ。そういった時代背景の中で、ルイ王朝がル・サロンを年に1回開催した。ル・サロンの審査員達は応募してきた画家達を選別して、出来の良い作品のみに出展を許可した。当時は出展された絵画はすべて、王室が買い取って所蔵した。画家達は、毎年こぞってその年の代表作をル・サロンに送った。その後1789年にフランス革命が起こり、ルイ王王朝の消滅に伴い、ル・サロンも開催されなくなった。ルイ16世もマリー・アントワネットも処刑され、最後には数千人を断頭台に送ったロベスピエールもギロチンに掛けられ、嵐のような10年が過ぎた後1799年に、ル・サロンは開催された。その時の主催者は王室ではなく、民間団体のフランス芸術家協会だ。200年後の今日もやはりフランス芸術家協会が主催してル・サロンを開催している。国立美術協会もそのサロンの流を引いている。フランス共和国が開催しているサロンだ。サロン・デ・アンデパンダンも名前は有名である。19世紀にサロンに選ばれなかった画家達が、保守的な審査員に対抗して直接来場者に評価してもらおうと、審査員を置かない1884年にサロン・デ・アンデパンダンを作った。ジョルジュ・スーラーやポール・シニャック、アンリ・ルソーなどが有名だ。サロン・ドートンヌは1903年に、保守的なフランス芸術家協会と国立美術協会に対抗して、マチス、ルオー、マルケ、ボナール錚々たる画家達が創立した。その後、モジリアーニ、セザンヌ、ピカソ、ブラック、ルノワール、ミロ、ユトリロ、ブラマンク、ルドン、ヴァン・ドンゲンなどが加わった。戦後できた、サロン・デ・コンパレゾンはフランスの画家と外国の画家の交流を目的として創立された。その他に水彩画とデッサン展には油彩以外の絵画を出展する。大体この5団体がフランスで中心的なサロンだ。 つまり、デラロフもベランジェールもその伝統あるル・サロンの会長だ。二人ともオリジナリティのある絵画を描く。ベランジェールはボザールで教鞭を取る教授でもある。そのベランジェーがぼやくのだ。「最近の学生25歳にもなっても大した絵画が描けない。やる気も感じられない。ルネッサンスの頃の画家達は皆20代であれだけの作品を生み出してる。この現象をどう説明すればいいのだろうか。」をしきりに、嘆いている。フランスではオフレコだ。つまり、最近はパリのボザールは優秀な画家の養成所である事をやめているようだ。20世紀の後半以降多くの半芸術の分野が誕生した。以前絵画なども入れて7芸術を言われていた。つまり、芸術分野は絵画・彫刻、音楽、詩・文学、ダンス、演劇など6分野で最後に映画まで入れて、7分野になった。ところが、最近は、商業デザイン、工業デザイン、イヴェント、ファッション、アニメまで芸術性が問われるようになっている。画家は個人事業主だ。もちろん、音楽家、文学者なども個人経営だ。ところが、デザインや、イヴェント、ファッションなどの新しい分野は、半芸術ではあるが、バックに巨大資本がついている。学生達は生活の保障の無い、個人事業主になるより大企業に就職したがる。もちろん、出版関係や学校の先生などアカデミックな就職先もある。あえて、リスクの多い画家には成りたがらない。つまり、美術学校は画家の養成所ではなくなってしました。 確かに芸術の分野は絵画に限らず、才能と情熱で勝負する世界であり、学歴は大切ではないだろう。他の分野であれば、学校で習った事が、そのまま役に立ったり学歴でコネクションが出来たりするが、画家は絵画がうまくなければ幾ら学歴があっても、コネクションがあっても、勝負にならない。音楽も文学も映画などもそうであろう。映画の分野でも、黒沢明などは、京華商業高校の出身で大学を出ていない、天才北野武も2流処の私立大学を中退している。詩人の立原道造など、東大の建築学科を卒業しているが、詩は下手糞だ。味の付いていない綿菓子を食べているような詩だ。軽井沢という20世紀に出来た避暑地の魅力が彼の詩の魅力と勘違いされているようだ。建築家と言えば、安藤忠雄などは高卒でボクサー出身だが、世界中で安藤忠雄の名前をしらない建築家はいない。私は、安藤忠雄の講演を聞いた事があるが、しゃべりも天才的だ。 つまり、絵画を含む芸術の分野は、才能と情熱で勝負する世界であり、学歴はそれほど意味がない。そういう意味では、最近のフランスの画家が独学であるのに異論はない。特に、20世紀の後半以降は、色々方法な絵画を習い感性を磨く事が出来る。美術学校だけが、絵画のテクニックの習得の場所ではない、むしろ学校以外のところに、インスピレーションを刺激される事の方が多いだろう。それぞれの画家のテクニックは企業秘密で、画家は公開しない場合が多い。才能と情熱があれば、必要に応じたテクニックを画家は学び生み出す。
21世紀のフランス画家
20世紀の後半に日本で有名になった画家達、ベルナール・ビュッフェもカトランも、ブラジリエ、ミッシェル・アンリ、カシニョールも彼ら先生の、シャプラン。ミディもモーリス・ブリアンションも皆、国立パリ高等美術学校出身(通称ボザール)だ。唯一例外はジャンセンで、彼はアルバニアの移民の子供で、モンパルナの夜間デッサン学校の出身だ。そのため、私はパリの国立美術学校は優れた画家の養成所だと思い込んでいた。 フランスで画家に会っても、なかなかボザール出身者に出会わない。殆どの画家が、(autodidacte)独学だ。ボザール出身の画家は何処にいるのだろうと不思議に思いつつ数年が過ぎた。最近、ボザール出身の2人の画家と仕事を始めた。マルチーフ・デラロフとフランシス・ベランジェールだ。二人とも、教養のある画家で、デラロフはルサロン(フランス画家協会の会長。ベランジェールは絵画部門の会長だ。二人ともボザールの出身だ。ここで、少しフランスのサロンの説明をしおこう。 前述のル・サロン(フランス芸術家協会)は17世紀にルイ14世の元、宰相コルベールが創立したフランスで最も古い公募展だ。絵画のマーケットは17世紀に遡る。16世紀頃までは、画家は職人で、王国貴族、教会や富豪に頼まれて、注文で壁画や肖像画を中心に描いていた。その為に画家はヨーロッパ中を旅して、顧客の元に出向いて描いた。 17世紀になって徒弟制度などもだんだん崩れてきて、画家は描き貯めた絵画を、市場で売ったり、大きな町に絵画を売るギャラリーが出現し始めた。流通商品としての絵画マーケットの始まりだ。そういった時代背景の中で、ルイ王朝がル・サロンを年に1回開催した。ル・サロンの審査員達は応募してきた画家達を選別して、出来の良い作品のみに出展を許可した。当時は出展された絵画はすべて、王室が買い取って所蔵した。画家達は、毎年こぞってその年の代表作をル・サロンに送った。その後1789年にフランス革命が起こり、ルイ王王朝の消滅に伴い、ル・サロンも開催されなくなった。ルイ16世もマリー・アントワネットも処刑され、最後には数千人を断頭台に送ったロベスピエールもギロチンに掛けられ、嵐のような10年が過ぎた後1799年に、ル・サロンは開催された。その時の主催者は王室ではなく、民間団体のフランス芸術家協会だ。200年後の今日もやはりフランス芸術家協会が主催してル・サロンを開催している。国立美術協会もそのサロンの流を引いている。フランス共和国が開催しているサロンだ。サロン・デ・アンデパンダンも名前は有名である。19世紀にサロンに選ばれなかった画家達が、保守的な審査員に対抗して直接来場者に評価してもらおうと、審査員を置かない1884年にサロン・デ・アンデパンダンを作った。ジョルジュ・スーラーやポール・シニャック、アンリ・ルソーなどが有名だ。サロン・ドートンヌは1903年に、保守的なフランス芸術家協会と国立美術協会に対抗して、マチス、ルオー、マルケ、ボナール錚々たる画家達が創立した。その後、モジリアーニ、セザンヌ、ピカソ、ブラック、ルノワール、ミロ、ユトリロ、ブラマンク、ルドン、ヴァン・ドンゲンなどが加わった。戦後できた、サロン・デ・コンパレゾンはフランスの画家と外国の画家の交流を目的として創立された。その他に水彩画とデッサン展には油彩以外の絵画を出展する。大体この5団体がフランスで中心的なサロンだ。 つまり、デラロフもベランジェールもその伝統あるル・サロンの会長だ。二人ともオリジナリティのある絵画を描く。ベランジェールはボザールで教鞭を取る教授でもある。そのベランジェーがぼやくのだ。「最近の学生25歳にもなっても大した絵画が描けない。やる気も感じられない。ルネッサンスの頃の画家達は皆20代であれだけの作品を生み出してる。この現象をどう説明すればいいのだろうか。」をしきりに、嘆いている。フランスではオフレコだ。つまり、最近はパリのボザールは優秀な画家の養成所である事をやめているようだ。20世紀の後半以降多くの半芸術の分野が誕生した。以前絵画なども入れて7芸術を言われていた。つまり、芸術分野は絵画・彫刻、音楽、詩・文学、ダンス、演劇など6分野で最後に映画まで入れて、7分野になった。ところが、最近は、商業デザイン、工業デザイン、イヴェント、ファッション、アニメまで芸術性が問われるようになっている。画家は個人事業主だ。もちろん、音楽家、文学者なども個人経営だ。ところが、デザインや、イヴェント、ファッションなどの新しい分野は、半芸術ではあるが、バックに巨大資本がついている。学生達は生活の保障の無い、個人事業主になるより大企業に就職したがる。もちろん、出版関係や学校の先生などアカデミックな就職先もある。あえて、リスクの多い画家には成りたがらない。つまり、美術学校は画家の養成所ではなくなってしました。 確かに芸術の分野は絵画に限らず、才能と情熱で勝負する世界であり、学歴は大切ではないだろう。他の分野であれば、学校で習った事が、そのまま役に立ったり学歴でコネクションが出来たりするが、画家は絵画がうまくなければ幾ら学歴があっても、コネクションがあっても、勝負にならない。音楽も文学も映画などもそうであろう。映画の分野でも、黒沢明などは、京華商業高校の出身で大学を出ていない、天才北野武も2流処の私立大学を中退している。詩人の立原道造など、東大の建築学科を卒業しているが、詩は下手糞だ。味の付いていない綿菓子を食べているような詩だ。軽井沢という20世紀に出来た避暑地の魅力が彼の詩の魅力と勘違いされているようだ。建築家と言えば、安藤忠雄などは高卒でボクサー出身だが、世界中で安藤忠雄の名前をしらない建築家はいない。私は、安藤忠雄の講演を聞いた事があるが、しゃべりも天才的だ。 つまり、絵画を含む芸術の分野は、才能と情熱で勝負する世界であり、学歴はそれほど意味がない。そういう意味では、最近のフランスの画家が独学であるのに異論はない。特に、20世紀の後半以降は、色々方法な絵画を習い感性を磨く事が出来る。美術学校だけが、絵画のテクニックの習得の場所ではない、むしろ学校以外のところに、インスピレーションを刺激される事の方が多いだろう。それぞれの画家のテクニックは企業秘密で、画家は公開しない場合が多い。才能と情熱があれば、必要に応じたテクニックを画家は学び生み出す。
マニュエル・リュバロの精神性
2007年5月にフランス美術専門誌ユニベール・デ・ザール社が日本でフランス画家のデモンストレーションをした。オーナーで、編集長のパトリス・ド・ラ・ペリエール夫妻が来日した。ドラペリエール氏とは、20年数年来の友人なので、私も招かれてこの展示会に出かけた。すでに、弊社と独占契約をしていたミッシェル・マルグレイ,ミッシェル・アンリ,ジェラール・ジェベールなどの人気作家も含む100人程のフランス作家が展示された。その内10人程の作家が、私の目を引いた。私は、その10人程の作家の名前をメモして、パトリス・ド・ラ・ペリエールに渡たした。彼は、11月の私のフランス出張の際、その画家達を紹介してくれると言う。私の胸は高鳴った。10人の画家の中で、南仏やスペインの家の壁の様な大きなナイフの後を残す大胆で美しいマチエールの画家の絵画があって、特に心に残った。 予定通りに、11月にフランスに出張した。パリの街はプラタナスの葉も落ち始め、冬の訪れを感じさせる。私は、ユニベール・デ・ザール社で画家を待った。3人程の画家と会って話をして、資料を送ってもらう約束をした。4人目は親子で画家の賑やかな画家一家だった。多いに盛り上がり大騒ぎして帰って行った。けれども私は、早めに来て待ってくれていた繊細な感じの画家の方が気になっていた。私は、その画家に<お待たせしてすみません。>と言った。画家は<マニュエル・リュバロです。よろしく。>と言った。私は、<スペインの家の壁のようなナイフのマチエールの絵画を描くあの画家ですか。>と言う。<そうです。>。私はすぐに、アトリエに行く約束をし、資料を送ってくれるように頼んだ。リュバロは正直で誠実そうな人だった。絵画は前から気に行っていた。長く一緒に仕事をするには、誠実で正直な相手とでないとパートナーシップが組めない。私も正直で誠実が信条だ。絵画のマーケットを開拓する仕事には、長い時間と継続的な努力が必要だ。そして、画家と画商の誠実な信頼関係が欠かせない。その後にまだ数人の画家に会った。これで、今回の仕事は終わった。残りの3日間は美術館に行き、カフェで放心し、夜はビストロで酔っ払った。 2008年大阪と京都の百貨店での現代エコール・ド・パリ展に、リュバロの絵画を出展した。評判は上々だ。東京、 神戸でも評判が良い。リュバロの絵画は繊細で大胆だ。大きな構図に大胆なタッチで描く。色彩は強烈だ。彼の絵画は激しさと大胆さに満ちているが、震えるような繊細な感性と優しさを感じさせる。リュバロの絵画は、生命の泉だ。見る人にパワーと勇気を与える。爆発する強烈な赤と黄色が透明なエネルギーを放射している。繊細さと大胆さが同居する不思議な画家だ。リュバロは職人的な正確さで描くが、彼の絵画は誰の絵にも似ていない。オリジナリティの高い画家だ。彼の豊富なイマジネーションは、いつも新しい試みをキャンヴァスに実現する。一人の人間の中に繊細さと大胆さが同居するのは耐え難いことのように思える。繊細な感性が、どのようにして大胆さに耐えるのだろうか。小さな風のささやき、花の色の移ろい、心の震えにまで敏感な画家が、どのようにあの激しさと大きな変化に耐えるのだろうか。もちろん、そのアンバランスこそが未知の世界を創造するエネルギーなのかもしれない。アル中になったり、麻薬に逃げるアーティストも多い。リュバロは極めて健康だ。なぜだろう?2度、3度と彼と会い話を聞くうちに、私はその疑問の答えを見つけた。リュバロは合気道の有段者で、禅僧のように、毎朝禅を組み瞑想をするそうだ。つまり、合気道と禅によって心のバランスをとっているようだ。瞑想の中、祈りの中に精神の矛盾捨て、イマジネーションと創造に昇華しているのだろう。
マニュエル・リュバロの精神性
2007年5月にフランス美術専門誌ユニベール・デ・ザール社が日本でフランス画家のデモンストレーションをした。オーナーで、編集長のパトリス・ド・ラ・ペリエール夫妻が来日した。ドラペリエール氏とは、20年数年来の友人なので、私も招かれてこの展示会に出かけた。すでに、弊社と独占契約をしていたミッシェル・マルグレイ,ミッシェル・アンリ,ジェラール・ジェベールなどの人気作家も含む100人程のフランス作家が展示された。その内10人程の作家が、私の目を引いた。私は、その10人程の作家の名前をメモして、パトリス・ド・ラ・ペリエールに渡たした。彼は、11月の私のフランス出張の際、その画家達を紹介してくれると言う。私の胸は高鳴った。10人の画家の中で、南仏やスペインの家の壁の様な大きなナイフの後を残す大胆で美しいマチエールの画家の絵画があって、特に心に残った。 予定通りに、11月にフランスに出張した。パリの街はプラタナスの葉も落ち始め、冬の訪れを感じさせる。私は、ユニベール・デ・ザール社で画家を待った。3人程の画家と会って話をして、資料を送ってもらう約束をした。4人目は親子で画家の賑やかな画家一家だった。多いに盛り上がり大騒ぎして帰って行った。けれども私は、早めに来て待ってくれていた繊細な感じの画家の方が気になっていた。私は、その画家に<お待たせしてすみません。>と言った。画家は<マニュエル・リュバロです。よろしく。>と言った。私は、<スペインの家の壁のようなナイフのマチエールの絵画を描くあの画家ですか。>と言う。<そうです。>。私はすぐに、アトリエに行く約束をし、資料を送ってくれるように頼んだ。リュバロは正直で誠実そうな人だった。絵画は前から気に行っていた。長く一緒に仕事をするには、誠実で正直な相手とでないとパートナーシップが組めない。私も正直で誠実が信条だ。絵画のマーケットを開拓する仕事には、長い時間と継続的な努力が必要だ。そして、画家と画商の誠実な信頼関係が欠かせない。その後にまだ数人の画家に会った。これで、今回の仕事は終わった。残りの3日間は美術館に行き、カフェで放心し、夜はビストロで酔っ払った。 2008年大阪と京都の百貨店での現代エコール・ド・パリ展に、リュバロの絵画を出展した。評判は上々だ。東京、 神戸でも評判が良い。リュバロの絵画は繊細で大胆だ。大きな構図に大胆なタッチで描く。色彩は強烈だ。彼の絵画は激しさと大胆さに満ちているが、震えるような繊細な感性と優しさを感じさせる。リュバロの絵画は、生命の泉だ。見る人にパワーと勇気を与える。爆発する強烈な赤と黄色が透明なエネルギーを放射している。繊細さと大胆さが同居する不思議な画家だ。リュバロは職人的な正確さで描くが、彼の絵画は誰の絵にも似ていない。オリジナリティの高い画家だ。彼の豊富なイマジネーションは、いつも新しい試みをキャンヴァスに実現する。一人の人間の中に繊細さと大胆さが同居するのは耐え難いことのように思える。繊細な感性が、どのようにして大胆さに耐えるのだろうか。小さな風のささやき、花の色の移ろい、心の震えにまで敏感な画家が、どのようにあの激しさと大きな変化に耐えるのだろうか。もちろん、そのアンバランスこそが未知の世界を創造するエネルギーなのかもしれない。アル中になったり、麻薬に逃げるアーティストも多い。リュバロは極めて健康だ。なぜだろう?2度、3度と彼と会い話を聞くうちに、私はその疑問の答えを見つけた。リュバロは合気道の有段者で、禅僧のように、毎朝禅を組み瞑想をするそうだ。つまり、合気道と禅によって心のバランスをとっているようだ。瞑想の中、祈りの中に精神の矛盾捨て、イマジネーションと創造に昇華しているのだろう。
ダニエル・クチュールのジャポニスム
ジャポニスムな人ダニエル・クチュール ダニエル・クチュールの祖父は海軍のエンジニアとして、函館港の建築工事に携わった。ダニエル・クチュールは幼少の頃、祖父からいつも日本の話を聞き、富士山や函館の写真を見せられた。何時の日にか、日本に行きたいとの思いはずっと持ち続けていたが、2004年に74歳で初めて、来日を果たした。札幌三越のダニエル・クチュール来日絵画展に出席のためだ。話を聞いた函館市の要請を受けて、函館市を表敬訪問した後に札幌入りした。札幌では、在札幌名誉領事(札幌文化放送社長)の木梨芳一氏が大歓迎してくれた。 札幌三越での展示会の成功を受けて、2005年に日本橋三越と広島三越がダニエル・クチュールの来日展を企画したが、クチュール夫人の病の為、来日がはたせず、熱心なファンがため息をついた。 2006年8月には、ヴァカンス中のご子息のジャン・クチュール氏にご夫人を預けて再来日し、神戸大丸で来日展を開催し成功を収めた。 ダニエル・クチュールを見ていると私は時々涙がこぼれそうになりる。往年のフランス映画を見ているような、優しい気持ちになるのだ。クチュールは20歳の時に当時17歳だった、クチュール夫人と知り合い24歳で結婚。2人でデザイナーとして働き始めた。新進の貧しいデザイナー時代に、一人息子のジャンをもうけ、2人で働きながら、愛情を注いで育てた。何処にもあるような、家庭だが、クチュールは多忙の中、子供を美術館に連れて行き、映画を見せ、一緒に散歩し、裕福では無くとも、夫婦で出来るだけの時間を子供に割いて育てた。自営のデザイナーとして多忙を極める中で、毎日絵画を何時間も描いた。好きなデザインの仕事に打ち込み、愛する夫人と愛児を育て、大好きな絵画を描き続けた。息子が大学を卒業した45歳の時、それなりに成功していたデザインの仕事を捨てて、画家になった。 クチュールは音楽も文学も大好きで、ストラビンスキーの<四季>の事など、控えめに熱心に語る。日本文学にも通じていて、永井荷風や三島由紀夫の話しをしてくれる。第一級の教養人だ。地位を求める事も無く、名誉を求める事も無く、大好な絵画を描き、夫人と家族を愛し続ける人生。フランスでも画壇にあまり近づかない。この純粋な魂には画壇のつまらない人間関係が煩わしいのだろう。また、時間が勿体無いのかもしれない。フランスの画壇も日本と同じように、絵なんか下手糞なくせに、政治力だけあるような人もいる。当然、跳び抜けて凄い画家で有りながら、面倒見が良いため慕われて、画壇で活躍している人もいる。例えば、ミッシェル・アンリのように。 私は他の画家が来た時は、アテンドに通訳を雇ってやらすのだが、クチュールにはだいたい私自身が付いて歩く。一緒にいて楽しいのだ。控えめで、陽気でだし、結構ユーモアもあって、すこしぐらい変な事を言っても怒らない。もともとパリの生まれだが、そのわりには、神経質ではない。パリジャンは結構神経質で、一寸した事が癇に障って怒り出す。 札幌での、展示会の事を思い出す。グラマーな美人が展示会に来ていた。彼女はクチュールの絵画を鑑賞しているし、私達は彼女を鑑賞していた。私がクチュールに、彼女なかなか美人ですねというと、嬉しそうに目配せしながらうなずく。なおも、私が、胸が半分露出していて特に良いですね、と言うと。いい、いいと感動している。彼女もクチュールの絵画に感動している真最中。私はクチュールにいい年をしてまだ、そっち方面に興味があるんですかと言うと、まだ男を辞めたわけではありませんといった具合だ。でも、多分、クチュールは、奥さん以外は童貞であろう。其れぐらい、奥さんを愛している。50年連れ添って、共に働き、全てを分け合った、分身のようだ。私はクチュールにいつも言う。<貴方は本当の意味での人生の成功者です。宝物のような素晴らしい家族に恵まれ、絵画の才能に恵まれ、好きな事一生やり続けて、しかも健康で入れ歯もしていない。貴方はそれなりに、優雅ですし、社交性もあるくせに、自分の画家としての地位を上げる為の画壇の中での外交をしなかった、そのために何の賞ももらっていません。でも、安心してください。貴方はこんな素晴らしい絵画を描きます。画家としては、それで十分です。日本では、私が貴方に欠けているマネージメントをやりましょう。貴方の絵画は、日本人の感性にも合っていますから、多くの人を魅了する事でしょう。>と。私達は意気投合している。 神戸に行くのに、東京駅に向かう途中の事。私は油断していて、出掛けにもたつき、新幹線に乗り遅れそうになった。地下鉄丸の内線の東京駅から、東海道新幹線のホームまで私は全力で走った。2年前に函館で100メートル程一緒に走ったので、安心して76歳のクチュールも一緒に走らせた。エスカレーターも走って昇り、ベルが鳴っているホームに着き、最初のドアに飛び込んだ。続いてクチュールが駆け込んだとたんにドアが閉まった。さすがに、クチュールはハアハア息が上がっていたが、76歳が何とかついてきた。私は、<私はこういう事はしょっちゅうです。貴方が元気で、あまり不平を言わない人なので、何時も助かりますという。>とクチュールに言うと<まあ、しょっちゅうはこまる。私も、やはり年だから>と。 クチュールは本当にジャポニスムなフランス人だ。つまり、日本趣味の人。私の家の近くに焼鳥屋があって、そんなに高級のところではないのだが、女将が和服で対応する店で、座敷もついている。座敷に上がって、2人で焼き鳥をかじりながら、日本酒をチビ・チビやる時のクチュールの嬉そうな顔を見ていると、私まで幸福感につつまれる。1合も飲めば十分。3日に1回ぐらいは2人で日本酒を酌み交わす。ある時、私も忙しくて、2日間ぐらいクチュールを一人にしておいた。後日、上述の焼鳥屋に私が行くと、女将が、<あの画家の先生、また一人で来てくれましたよ。>。クチュールと2人で日本酒を酌み交わす時間は、私につっても無上の楽しみの時だ。展示会がうまくいって売れた時も、売れなくて打ちひしがれている時も。来年あたり、またクチュールと日本酒を酌み交わしたいと思う。
ダニエル・クチュールのジャポニスム
ジャポニスムな人ダニエル・クチュール ダニエル・クチュールの祖父は海軍のエンジニアとして、函館港の建築工事に携わった。ダニエル・クチュールは幼少の頃、祖父からいつも日本の話を聞き、富士山や函館の写真を見せられた。何時の日にか、日本に行きたいとの思いはずっと持ち続けていたが、2004年に74歳で初めて、来日を果たした。札幌三越のダニエル・クチュール来日絵画展に出席のためだ。話を聞いた函館市の要請を受けて、函館市を表敬訪問した後に札幌入りした。札幌では、在札幌名誉領事(札幌文化放送社長)の木梨芳一氏が大歓迎してくれた。 札幌三越での展示会の成功を受けて、2005年に日本橋三越と広島三越がダニエル・クチュールの来日展を企画したが、クチュール夫人の病の為、来日がはたせず、熱心なファンがため息をついた。 2006年8月には、ヴァカンス中のご子息のジャン・クチュール氏にご夫人を預けて再来日し、神戸大丸で来日展を開催し成功を収めた。 ダニエル・クチュールを見ていると私は時々涙がこぼれそうになりる。往年のフランス映画を見ているような、優しい気持ちになるのだ。クチュールは20歳の時に当時17歳だった、クチュール夫人と知り合い24歳で結婚。2人でデザイナーとして働き始めた。新進の貧しいデザイナー時代に、一人息子のジャンをもうけ、2人で働きながら、愛情を注いで育てた。何処にもあるような、家庭だが、クチュールは多忙の中、子供を美術館に連れて行き、映画を見せ、一緒に散歩し、裕福では無くとも、夫婦で出来るだけの時間を子供に割いて育てた。自営のデザイナーとして多忙を極める中で、毎日絵画を何時間も描いた。好きなデザインの仕事に打ち込み、愛する夫人と愛児を育て、大好きな絵画を描き続けた。息子が大学を卒業した45歳の時、それなりに成功していたデザインの仕事を捨てて、画家になった。 クチュールは音楽も文学も大好きで、ストラビンスキーの<四季>の事など、控えめに熱心に語る。日本文学にも通じていて、永井荷風や三島由紀夫の話しをしてくれる。第一級の教養人だ。地位を求める事も無く、名誉を求める事も無く、大好な絵画を描き、夫人と家族を愛し続ける人生。フランスでも画壇にあまり近づかない。この純粋な魂には画壇のつまらない人間関係が煩わしいのだろう。また、時間が勿体無いのかもしれない。フランスの画壇も日本と同じように、絵なんか下手糞なくせに、政治力だけあるような人もいる。当然、跳び抜けて凄い画家で有りながら、面倒見が良いため慕われて、画壇で活躍している人もいる。例えば、ミッシェル・アンリのように。 私は他の画家が来た時は、アテンドに通訳を雇ってやらすのだが、クチュールにはだいたい私自身が付いて歩く。一緒にいて楽しいのだ。控えめで、陽気でだし、結構ユーモアもあって、すこしぐらい変な事を言っても怒らない。もともとパリの生まれだが、そのわりには、神経質ではない。パリジャンは結構神経質で、一寸した事が癇に障って怒り出す。 札幌での、展示会の事を思い出す。グラマーな美人が展示会に来ていた。彼女はクチュールの絵画を鑑賞しているし、私達は彼女を鑑賞していた。私がクチュールに、彼女なかなか美人ですねというと、嬉しそうに目配せしながらうなずく。なおも、私が、胸が半分露出していて特に良いですね、と言うと。いい、いいと感動している。彼女もクチュールの絵画に感動している真最中。私はクチュールにいい年をしてまだ、そっち方面に興味があるんですかと言うと、まだ男を辞めたわけではありませんといった具合だ。でも、多分、クチュールは、奥さん以外は童貞であろう。其れぐらい、奥さんを愛している。50年連れ添って、共に働き、全てを分け合った、分身のようだ。私はクチュールにいつも言う。<貴方は本当の意味での人生の成功者です。宝物のような素晴らしい家族に恵まれ、絵画の才能に恵まれ、好きな事一生やり続けて、しかも健康で入れ歯もしていない。貴方はそれなりに、優雅ですし、社交性もあるくせに、自分の画家としての地位を上げる為の画壇の中での外交をしなかった、そのために何の賞ももらっていません。でも、安心してください。貴方はこんな素晴らしい絵画を描きます。画家としては、それで十分です。日本では、私が貴方に欠けているマネージメントをやりましょう。貴方の絵画は、日本人の感性にも合っていますから、多くの人を魅了する事でしょう。>と。私達は意気投合している。 神戸に行くのに、東京駅に向かう途中の事。私は油断していて、出掛けにもたつき、新幹線に乗り遅れそうになった。地下鉄丸の内線の東京駅から、東海道新幹線のホームまで私は全力で走った。2年前に函館で100メートル程一緒に走ったので、安心して76歳のクチュールも一緒に走らせた。エスカレーターも走って昇り、ベルが鳴っているホームに着き、最初のドアに飛び込んだ。続いてクチュールが駆け込んだとたんにドアが閉まった。さすがに、クチュールはハアハア息が上がっていたが、76歳が何とかついてきた。私は、<私はこういう事はしょっちゅうです。貴方が元気で、あまり不平を言わない人なので、何時も助かりますという。>とクチュールに言うと<まあ、しょっちゅうはこまる。私も、やはり年だから>と。 クチュールは本当にジャポニスムなフランス人だ。つまり、日本趣味の人。私の家の近くに焼鳥屋があって、そんなに高級のところではないのだが、女将が和服で対応する店で、座敷もついている。座敷に上がって、2人で焼き鳥をかじりながら、日本酒をチビ・チビやる時のクチュールの嬉そうな顔を見ていると、私まで幸福感につつまれる。1合も飲めば十分。3日に1回ぐらいは2人で日本酒を酌み交わす。ある時、私も忙しくて、2日間ぐらいクチュールを一人にしておいた。後日、上述の焼鳥屋に私が行くと、女将が、<あの画家の先生、また一人で来てくれましたよ。>。クチュールと2人で日本酒を酌み交わす時間は、私につっても無上の楽しみの時だ。展示会がうまくいって売れた時も、売れなくて打ちひしがれている時も。来年あたり、またクチュールと日本酒を酌み交わしたいと思う。
ダニエル・クチュールの来日2011大震災直後
2011年5月にダニエル・クチュールが来日した。 3月11日の震災後、フランス政府は在日フランス人に帰国を勧告した、放射能被害を避ける為だ。私はヴォランティアで、2010年8月~2011年8月まで1年間日本の高校に通フランス人女子高校生のカウンセラーになって、彼女のお世話をした。入学の打ち合わせに高校にいったり、始業式に付き添ったり、ホストファミリーが変わる度に引っ越しを手伝ったりしていた。彼女は2010年の9月ぐらいには、学校での生活が合わなくて、途中でフランスに帰りたいと言っていたが、年を越す頃には、学校にも馴染み、すっかり日本が気に入っていて、ヴィザが切れる8月ぎりぎりまで日本にいるつもりにしていた。3月13日に彼女から私の所に電話が掛かってきて、フランスサイドから帰国するように言われていると伝えてきた。彼女は日本から出たくなくて帰国を渋った。結局彼女は、フランスサイドと交渉をし、再度日本に戻れるという条件で一時帰国した。3月15日、私は朝3時に起きて、彼女を朝5時にホストファミリー宅からピックアップして、成田で再入国の為の手続きをしてから昼頃の飛行機で送り出した。成田空国は出国する外国人でごった返していた。2ケ月程して、彼女は日本にもどり、1年間の学生生活を終え8月3日に帰国した。彼女と同じように、交換 留学で日本に来ていた仲間の高校生(フランスに限らない。世界中から来ていた)15人の内、一時帰国した後、日本に戻ったのは彼女を入れて2人だけだった。私は、自分がカウンセラーして、仲良くした、フランス人高校生が日本ファンになってくれて嬉しかった。私の大のフランス好きなので、なおさら嬉しかった。 ダニエル・クチュールはその様な騒然とした状況で来日してくれた。クチュールは本当に日本が大好きだ。日本語のレッスンを一人でしているので、日本語の単語を連発する。企画は前年から進めていたが、私も三越や大丸の担当者も、キャンセルされても仕方がないと考えていた。DM等の最終校正の段階で4月の初旬にクチュールと話した。クチュールの返事は<皆さん困っているのだから、私は予定どうり行きます>だった。神戸大丸と日本橋三越と軽井沢でダニエル・クチュール来日展を開催した。外国人がこぞって原子力災害の日本から逃げ出す中、クチュールは飄々として、成田に着いた。私はクチュールの顔を見るなり、不覚にも涙が流れた。震災の影響で売上は振るわなかったが、クチュールは淡々としてお客様に対応してくれた。神戸大丸では、長年クチュール展を開催しているので、ファンが多い。大きいサイズの油彩画売れた。この年のゴールデンウイークは軽井沢は賑わった。震災のトラウマで、休みに海に行く人が激減した、また、東北の観光地も全滅したが、放射能とも津波とも無縁な軽井沢が賑わった。そのお蔭で、ゴールデンウイークに掛かったクチュール展の売り上げは、上々だった。 クチュールの奥さんはもう6年も病気で苦しんでいる。今回は、その奥さんを隣人に託してきてくれたので、いつも奥さんの心配をして、毎夜フランスに電話を掛けていた。 その秋、私は、南フランスのボルドー近郊アングレムのクチュールの自宅を訪ねた。来日してお礼を言うためだ、また、特に奥さんにお礼を言いたかった。病床で心細い思いをしながら、放射能災害の日本に最愛のクチュールを送り出してくれたので、なんとお礼を言ったらいいかわからない。私は奥さんの手をとって何度も何度も有難うご繰り返した。奥さんは元気な振りをして、私達と昼食をしてくれた。アングレムの駅に戻るクチュールの車の中で<奥さん、結構元気そうですね>とクチュールに尋ねるとクチュールは<武田さんが来たから、随分無理をして一緒に昼食をしたんですよ>と寂しそうに言った。 私はクチュールの絵画が大好きだ。明るくて、無邪気で、太陽が輝いている。クチュールに、「貴方の絵画を見ていると何の苦労も無い人の様ですね」と言うとクチュールは「人生は苦しい事が沢山ある、私も同じです。だからこそ、私は明るい絵画を描き、見る人が少しの間でも、苦しい事、悲しい事から癒されて欲しいと思って描いています。私が、自分の苦しさを乗り越える事が出来るから、皆さんに歓びを与える絵画を描く事が出来る。その苦しい事を乗り越える事が出来るというメッセージも私の絵画から伝えたいのです。」と言った。いつも飄々としているクチュールが、どれだけの事を乗り越えて、画家であり続けたのかを、また、画家という職業が、それなりに大変な職業であることも、改めて感じた。 アングレムの駅で別れ際に、クチュールは日本語で<有難う。またね>と言った。
ダニエル・クチュールの来日2011大震災直後
2011年5月にダニエル・クチュールが来日した。 3月11日の震災後、フランス政府は在日フランス人に帰国を勧告した、放射能被害を避ける為だ。私はヴォランティアで、2010年8月~2011年8月まで1年間日本の高校に通フランス人女子高校生のカウンセラーになって、彼女のお世話をした。入学の打ち合わせに高校にいったり、始業式に付き添ったり、ホストファミリーが変わる度に引っ越しを手伝ったりしていた。彼女は2010年の9月ぐらいには、学校での生活が合わなくて、途中でフランスに帰りたいと言っていたが、年を越す頃には、学校にも馴染み、すっかり日本が気に入っていて、ヴィザが切れる8月ぎりぎりまで日本にいるつもりにしていた。3月13日に彼女から私の所に電話が掛かってきて、フランスサイドから帰国するように言われていると伝えてきた。彼女は日本から出たくなくて帰国を渋った。結局彼女は、フランスサイドと交渉をし、再度日本に戻れるという条件で一時帰国した。3月15日、私は朝3時に起きて、彼女を朝5時にホストファミリー宅からピックアップして、成田で再入国の為の手続きをしてから昼頃の飛行機で送り出した。成田空国は出国する外国人でごった返していた。2ケ月程して、彼女は日本にもどり、1年間の学生生活を終え8月3日に帰国した。彼女と同じように、交換 留学で日本に来ていた仲間の高校生(フランスに限らない。世界中から来ていた)15人の内、一時帰国した後、日本に戻ったのは彼女を入れて2人だけだった。私は、自分がカウンセラーして、仲良くした、フランス人高校生が日本ファンになってくれて嬉しかった。私の大のフランス好きなので、なおさら嬉しかった。 ダニエル・クチュールはその様な騒然とした状況で来日してくれた。クチュールは本当に日本が大好きだ。日本語のレッスンを一人でしているので、日本語の単語を連発する。企画は前年から進めていたが、私も三越や大丸の担当者も、キャンセルされても仕方がないと考えていた。DM等の最終校正の段階で4月の初旬にクチュールと話した。クチュールの返事は<皆さん困っているのだから、私は予定どうり行きます>だった。神戸大丸と日本橋三越と軽井沢でダニエル・クチュール来日展を開催した。外国人がこぞって原子力災害の日本から逃げ出す中、クチュールは飄々として、成田に着いた。私はクチュールの顔を見るなり、不覚にも涙が流れた。震災の影響で売上は振るわなかったが、クチュールは淡々としてお客様に対応してくれた。神戸大丸では、長年クチュール展を開催しているので、ファンが多い。大きいサイズの油彩画売れた。この年のゴールデンウイークは軽井沢は賑わった。震災のトラウマで、休みに海に行く人が激減した、また、東北の観光地も全滅したが、放射能とも津波とも無縁な軽井沢が賑わった。そのお蔭で、ゴールデンウイークに掛かったクチュール展の売り上げは、上々だった。 クチュールの奥さんはもう6年も病気で苦しんでいる。今回は、その奥さんを隣人に託してきてくれたので、いつも奥さんの心配をして、毎夜フランスに電話を掛けていた。 その秋、私は、南フランスのボルドー近郊アングレムのクチュールの自宅を訪ねた。来日してお礼を言うためだ、また、特に奥さんにお礼を言いたかった。病床で心細い思いをしながら、放射能災害の日本に最愛のクチュールを送り出してくれたので、なんとお礼を言ったらいいかわからない。私は奥さんの手をとって何度も何度も有難うご繰り返した。奥さんは元気な振りをして、私達と昼食をしてくれた。アングレムの駅に戻るクチュールの車の中で<奥さん、結構元気そうですね>とクチュールに尋ねるとクチュールは<武田さんが来たから、随分無理をして一緒に昼食をしたんですよ>と寂しそうに言った。 私はクチュールの絵画が大好きだ。明るくて、無邪気で、太陽が輝いている。クチュールに、「貴方の絵画を見ていると何の苦労も無い人の様ですね」と言うとクチュールは「人生は苦しい事が沢山ある、私も同じです。だからこそ、私は明るい絵画を描き、見る人が少しの間でも、苦しい事、悲しい事から癒されて欲しいと思って描いています。私が、自分の苦しさを乗り越える事が出来るから、皆さんに歓びを与える絵画を描く事が出来る。その苦しい事を乗り越える事が出来るというメッセージも私の絵画から伝えたいのです。」と言った。いつも飄々としているクチュールが、どれだけの事を乗り越えて、画家であり続けたのかを、また、画家という職業が、それなりに大変な職業であることも、改めて感じた。 アングレムの駅で別れ際に、クチュールは日本語で<有難う。またね>と言った。