私がフランス絵画商になった理由 ギャルリー亜出果 武田康弘

私がフランス絵画商になった理由 ギャルリー亜出果 武田康弘

高校春休みのサリング

私は岡山市からさらに、急行列車で1時間程日本海の方に行った中国山地の麓の新見市で生まれ育った。高校2年から3年になる春休みに友人と二人で四国半周のサイクリングに出かけた。

 

新見市写真↓ 

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瀬戸大橋の無い時代なので、宇野港から高松までフェリーで四国に渡った。四国山地を横断して高知市、土佐清水市と太平洋側を回り、海岸沿いを愛媛県に入り、宇和島、松山、新居浜を回り、四国の出発点の高松に戻った所で、自転車を高松に置き、小豆島に行く友人と別れ淡路島に渡った。淡路島のユースホステルで女子大生と友達になり、一緒に島を回った。

高校生の私は自分の存在の意義、生きる意味をしきりに考えていて、大学は思想関係の学科に行こうと思っていた。私の人生の意味、存在の意義といった根源的な疑問に何等かの応えを探したいと思っていたからだ。

 

フランスの哲学者アルベール・カミュとの出会い

東京生まれの大学生の彼女は、そんな田舎の高校生の私を面白がっていろんな話をした。彼女は、私にアルベール・カミュの「シジフォスの神話」を読むように進めた。アルベール・カミュはアルジェリア帰りのフランス人作家で彼の思想は<不条理の哲学>となずけられていた。

アルベール・カミュ写真↓ 

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シジフォスの神話に書かれている思想は簡単で、人間の存在には意味はなく、無意味な事を繰り返している不条理な存在でしかないという虚無的なものだ。やはり実存哲学者に分類される19世紀の哲学者ニーチェは<神は死んだ>という有名な言葉をのこしている。つまり、存在の根拠となる絶対的な神が存在しないなら、私の存在に意味を与えるものは無いという事になる。

カミュの小説<異邦人>や<ペスト>は不条理な状況の中で人間が翻弄されて生きる姿が描かれているが、私がその物語から読み取るのは、戦前のモラルが破壊された戦後という時代の雰囲気だ。<異邦人>の主人公は、養老院で死んだ母の葬式の帰りに、海に行き太陽と光を満喫し、水浴びを楽しみ、偶然海辺で会った会社の同僚の女性とセックスをし、その後偶然であったアラブ人の若者と喧嘩になり殺してしまう。

法廷では喧嘩でアラブ人を殺めた事より、母親の葬式の日に、喪に服すこともなく、海で遊び、恋人でもない女友達とセックスをするという、きわめて不道徳な態度が裁判館の不興を買う。しかも、なぜ殺したのかとの裁判官の質問に、<太陽が眩しかったから>と反省を微塵も感じさせない応えをし、死刑を宣告される。

死刑の前日、牧師が来て懺悔させようとするが、彼は拒否する。彼の心が乱れる事はない。彼が、その牢獄の窓から星を見、刑務所のサイレンを聞く様子が描写されている。彼は、明日死刑になる恐怖、不安、絶望より、その夜の静寂と暖かく甘い空気の心地よさ、海の香りと,美しい星空を感じて、それらに生の歓びを感じている。

この部分を読むと、生命の讃歌、地中海讃歌とも思える抒情的な描写になっている。神が消滅し、意味もなく生きる私達の虚無的なはずの生が実は、一瞬一瞬美しく歓びに満ちていると言っているように思える。キリスト教にとっての虚無主義ニヒリズムが実は生命への讃歌になる。

アルベール・カミュ異邦人↓ 

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太陽の光、海の煌めき、女性の柔らかい肌、吐息、微風に揺れる樹木、全てが生命の歓びを感じさせる。永遠の命、普遍的な意味と決別して、生命が美しく歓びに満ち、一瞬一瞬が生きるに値する。その判断をくだすのは、神でも、永遠でも無く、明日死刑になる若者なのだ。裁判官はその生の歓びを生きる主人公の青年を、不道徳と断じて死刑にする。

 

アルベール・カミュからフランス文学へ

この小説は、不条理の哲学というより、ヨーロッパでもアメリカでも日本でも、戦前の価値観が崩壊して新しい価値観が登場した時代を映した作品だ。

カミュは、戦後から1970年代まで世界思想の大きな潮流だったフランス実存主義思想家の一人でやはりフランス人のジャンポール・サルトルと並び称されていた。当時はフランスの思想家は世界の最先端だった。

カミュ、サルトル、以外にもミッシェル・フーコー、ジョルジュ・バターユなど学生を中心に若い人達に読まれていた。

 高校生の私は、カミュやサルトルを読みながら、私の存在にも、人生にも意味はなく世界は不条理に存在するのだ、私は宇宙に偶然投げ出された無意味な存在で石ころ以上の価値はないのだと思った。

それと同時に、カミュ、サルトルから始まり、ランボー、ボードレール、ルッソーなどフランス文学とドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどロシア文学、アメリカ文学まで耽読した。日本の近現代文学も読み漁った。

 

ドロップアウトと1970年代

高校3年生の夏休み明けには、私はもう高校に行くこともなく、文学書を読んだり、山林をさまよったりした。

ある時、高校から私の家に電話があり、私が学校に行ってないのが父母に知れた。学校の先生から後1日休めば卒業は出来ないと伝えられ、卒業する為にだけ学校に通った。

私は、田舎にいる理由もないので、適当に大学受験をして東京の大学に入学し、すぐに退学した。その後は、アルバイトで生活費を稼ぎながら、読書の幅を広げていった。読書、音楽、映画、アルバイトの生活が始まった。

当時は70年安保、大学紛争、沖縄返還、ベトナム戦争、の末期で、学生や若者には、反アメリカ帝国主義の雰囲気が強くフランスの人道主義がそのアンチテーゼとして支持されていた。

作家の村上龍が、ドラッグ、セックス、ロックをバックグラウンドに当時の若者像を描いた<限りなく透明にちかいブルー>を発表したのもその頃だ。

私も、学生、浪人生、ドロップアウト、ロックバンドの連中と街を漂っていた。時代の雰囲気と詩、小説、音楽の世界を呼吸していた。

村上龍 限りなく透明に近いブルー↓ 

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将来の事もあまり考えず生きていたが、将来どうするかを聞かれるとフランス語の翻訳通訳家になると答えていた。戦後の作家小林秀雄、中原中也、坂口安吾、戦前の竹久夢二、谷崎潤一郎、山本有三などが通っていたお茶の水のアテネ・フランセに不定期に通い、フランス語を学んだ。

すでに、人生の意味も私の存在意義をも深く考える事はなく、時代を漂い架空の世界の感動を生きていた。

アテネフランセ↓  

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フランス留学への道

数年が経つと、同級生達も、浪人した連中も、大学を卒業し就職をした。私は、一人取り残され、夢の世界、架空の感動の世界から現実の世界に徐々に引き戻され、将来どうするかを考え始めていた。

小説や、詩を書いてみたが、今自分が浸っている感動の世界の圧倒的な力を感じるばかりで、私が創りだす世界は余りに貧弱だった。私自身が詩人や小説家になろうとは思わなかった。

私は、本気でフランス語の翻訳通訳家になろうと思い、アテネフランセにも真剣に通いだした。

アルバイト先で知り合った友人が、私にフランスに行くことを勧めた。彼は工場で働きながら、大学の夜間部を卒業した後、1年間ロンドンに留学して、再度渡英するためアルバイトをしていた。

私は、そうだフランスへ行こうと思った。アルバイトで100万円貯めたら、フランスに行く事にした。パリでもアルバイトしながら1年ぐらい居れば、フランス語もできるようになるだろうと思った。

当時は、阿佐ヶ谷に妹と一緒に住んでいた。妹は短大卒業後、上場企業に勤めていた。

阿佐ヶ谷南口商店街↓

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私は妹に、半年後にフランスに行く事を伝え、実家に戻る事を勧めた。妹も、私を頼って何となく東京で働いていたので、一人で東京にいるより田舎に帰る事を選んだ。

私は、両親にその事を報告しに実家に帰った。父親は、妹の事を喜ぶと同時に私の事を心配して、フランス留学の費用は出してくれる事になった。

妹は田舎に帰り、私はフランスに向かった。その時、私は24歳になっていた。

1978年パリの夏

6月下旬夜中にパリについた。シャルル・ドゴール空港からタクシーでパリに入るとパリの北モンマルトルの丘に建つ白亜のサクレクール寺院がライトアップされて目に飛び込んできた。

私はパリに来たんだと実感した。私は萩原朔太郎の詩<フランスに行きたしと思えど、フランスは余りに遠し、せめては新しき背広など着て気ままなる度に出でてみん>を思い出した。私は、象徴派の詩人が夢みても、来ることのなかったフランスに来ている事に感動した。

 

パリ北部のモンマルトルの丘に建つサクレクール寺院 ↓

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パリではパリ大学ソルボンヌ校付属の外国人の為のフランス語夏期講座(通称外国人講座)を3ケ月間受けた。最初の1ケ月は授業に出ても、何も聞き取れなかった。1月ケ程したある日、突然講義が理解できるようになった。不思議な体験だった。今までは、音の羅列が延々と続いていたのに、教師の話すフランス語が言葉になって耳に飛び込んできた。フランス語を日本語に翻訳するのではなく、フランス語として初めて理解した瞬間だった。外国語がある日突然わかるようになるという現象は私だけではないらしい、色々な人が同じ経験をしたと聞く。けれども、意味を知らない単語の方が沢山あるので、大体の事しか分からない。地道に勉強を積み重ねるしかない。

授業の合間を見て、パリの街を歩きまわり、盛んに美術館に通った。今まで、文学、音楽、映画には親しんでいたが、絵画などのビジュアルアートには余り触れる機会がなかった。フランスは美術館の宝庫だし、カフェやレストランの入り口には必ずといっていい程、美術展のポスターが貼ってある。地下鉄の駅にも美術展のポスターがいっぱい貼ってある。興味を持って美術館やアート展に行くようになった。

ルーブル美術館+入り口のピラミッド ↓

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私は決死の覚悟で勉強した。お陰で、3ケ月の講義が終わる頃には、フランス語は大分上達したが、体がヘロヘロになり、風邪を引き半死半生でパリを出た。パリは夏も冬も乾燥している。パリの乾燥した空気は、余り気管支が丈夫でない私には良い影響をもたらさない。

南仏モンペリエでフランス語を習う

私は、体が衰弱して一人で動くのもおっくうな状態だったので、パリで同じクラスだった日本人Mが次の留学先の南フランスのモンペリエまで付き添ってくれた。

モンペリエ駅近くの中心広場↓ 

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モンペリエ大学人文科学部のキャンパスのすぐ近くのレジロンデル<燕荘>に彼の友人の日本人Kが住んでいたので、私レジロンデルに1室を借りてそこに住む事になった。モンペリエ大学のキャンパスは4つに分かれている。私の通う事になる人文学部キャンパス、すぐ隣の理工学部、旧市街に近い、法経学部と医学部だ。

モンペリエ大学は医学部が最も伝統があり、中世のカルガンシュア物語を描いたフランソワ・ラブレーや日本でもノストラダムスの大予言のタイトルで出版された預言書<les siecles>の著者ノストラダムスもモンペリエ大学医学部で学んだ。

モンペリエ大学医学部↓  

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フランスでは1789年にフランス革命が起こり、第一共和国が樹立されたがその後王政復古が繰り返されたり、ナポレオンの帝国が出来たりした歴史があり、第2時世界大戦後に第3共和国が樹立された。第3共和国は教育に手厚く、国立大学の授業料は無料に近い。昼と夕方に食事を提供する学食も学生と政府が半分づつ負担する仕組みになっている。学生は学生証を提示して、学食の件を毎月60枚まで購入できる。

モンペリエ大学人文学部キャンパス↓ 

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学生寮も充実している。私が住むことになったレジロンデルの家賃が400フラン(当時1フランス=50円)で2万円程でバス、キッチン付きだったが、学生寮は200フラン(約1万円)でキッチン、シャワーが共用だった。隣の一部屋に2~3人住めそうなラディウスというマンションは800ユーロ(4万円)だったと記憶している。

私が高校生の頃は、日本の国立大学の年間授業料は3万~5万円、私立文系は10万~20万円だった。当時はフランスも日本も国立大学の授業料は今に比べれば、限りなく只に近い。

その後50年間で日本の大学の授業料は10倍になり、フランスの国立大学も2019年からは数十万円の授業料を取るようになった。フランスにも、裕福な家庭の子弟が通う高額な授業料を払わせる私立大学も出現した。けれど、アメリカ、イギリスに比べるとフランスの大学の授業料は圧倒的に安い。

私は、風邪らしく熱もあったので、モンペリエ大学の病院に行って診察を受けて薬を貰って数日間休んでいたら回復した。

大学に行って入学手続きを終えモンペリエ大学人文学部付属のフランス語通年講座(外国人講座)に通う事になった。授業はフランス語の他にフランス美術、地理、歴史、文学などもあり、大学の授業数と同じぐらいあった。

同じクラスに他に2人日本人がいた一人はTという東大仏文科の4年生で1年モンペリエで道草した後、大手新聞社に入社した。もう一人は慶応出身の女性らしかったが、彼女は授業が終わるとすぐいなくなるので私には正体不明だった。

モンペリエでの学生生活は驚く程楽しく、あっという間に一年がすぎ、翌年6月には、無事に全教科の試験に合格して、随分フランス語もできるようになった。

モンペリエ大学入学

日本に帰ろうと準備をしていると、私と同い年でレジロンデルを紹介してくれた日本人Kが私に大学に進学しないのか?と聞いてきた。当時彼は、モンペリエ大学人文学部の1年生だった。

モンペリエ大学人文学部キャンパス 

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通常は日本人がフランスの大学に入学する為には、日本の高校卒業証明書を提示して在日フランス大使館でフランス語の試験を受け、フランスの大学で授業についていけるだけの語学力があると判断された場合に入学を許可されていた。

私は、父に1年間の留学費用を頼んでいただけなので、一度日本に戻って大使館の試験を受けて、再度フランスに来る程大学に入りたい気持ちはなかった。

ところがKによると、モンペリエ大学に大学入学志願書類を提出すれば大学がフランス語の試験を実施してくれるとの事だった。

私は、大学の事務所にモンペリエ大学入学志願書を提出した。その後、大学からフランス語試験の日時の連絡があり、受験した。私は夏休みにフランス語の補修を受ける事を条件に9月からの入学が許可された。

私は父に手紙を書き事情を説明した。父から手紙が来て、大学卒業まで面倒を見てくれる事になった。

 

1979年9月私はモンペリエ大学人文学部社会学科の学生となった。17歳でフランスのノーベル賞作家アルベール・カミュを入り口としてフランス文学哲学の世界にのめりこんでいった私が25歳でフランスの国立大学の学生となった。

当時、モンペリエには数十人の日本人が居て、ほとんどは前年私が学んだモンペリエ大学付属の外国人講座の学生だった。

彼らは、日本の商社、外務省、銀行などから派遣されて学びに来ている人、日本の大学の仏文科卒業後留学している人達で、1年ぐらいで帰国した。

この外国人講座の受講生はアメリカ人が一番多く、次に多いのが日本人だった。それ以外は様々で、イギリス、ドイツ、スイス、東欧、南米、韓国、などから来ていた。

大学には、もっと幅広い国から来ていた、アルジェリア、モロッコ、チュジジア、モーリシャス、マダガスカル、インド、エジプト、イラン、イエメン、ヨルダン、レバノン、ユーゴスラビエ、大部分のブラックアフリカの国、南米と世界中から来ていた。

私が大学に入った年は、日本の大学を中退して来ていたOが私と同じ社会学科1年に入学した、その他には経済学部と医学部に日本人が一人づづいた。前述のKは社会学科2年生になっていた。

Kは卒業する事なく帰国したが、経済学部の日本人と医学部の日本人は数年後に卒業して帰国した。

それ以外では、早稲田の哲学科修士を終えたIが哲学科の博士課程、東京大学の仏文科で奨学金貰ってきていたNが仏文科博士課程に在籍していた。Nはいつも勉強していたが、たまに夜ポーカーぐらいは付き合った。Iは実家が小金持ちらしく、しょっちゅう日本人を集めて騒いでいた。

同じクラスの日本人Oは、中学の時は模試で県で一番になった事もあり、日本でトップの進学高出身だ。当然東大に進むつもりでいたらしいが、高校時代に運動部の活動に入れ込んで、彼のクラスで一人だけ東大の試験に落ちた。私立大学に入学したが中退して、私と同じアテネフランセで1年学んだ後フランスに来た。私と同じ頃モンペリエに来て、私の隣のクラスでフランス語を学んでいた。

 

モンペリエ大学の社会学科の学生は20人程だった。授業は単位制になっていて、必修科目、選択科目があり90分授業は1単位、180分授業は2単位くれる。必要な単位を取得すると卒業証明書をくれる仕組みになっている。

新学期は9月に始まり、12月に前期試験があり6月に学期末試験がある。筆記試験に合格すると面接試験がある。学期末試験が終わって合格しなかった学生は夏休み明けの9月初めに追試があり、再挑戦できる。もし、追試でも合格しない場合は翌年再受講して同じように試験を受ける。

1年生の時、私は期末試験終了時に全科目の半分程しか合格できず、夏休み返上で図書館に籠り勉強した。9月の追試に臨んだが数科目は不合格となり2年生の時は2年生の授業と不合格となった1年生の学科の授業を履修した。

 

2年生の終わりには6月の期末試験で数科目を落として、9月の追試で合格した。だが、1年生から引きずっている民俗学の先生が、2年生の追試でも合格点をくれず、やむなく3年生で1年生の1科目を再々履修した。3年生時は、6月の期末試験で全ての学科が合格となったが、1年から引きずっている民俗学はまた落第で、3年生の夏休みはこの学科だけの為に図書館に籠って勉強した。10冊程の関連書を読みレジュメをし、自分のコメントを作り、万全の体制でこの科目の6回目の試験に臨んだ。お陰でかなり良い成績で9月に合格となった。

この頃には、気持ち的にかなりゆとりがあったので、図書館で勉強する合間に、大学のコートでテニスをしたり、友達と近くの海に行ったりしていたので、日焼けして楽しい夏休みだった。

 

大学卒業とパリ大学修士への進学

社会学学士の免許を取得した後、パリ大学の修士課程に進む事になった。父親も、高校生でドロップアウトした私がフランスで大学を卒業してパリ大学の修士課程に進むのを喜び留学費用の支払いを継続してくれる事となった。パリ大学第10校ナンテール校の社会学科修士課程に進学した。Oも同じ大学同じ学科に進学した。

パリ大学10校ナンテール校(現在は西校) 

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1981年に社会党のフランソワ・ミッテランが大統領になり、貧しい人の生活を守るため、物価の凍結策を打ち出し、家賃の値上げも禁止した。

その為、パリは賃貸物件が不足して住む所が見つからない。新聞の空室アナウンスで、安い部屋を見つけては、見に行くとすでに20~30人の人が集まっていてる。2回程見にいったがもう無理だとあきらめて、以降は部屋探しはやめた。

私は場末のバスもシャワーも、台所もなく、トイレが共同の30フラン(約1500円)のホテルに住み始めた。

モンペリエの快適な生活から様変わりだ。学食に行くのもメトロに乗り移動するうえ、食事の質はモンペリエとは比較にならない程悪い。

料理もできないので、フランスパンとワインで夕食を済ませる日が続き、私は、体調を崩し咳き込むようになった。

空気が乾燥しているパリの10月は既に涼しさを通リ越して寒さを感じる。

1ケ月程して、以前ソルボンヌの夏期講座で一緒のクラスだった日本人Uの紹介でトイレ付のワンルームをパリに借りる事ができたが、相変わらず咳がづついていた。

その年のパリはかなり寒く何度も雪が降った。

大学に行く以外は、家で資料を読んだり、格安の映画館、美術館に盛んにいった。次第に絵画になじみ、大学で学んだ美術史の確認作業を美術館でしたり、19世紀~20世紀のフランス絵画の黄金時代に先立つイタリア、オランダなどのルネッサンス芸術にも目が慣れた。

私は文学や音楽にはのめり込み、その世界に入り込み、現実として生き呼吸したが、絵画は又別世界だった。少し距離を置いてゆとりを持って鑑賞する対象になった。絵画を見るのは、心地良い愉しみになった。

 

修士論文と格闘

授業が始まった。住まいはパリ13区のプラスディタリー付近で(イタリア広場)パリの南東右下部分にある。私の入学したパリ大学第10校ナンテール校は、パリ郊外のパリの北西左上のナンテール市にある。公共の乗り物を乗り継いで1時間程だ。

授業は180分で2単位くれる授業を2科目とったので講義で週2回大学に行くだけで、後は修士論文の準備だ。修士論文はテーマを決めて書き、100ぺージぐらいのボリュームが必要だ。フィールドワークの必要なテーマは避けて、関係書籍を閲覧するだけでできるテーマを選んだ。

プラスディタリー(place d'Italie)↓  

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1789年にフランス革命後が起こり、フランスは自由、平等、博愛の共和国(資本主義)になったが、19世紀に労働者の生活が困窮を極める中で、フランスではプルードンやフーリエといった社会主義思想家が労働者の困窮を救済する思想と活動を始め、彼らの思想がマルクスとエンゲルスにも影響を与え、マルクス・レーニン主義、共産主義思想に発展していくこととなる。

クールベが描いたプルードン↓  

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フランスではマルクス主義は定着せず、フランスの社会主義は、アナーキズムの傾向も含みながら、空想社会主義と呼ばれ、フランスの労働組合運動(サンディカリスム)へと発展した。

その後、20世紀になっても、フランスでは労働組合が政党とは一線を画す活動活発に展開した。その為フランスは労働組合が強い国となっていった。

マルクス↓  

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1908年にフランスのCGT(confederation generale des travailleurs)労働総連盟がアミアン憲章を宣言してマルクス主義と決別し、政党からも独立した独自の路線を宣言した。

私はアミアン憲章以降のフランスの労働組合運動思想<サンデイカリスム>のアナーキスム的な思想をテーマにした。外国人の私からみても如何にもフランス的なテーマで面白そうだった。

ナンテール校付属の図書館はかなり充実していて、資料は大体そこで揃った。講義は週2回でよいが、実際は図書館に資料を読みに行ったり借りたりしに行くので、週に4~5回は大学に通った。

ナンテール校は1968年の5月革命が始まった大学だ。日本でも70年安保で学生が反帝国主義を叫んでいたが、フランスではナンテール大学の学生が騒ぎ始め、労働者も巻き込んでゼネストに発展した。インドシナ戦争からベトナム戦争、古い価値観、体制への反抗、爆発であった。

1968年パリ5月革命↓ 

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ちなみに、2021年現在フランスの大統領のマクロンはやはりパリ大学ナンテール校の出身だ。つまり私の後輩だ。彼は大学卒業、エリートが給料をもらいながら学ぶグランゼコールに進んでいる。フランスは少数のエリートを国費で養成する機関として、大学制度とは別に選抜試験が飛びぬけた倍率のグランゼコールを設置している。フランスの戦後の大統領で大卒は社会党のミッテランと移民の子供のサルコジがのみで、それ以外の大統領は皆グランゼコールの出身だ。グランゼコールの定員は限られていて日本の東大などより圧倒的に少数だ。

弊社契約画家で20世紀フランス画壇の巨匠ミッシェル・アンリが卒業した通称ボザール<国立パリ高等美術学校>もグランゼコールの一つでアートのエリート養成学校だ。

セーヌ河畔のボザール↓  

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今話題のカルロス・ゴーンは定員50名程の理系の鉱山学校というグランゼコール出身だ。エリート中のエリートで、鍛えに鍛えられている。日本の大学でのんびりエリート気分に浸った日産のぼんくら社員を手玉に取るぐらいは朝飯前だろう。

パリの国立鉱山学校↓  

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私がモンペリエ大学の3年生の頃の、イデオロギー関係の面白い授業をしていた教授がパリ大学ナンテール校出身だったので、私もナンテール校で修士をやる事にしたのだ。

モンペリエ大学で同じクラスだったOもナンテール校に進んで、<消費社会>など記号学の著者として知られていたジャン・ボードリアールがナンテールの教授だったのでOは、ジャン・ボードリアールの授業をとって彼から修士論文の指導を受けた。

翌年の6月に授業が終わり、私は期末試験は良い成績で合格し10月に論文提出を残すのみとなった。

私は夏に日本に一時帰国した。実家で論文の続きをタイプして、9月にパリに戻った.。

修士論文の指導教授のマダム・ダイアンに論文を見てもらったら内容は良いが、フランス語の問題があるといわれた。私はできるだけ、引用を多くして、私の記述を減らした。

モンペリエ大学の経済学部の講師で、私と仲の良かった人が当時パリに移りすんでいた。私は彼女に連絡を取り私の修士論文のフランス語の校正を頼んだ。

彼女は私を自宅の昼食に呼んでくれて、彼女のお母さんと弟と一緒に食事をした。彼女の弟はフランスの外交官だった。私は、咳は収まったものの、気管支炎を患った状態だったのでいつも憔悴していて、その日も食事が終わったら彼女のベッドを貸してもらい休んでいた。

その間に彼女が、私の論文の不器用な言い回しなどを直して、分かりやすいフランス語にしてくれた。

オリベッティのタイプライター  

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私は、その後数日間はオリベッティのタイプライターに向き合って論文をタイピングして仕上げ、マダムダイアンに提出した。

10月に面接試験があり、マダムダイアンと学部長が面接してくれた。彼女は私に<優>の評価をくれた。学部長は<貴方は書物に語らせる術を知っている。>と言った。つまり、引用がやたら多いとの指摘だが、誉められたのか、注意されたのか未だに分からない。フランス人は外交辞令が得意なのだ。

 

日本に帰ろう

修士論文を提出して面接を待っている間に、友人から電話があった。日本の大学の社会学の教授がフランスの大学を視察するのに通訳を探しているから手伝わないかとの事で、私はすぐOKした。

彼はフランス社会学の教授だがフランス語は全くできない。あちこちの大学を案内したり、フランスの大学の教授などと対談する予定が組んであり、私は彼を案内し通訳をした。

彼は気の良い人で善人だったが、的外れな事を言ったり、失礼な言動をするのを、そのまま翻訳するのが随分苦痛に感じて、最後は腹が立ってきた。

この1週間程の通訳の体験から自分は通訳は向いてない、自分が考えて言いたい事を言いたいと思った。私は通訳翻訳家になるためフランスに来たはずだが、帰国したら通訳ではない仕事をしようと思った。

彼は、私に日本の大学で助手の口なら紹介しようといってくれたが、私は疲れ果てていて、本気で返事ができる状態ではなかった。通訳するに必要な温順さも欠落している私に、大学の助手が務まるとも思えなかった。

 

ちなみに、Oは私と同時に修士課程を終えて、博士課程に進み数年後に博士課程を終えて日本に戻った。当初は、関東の短大の講師をしていたが、関西の名門の私大にスカウトされて講師になった。最近は,日仏の学会の会長などもやっている。

彼は、よく勉強もできたし、学問的な発想も優れていて研究が好きだった。私は義務的に試験の為に勉強していて、勉強にも彼程のモチベーションは無かった。私は彼と何年も付き合い、私は学者には向いていない、例え学者になっても彼には勝てないだろうと思っていた。通訳にも学者にもならないだろうと思いつつ帰国の途に就く事にした。

私は、10月中に部屋を引き払い、日本に帰った。実家に帰ると倒れ込み3日間眠り続けた。

地元の医院にいって胸を見てもらったが、気管支炎は治っていて、良く栄養を取って休めば治るとの事で2週間程実家で休んでいる間に、父親が地元の国会議員などに頼んで、私の就職を探したがうまくいかず、私は1ケ月程して実家を後にし、再び東京に戻った。

11月の寒い頃に東京で、6畳に台所がついているアパートに住み始めた。私もすっかり非現実の感動を生きる人間ではなくなって、一人の社会人として生きる為に就職を探し始めた。ミッシュラン、エルメス、などフランス系企業、中途採用可能なジャーリスムなどをあたったがうまくいかなかった。

 

30歳で初めての就職

3月になって零細なインテリアと趣味雑貨の輸入会社の募集を新聞で見つけて応募して、全グループで従業員50人に満たないその会社に就職し、4月から勤め始めた。

最初3ケ月は倉庫管理と配送業務をやらされて、その後営業職になった。上司が持っていた業務が多い取引先を継承した以外は、飛び込みで新規開拓に励んだ。

私は、営業などできない人間だと思っていたが、やってみると何とか少しづづ仕事になった。フランスのクリスタル食器製造メーカーがあって、そのメーカーの取引先を通して、私の会社でもその製品を扱っていたが、私が入社したので先輩社員Iがその会社クリスタルダルクに直接コンタクトを取り、私に通訳をさせた。

クリスタルダルク社のワイングラス ↓ 

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小売店チェーンに5000万円程のクリスタルのグラスを納める契約をその先輩社員Iと二人で獲得した。Iは破天荒な人で、何とかなるだろうと、納期に間に合わせる為に契約書を交わす前に、LCを開設して輸入の手筈を整えた。

それが、社長にばれて、大変な事になったが、何とか契約にこぎつけて納品も終わり入金もした。Iは何度も吐きそうになったとストレスを語っていたし、社長も怒りまくっていたが、私は単なるアシスタントだから気楽だった。

1年程勤めたが、直属の上司と歯車が合わなくなって丁度1年で会社を辞めた。彼は、悪い人間ではなかった。早稲田のアメラグ出身の健康優良児で、トライアスロンなどを趣味にしていた。体力不足完全文系ドロップアウト個人主義協調性ゼロの私と合うはずもないのだが、今は、なぜその上司と対立したのかも思い出せない。

 

故郷に帰ろう

田舎者の私が、東京でもフランスでも生活して色々な体験をして、もう冒険は十分だ、故郷に戻ろうと思った。平凡な田舎暮らしを夢みて倉敷に本社のある輸出入会社に就職した。岡山は井草の産地なので、井草の畳表やゴザ製品を国内販売すると同時に中東などに輸出し、ヨーロッパや東南アジアから家具を輸入する会社だった。

倉敷の画像↓   

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採用されたのは良かったが、東京に住んでいるから東京支店に勤務する事になった。3年間東京支店に勤めた後、倉敷の本社の輸入部に入れてくれる約束で入社した。

仕事は、家具の積み込み、積み下ろし、百貨店で催事の度に百貨店への家具の搬出搬入だった。余り文化的な仕事でも、知的な仕事でも無く、体力筋力勝負の仕事だ。

支店の社員は、筋肉マンで、一人が1台2トン車を与えられて、重い家具をものともせずに、毎日楽しそうに家具の移動、積み込み積み下ろしをしていた。

私にも2トン車を一台与えてくれる事になったが、私は断った。

私は、家具屋、通販の会社、不動産会社等を回り、カタログを見せたり、倉庫に連れてきて売ろうとした。重い家具の積み込み積み下ろしの日常は、私には無理だった。

同僚に3年で倉敷に戻して貰う約束だと話した時、彼らは<俺は1年東京に行ってくれと言われて、もう10年いる。>と言う。もう一人も、<2~3年と言われて20年東京にいる。>と言う。私は、のんびりと田舎で平凡なサラリーマン生活を夢みて入社したが、どうもそうはならないかも知れないと思った。

そんな時、以前の会社の同僚で一緒にフランスのクリスタルダルクの契約を取ったIが、名古屋の会社E社の東京支店にトラヴァーユしていた。E社は台湾、香港あたりからスーベニア、ギフトなどの安い玩具雑貨を輸入していた。

私は、見本市で韓国の西洋人形を見つけた。値段は安く、見かけはアンチックな西洋人形だ。私は彼に、この韓国製の西洋人形を買わないかと見積もりを渡した。暫くして、彼は売り先が見つかったからと1000万円程発注してきた。

私は彼の口約束を信じて、この韓国の人形の輸入手続きを進めた。本社から取引先と契約書を交わすように命じられ、Iに伝えた。Iは名古屋の本社からY社長が来た時契約書に捺印するから、契約書をその日に持ってくるように言った。

その日に彼の会社に契約書を持参した。

社長が来ていたが、彼は欠勤だった。Y社長はその契約に関しては何も聞いていなかった。私は、困り果てた。

その足で彼の自宅に行き、売り先は確かにあるのか聞いた。彼は、もうその人形は売れているから心配無いと言い、私はY社長にその旨を伝えた。Y社長は、武田さんもお困りだろうからと契約書にサイン捺印してくれた。

その後は、余り契約も取れず、私のやり方では売り上げもあまり上がらなかった。他の営業マンは百貨店の催事の業者への卸で、家具の搬出搬入の力仕事、倉庫の整理、家具の修理などを日常業務にして売り上を作っていた。

私はパリで気管支炎を患ったが、元々気管支が弱いらしく、仕事と人間関係のプレッシャーストレスからだろう、秋頃から咳込み始めた。

倉敷の画像↓   

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私は、もうこれ以上家具の運搬もキン肉マン達との付き合いもできないし、平凡な田舎暮らしも夢でしかないと思い、会社を辞めようと思った。

同時に、2年間で会社を2回退職してもうこれ以上はサラリーマンは無理だと思った。

 

会社を作ろう

サラリーマンが出来なければ、そうしたら良いのだろうか?結論は自分で会社を作るしかないと思った。

当時株式会社を登記するには、300万円の資本金が必要だった。私は父に相談したが、断られた。

実は、私の弟が東京の2流どころの大学を卒業後、就職しないで自分で事業を始めた。彼は失敗し、借金を父親にしりぬぐいしてもらった。その後妻子を連れて、帰省して実家の稼業を継いでいた

弟が会社勤めをせず父に迷惑をかけ、今度は私が30歳でようやくフランスの大学を卒業して帰国したら、会社勤めが出来ず、父に迷惑な話をもっていったのだ。父も可哀そうだった。

断わられるのが当然だとおもったが、新見駅で帰りの電車に乗った時は、途方に暮れてさすがに涙が流れた。

後日、母は、父が「俺が金をだして会社を作って潰したら、あいつ(つまり私)は一生立ち直れないだろう。自分で失敗するなら又立ち上がれる」と言っていたと私に伝えた。

私は、今でもこの事を思い出すと涙が流れる。高校生の頃、私を心配した担任の教師が私の両親に会いに行った事があるらしい。彼は後日、私に<お前のご両親は良すぎる>と感想を漏らしていた。

母はときどき<学校の先生がバカを連れて来いといったら、子供は親を連れて行った>という小話をして自分で笑っていた。親の思いは、今私自身が親になってよくわかる。親はバカで無抵抗主義者だ。私も今では、親バカで無抵抗主義者になった。

私は東京に戻ると、Iに相談した。IがY社長に頼んでくれる事になった。Y社長は、契約の事で1度会っただけだが、私の事を気にいっていたらしい。当時Y社長の会社は儲かっていた。

Y社長は、私に社員にならないかともいったが、私はすでに、会社員は無理だと結論が出していたので断った。Y社長の会社の製品を扱う事、Y社長の東京支店の倉庫に机を置いて事務所にする事、Y社長が300万円の内200万円を出資する事が決まった。

残りの100万円は母親が80万円呉れて、友人が30万円貸してくれて解決した。

会社名は株式会社アデカにして資本金300万円で法人登記をした。私の苗字武田をアルファベットで書くとtakeda で、それをひっりががえすとadekatになる。フランス風に発音すると最後のtは発音しないので、発音は、アデカットではなくアデカとなる。つまり、武田の反対がアデカになる。フランス語でadequatという形容詞があり、アデカと発音するが、意味は適応性があるフィットしているのという意味だ。武田は、社会への適応能力がなく会社勤めも出来ないが、その真逆のアデカは適応能力があるらしい。フランス語の解る友人が、適応性のない私をからかって盛んに面白がっていた。

負け惜しみでいうわけではないが、2021年の現在では、適応性がある事が必ず良い事でもないようだ。聖徳太子は「和を持って尊しとなす」と宣っている。1980年代にフランスの大統領だったフランソワ・ミッテランが日本に来た時、彼はこの聖徳太子の言葉を引用して、「日本は和の国です。」と言った。

フランソワ・ミッテラン大統領とイギリスのサッシャー首相

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しかし、現実への適応性が無いから、新しい事を発展させるという事もあるわけで、西洋ではこれを弁証法といっている。つまり、対立があるからその対立が次のステップに進む原動力となる。矛盾、対立を否定的にとらえず、発展のプロセスとする考え方だ。

日本が30年停滞し、下りのエスカレーターに乗り続けているのは、和を持って尊しとなす事が一因かもしれない。島国で逃げ場所もない、単一民族、単一言語、単一歴史、単一文化で、周りと調和しないと生きて行かれない環境が、その仏教思想と見事にマッチしと私は思う。

21世紀に入り、隣の人と同じように、考え、感じ、言い、行動するのが正解の時代は終わったようだ。なぜなら、世界は異質な不調和をエネルギーにして、ものすごいスピードで進化している。理由なき調和を重んじる精神は停滞してくしかないのかもしれない。和を持って尊しとなす精神は、波風を起こさない為にだけ妥協を繰り返し、物事の本質、本来の目的、全体像を見失わせ、挑戦するエネルギーを消耗させる側面も否定できない。



けれども、どんな立派な戦争より愚劣な平和の方が良いとの考え方もある。イスラエルxパレスチナ、アイルランドxイギリスなどの争いの連鎖をみていると日本人の理由なき調和を重んじる精神も一蹴出来ない気もする。

 

いずれにしても、私は周りと日常的に不協和音を発生させ変人扱いされながら、35年もフランス絵画の仕事で生き延びている。

聖徳太子↓  

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会社が始動

1986年7月18日に会社登記が完了した。Y社長の会社の製品を、会社員時代に取引のあった取引先や新規開拓でも売って歩いたが、売れない。入金は余り無く、だんだんお金が無くなって行くがどうしようも無い。10月のある日、最初の会社の同僚のMが私を訪ねてきた。Mはイタリアの雑貨を輸入する会社にトラヴァーユしていた。彼はサンプルとその会社の輸入品のカタログを置いて行った。私は翌日からそのカタログとサンプルをもって、ホテルなどのおしゃれな花屋や、輸入雑貨の小売店を回った、少しづつだが売れて、何とか生活が出来るぐらいにはなった。

Y社長の会社の製品は売れなくて、Mの会社の製品ばかり売っていた。そうするとY社長の会社と関係が次第に悪化してきた。Iは私とY社長の会社の間に居て辛い立場になっていた。Iは私を元気づける為に、週に1~2回は居酒屋で奢ってくれていた。年が明けるとIがY社長の会社に出社しなくて、行方不明になった。Y社長が名古屋から出てきて、私にも行く先を聞いたが、私も知らない。私は、Y社長からS社に入社しないかと再度誘われたが断った。Iは私を助けてくれて、たぶん私が原因でが失踪して、私がIの後任としてS社に就職するのは、どう考えても調子が良すぎる。S社の製品も売らないし、頼りのIも居なくなって、入社の誘いも断り、Y社長の会社の倉庫には居辛くなった。仕方がないので、住んでいた1DKのアパートに机と電話ファックスを引っ越し、自宅を事務所にした。幸いIは別の会社にとラヴァーユして結構楽しくやっていた。良かった。

 

Mの会社のイタリア製品や一部Y社長の会社の製品をあちこち売り歩いて、細々と生計を立てていた。新規開拓も色々した。ある時、インテリア雑誌で住所を知ったAという会社に訪ねていった。そこは、店舗でも事務所でもなく、薄暗い作業場のような所だった。中には、外国人とヒッピーのような感じの日本人が数人いた。違和感を覚えながらも、私は商品を紹介しようとしたが、日本人の男にいらないと断られた。私は、中にいる外国人に<I speak english>と叫んだ。その中のボスらしいのが<Comme in>といったので、私は中に入って彼と話し始めた。

 

モシェとの出会いアートとの出会い

彼らはイスラエル人だった。Sという日本人ヒッピーがイギリスでメタルピクチャーというアルミ箔に風景や模様を刻んだ絵画(15cmx20cm位)を日本に持ち帰り、それを厚紙に貼り付け、規制の額縁に入れて路上で売ったら良く売れた、Sはイスラエル人のグループと組んで沢山作り始めた。Sは儲けた金で、古いアパートを買い、外国人向けのゲストハウスをやっていた。Sは元々ヒッピーで事業そのものには興味なく、そのメタルピクチャーの商売はこのイスラエル人グループが引き継いでいた。ボスはモシェ(イスラエル語でモーゼ)といった。

イスラエル↓  

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ここでイスラエルの事を少し説明して置こう。ご存じのようにイスラエルはユダヤ人の国だ。ユダヤ人は商人、起業家志向で並外れた商売意欲がある。彼らは何が儲かるか見定めて、効率良く儲かる事業を見つけて儲かる仕事を手掛ける。イスラエルの若者は兵役が終わると、世界中をリュックを背負って旅をする。色々な国を若い内に見て歩くのだ。そして、将来の効率の良い儲けの為に経験したり、商売のネタ探しをする。当時日本はバブル経済に向かう時期で物価が高かったので、イスラエル人が日本に来ても長期滞在が出来ない。それで、彼らはリュックにフレームに入れたメタルピクチャーを詰めこんで、繁華街でそれを広げて販売して稼ぎ、その金を旅費にして次の旅をする。すいぶんバイタリティーがある。

 

彼は、私から台湾のガラスの写真入れを2ダース買ってくれた。彼は、額に入れたメタルピクチャーをセールスマンのイスラエル人に持たせて、渋谷、池袋などの繁華街の路上にならべて3000円程で売らせていたが、路上ビジネスは警察ややくざがいるので、いい加減に足を洗ってショップに売りたいから、私に手伝って欲しいと言う。メタルピクチャーだけでなく、オランダから輸入している複製画があるので、それをメインに売りたいと言う。私は引き受けて、Mの会社やY社長の会社の商品と一緒に店舗に紹介する事にした。これが、私が複製とはいえアートを扱う始めとなった。

 

アートの輸入を開始

複製画とイタリアや台湾の趣味雑貨などを持って駅ビルなどの小売店に売り込みに回った。横浜にシャルといる相鉄系の駅ビルがある。その駅ビルを歩いていたら、絵画と画材を売っている店があったので、店に入って話した。従業員がどこかに電話していたが、社長が会うので本社に来るように言われた。

横浜駅ショッピングビルCIAL↓ 

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本社に行くと、そこは社長の自宅だった。会社名はB、社長はAだった。A社長はイタリアの趣味雑貨を20万程買ってくれた。店に色どりを添えるのに飾っておくと少しは売れるだろうとの事だ。彼は話好きで夕方まで、私を離さない。私はフランス語と英語が出来るのと輸入業務にもやった事があるのが解ると、イタリア、フランス、北米からポスター、ポストカード、オリジナル版画などの輸入したいので、手伝って欲しいと言われた。輸入額の5%をコミッションとしてくれる事になった。

 

彼は、私に幾つかの住所と資料を渡した。イタリア、フランス、カナダの会社だ。私は、さっそくそれらの会社に手紙を書いて郵送したり、ファックスを送って製品情報を集めた。それらの会社から送られてくる資料、情報をA社長に見せ打ち合わせをして、ポスター、ポストカード、複製画、オリジナル版画などを輸入の手続きをした。B社は横浜、吉祥寺、船橋、港南台と4店舗を展開していただけなので、そんなに大量には売れない。それぞれの輸出先から1回輸入したら終わりだ。次の輸入は1年後とか2年後だろう。

 

私が輸入したアート作品とグッズを自分で売る

A社長は私にも仕入れたアートグッズとアート作品を売るように勧めた。彼の会社の作品を額に入れて、貸してくれる事になった。イスラエル人のモシェも同じ事を私に提案していた。モシェは車とセールスウーマンも貸してくれる事になった。

私は、額に入れたB社の複製画、ポストカードとモシェの会社の額入り複製画などをモシェから借りた車に積んで、イスラエルギャルと一緒に出掛けた。最初に行ったのは、川崎の工場だ。昼休みに工場の壁を背に額に入れた複製画数十枚を並べておくと、食事を終わった工員が出てきて見るのだ。次には、事務所や店舗に飛び込みで行って、彼女が複製画を壁に押し当てて、私がセールストークをする。1週間程やったが、3千円の複製画が一枚売れただけだ。

現在のイスラエル↓  

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イスラエル人の彼女は、良家の娘で実家は地中海クラブの会員だったりする。そんな裕福な家の子供が、平気で世界中をリュックを背負って旅行して、飛び込み販売のアルバイトをする。イスラエル人のバイタリティには心から感心した。余りの売れなさに1週間で彼女とのチームは解散した。

その後私は、15万円で冷房のついた、中古の小型ワンボックスカーを入手した。モシェが軽井沢が売れるという情報を仕入れて来た。ワンボックスカーにB社のポストカード、額に入ったモシェとB社の複製を積んで軽井沢にいった。旧軽のはずれの僅かなスペースに車を駐車して、複製やポストカードを車の傍に並べた。

夏の軽井沢銀座↓ 

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あまり人が来ない場所なので、額に入れた複製画を数点持って軽井沢銀座のパン屋の前に並べたが、さすがに恥ずかしく10分程で車に戻った。初日数千円売れた。車を止めていた向かいのラムネ屋のおばさんが紹介してくれて、佐久の民宿に泊まった。売り上げと宿代が同じぐらいだった。次の日も同じ場所に車と止めたとたん、壁の上から女性が顔を出して「あんた今日もそこで商売するなら、警察を呼ぶわよ」と叫んだ、私はあきらめて東京に戻った。

A社長の勧めで当時六本木にあった防衛庁の催事場で売る事になった。防衛庁で担当者と会い、次の催事の時にコーナーを貰った。屋内なので、オリジナルの版画や、複製画、私がベルギーから輸入したミュッシャのゴブラン織りなども展示したら、数十万円売れて驚いた。

その年日本でアートエクスポが開催されフランスの業者も来ていた。私はCAと言う比較的安い版画を扱うフランスの版元と知り合い、B社のA社長の自宅に連れていった。A社長が余り無理ばかり言うので、CAは気を悪くして商談は決裂したが、CAは私には感謝して、パリに来たら寄ってくれと言っていた。

 

倉敷の会社に勤めて居た時代の知り合いでインテリアコーディネーターのやり手の女性に、フランスアートの仕事を始めた事を知らせた。彼女は完成したばかりで発売前の赤坂の億ション(高額マンション)でインテリアコーディネーターのセミナーが開催されるから、フランスの版画を飾ったら誰か興味を持つかも知れないと言った。当日B社の版画などを部屋の一室に飾った。セミナーの講師の建築家A先生がその版画を見て、<ビュッフェ>だなと言って興味を示した。セミナーが終わったので、A先生に近づいて、ひとしきりセミナーを誉め、ビュッフェはお好きですか?と聞いてみた。A先生は好きだと言うので、良い作品があるからお見せしたいと言うと、自宅の住所と電話番号を教えてくれた。

私がB社のA社長に頼まれて輸入したビュッフェ、ブラジリエなど有名な10作家の作品を集めたオリジナル版画セットを思い出して、A先生の所に持参した。私はセットで360万だと言ったら、少し値切ったが買うという。私はA社長に相談してA先生の言い値で売り利益は折半にした。A先生はその後も数百万買ってくれて、私は多いに潤った。何しろ、バブル経済の頃で、A先生は金持ちの家を設計したり、東急百貨店の顧問もし、テレビにも出て随分儲けていた。

 

フランス作家のオリジナル版画の展示会開催

1987年の年末にB社の店舗がある港南台のバーズと言う相鉄のショッピングセンターの催事場でB社から借りたオリジナル版画の展示会を1ケ月開催する事になった。DMを沢山制作した。当時はDMも広告代理店に制作を依頼して結構高額だった。1ケ月毎日朝から晩まで私が店番も出来ないので、知り合いにもアルバイトで店番を頼んで何とか1月展示会をした。

乗降客の多い、大船駅で自分でDMを配ったり、お金持ちがいるらしい鎌倉でDMのポスティングをした。港南台バーズの隣に高島屋百貨店があり、その前でDMを配っていたら百貨店の人に叱られた。催事場の向かいに証券会社の窓口があり、株を買いに来た人が数十万の絵画を買ってくれたりした。1ケ月で数百万円程売れた。鎌倉でポスティグしている時、フランスの版画を売っている小さいギャラリーを見つけて、知り合いになりその業界の事を色々教えてもらった。

鎌倉駅↓     

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1988年になると、赤坂の繁華街のビル持ちでインテリアショップを経営しているY夫妻がイタリアの家具と雑貨を直輸入したいので手伝って欲しいと言った。春にイタリアのミラノでヨーロッパで一番規模の大きい家具と趣味雑貨のマチェフという展示会が毎年あるので、一緒に行く事にした。私にはコミッションをくれる事になっていた。一緒にイタリアで仕入れをして、パリ観光にも付き合った。パリではついでに版画の版元CAの会社にいって彼の版画も仕入れた。

Y夫妻は2千万円程のイタリア製品を輸入して私もコミッションで潤った。Y夫人が今回輸入した商品の展示会をしたいと言い出したので、当時溜池にあったフランス大使館経済商務部の会議室を無料で借りる事になった。モンペリエ時代の友人のNがそこに努めていたので、商務官に頼んだら貸してくれた。大使館の経済商務部はフランス製品の販売促進は業務の内だ。私がパリで買ったフランス作家のオリジナルリトグラフを展示する名目で貸してくれて、イタリアの雑貨もおまけで展示を許可してくれた。

自社で仕入れたフランスオリジナル版画でフランス大使館で展示会を開催

フランスでCAから仕入れたオリジナル版画を、モシェが紹介してくれた額縁屋に頼んで額装して貰い、20点程フランス大使館経済商務部の会議室の壁に飾った。Y夫妻のイタリアの雑貨、小家具も一緒に飾った。フランス大使館で展示した事は次の営業活動の信用になった。

私は、1dkから駅の近くの2dkのビルに転居していた。自宅兼事務所兼倉庫の廊下を隔てた向かいに10畳程の荒れた部屋があった。以前は1階の魚屋が従業員の住居につかっていたが、ここ数年間誰もつかってないので、ボロボロになっていた。倉庫としては丁度よかったので、安くかりた。

 

フランスアート展ビジネス

あちこちの、ショッピングセンターなどに展示会開催の営業を掛けて、フランスアート展を開催するようになった。当時は、バブル経済の時代で、大型スーパーの催事場や空いたスペースなどでも絵画を展示すれば売れていた。フランス絵画全盛の時代で百貨店では数千万から数億のフランス絵画が飛ぶように売れていた時代だ。私は路上で数千円の複製を売った事からアートの世界に入ったばかりそのような景気のいい話とは縁がなかった。フランスの版元CAの安い版画を仕入れて、せいぜい数万円~十数万円で売り、絵画のビジネスに参入したばかりだ。

タマプラーザ東急ショッピングセンターと高田の馬場のビッグボックスでフランスアート展を開催する事となり、平行して百貨店のインポートフェアーなどに小さいスペースを貰い自社で輸入した安い版画を販売をする事になった。

高田の馬場ビッグボックス↓  

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私の展示会を見に来たアテネフランセの頃の友人が、池袋のサンシャインの中のフランス商工会議商が運営しているフランス製品の常設展示場を見に行く事を進めてくれた。フランス商工会議所の担当者と会い、5月のゴールデンウイークにフランス商工会議所の展示場で10日間程イベントとして展示する事になった。空いているスペースに20点程展示して販売したらある程度売れた。9月になって他に展示会の予定が無くなったので、再度フランス商工会議所の展示場で展示会をしたいと担当者に話したら、常設で出店を示唆された。

サンシャインのフランス商工会議所展示場にギャラリーアデカをオープン

サンシャインシティ↓  

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フランス商工会議所の会員になると、かなり家賃がやすい。即決で、フランス商工会議所会員となり、10坪程かりる事にしてそのスペースをギャラリーアデカと名付けた。ギャラリーアデカの中央に十文字型に壁を作り、三方を壁で囲うと小さいのも入れて30~40点展示できた。机とその上に電話1台置いて、私が業務と接客をした。平日はそんなに、人の来ない場所なので、展示場の管理者は売れないと言っていたが、少しは売れた。

私は自宅兼事務所に経理担当でパートの人を一人雇っていたが、他社員はいないので、当面展示会開催はストップして月曜日の閉館日以外はサンシャインのフランス商工会議所展示場に通った。展示場全体の管理者がいるので、たまに休んでも問題はなかった。その頃、モンペリエとパリの大学で一緒に勉強したOが帰国してギャラリーに遊びに来た。彼が、パリのサンジェルマンデプレの裏辺りの通りには、版画を売る画廊が沢山あると教えてくれた。

10月頃に一人の女性がギャラリーに来て色々話をした。彼女の名前はS。彼女の家族はアメリカに住んでいて、夫は日本企業の現地社長だ。夫は日本人だがアメリカの大学を出ていて、子供達もアメリカ育ちだ。彼女は英語も余り出来なくて、アメリカ生活には馴染み切らなかったらしい。子供達も大きくなったので、自分だけ日本に先に戻ってきて家族が帰国するまで待つ事にしていた。彼女はフランスのアールヌーボーのガラスが好きで、自分でも油彩を描くという。丁度、事務所の方でアルバイトで経理をやっていた女性が辞めたばかりなので、彼女をアルバイトで採用した。

ギャラリーアデカでS女史が活躍

11月に仕入れでパリに行くことにした。Sは経理で採用したのだが、Sに1週間程店番を頼んで、日本を出た。Sが販売が出来るとは期待していなかったが、売れた場合のカード払いやローンの組み方などざっと説明して置いた。パリに付いて数日後、ギャラリーに電話したら、Sは今版画が売れたが、ローン用紙の書き方が分からないと言うので、説明した。

パリでは早速Oが教えてくれたサンジェルマンの裏辺りを歩き回り、当時良く売れていた作家の版画などを扱う画廊を見つけた。今まではCA版元の安めの版画のみを扱っていたが、取扱い作品がいっきに広がり数十万円の作品も弊社のレパートリーに入ってきた。

パリのサンジェルマン・デ・プレ教会 ↓

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私の出張中に、Sが数点のを売ってくれていた。私は、Sは販売能力が高いと判断して、さっそく彼女をギャラリー担当にした。彼女の家はサンシャインから数分の所にあり、わざわざ大田区の事務所に行くより便利でSも喜んだ。私はやる事が無くなったので、再び展示会の企画を始めた。同時にサンシャインの中に小部屋を借りて事務所はそこに移転した。

最初の頃は、展示会の会場はショッピングセンターの片隅などの小さい場所ばかりだったので、私一人で問題なかったのだが、次第に30坪もある大きな会場などの企画の話も持ちあがって、一人で対応できないので社員をいれた。会場は、高田の馬場ビッグボックス、パルコ、東急百貨店、プリンスホテル、西武ペペ、西友の幾つかの店舗で繰り返し展示会フランスアート展を重ねる事になった。

軽井沢プリンスショッピングプラザにギャラリーヴァンドフランスをオープンする

1992年頃まで西武グループの商事会社の西武商事が版画を売るプリンスギャラリーを経営していた。青山に大きなギャラリーを持っていた。何しろ、アートがよく売れた時代だ。弊社も箱根や横浜のプリンスホテルの片隅でフランスアート展を繰り返していたが、1992年の年末年始に軽井沢プリンスホテルでの展示会を依頼された。

軽井沢プリンスホテル↓

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西武商事がプリンスギャラリーを閉鎖する事となり、プリンスギャラリーの軽井沢の展示会を弊社が受け継ぐ形になった。会場は浅間という軽井沢プリンスホテル西館の入り口から一番近い宴会場だ。それから数年間、毎年年末年始と夏休みには軽井沢プリンスホテルで展示会をする事になり、すっかり軽井沢プリンスホテルの人達と懇意になった。1995年に軽井沢プリンスホテルに隣接して軽井沢プリンスショッピングプラザがオープンする事になり、弊社もプリンスホテル内でのイベントは中止して、軽井沢プリンスショッピングプラザにフランス絵画版画のギャラリー・ヴァン・ド・フランスを出店する事となった。

軽井沢プリンスショッピングプラザ↓ 画像クリック→ギャルリー亜出果

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レイモン・ペイネのオリジナル版画を大量に買う

90年頃に私はフランスの版画販売会社のATと初めて会った。彼はモンペリエに住んでいて版画を売っていた。モンペリエ大学の出身で私の後輩にあたる。彼の叔父さんのMがインテリア版画を沢山制作していて版元でATの会社EDが発売元だ。彼は叔父さんが制作した版画と同時に巨匠の作品も入手できるので、彼と取引を始めた。レイモン・ペイネはCAも扱ったいたので、弊社のレパートリーに入っていたが、実は彼の叔父さんのMがレイモン・ペイネと親友で版元だった。知り合った翌年に私は彼に会う為に、懐かしいモンペリエに行った。彼は、私を車に乗せてニースに行き、叔父さんのMを紹介してくれた。Mはニースの高台のレストランの私を招待して、昼間から一緒にシャンペンで乾杯した。

ニースの高級ホテル↓  

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その2年後にMは突然他界した。Mは随分お金持ちで、子供も成人していたので、M夫人は余生をのんびり送る事にして、在庫を処分したがっていた。ATからその旨の連絡を受けて、私はニースに行った。Mの倉庫には10000枚のペイネのオリジナル版画が残っていた。1985年に6万枚程制作したはずで、7年間で5万枚を売り切ったのでだ。つまり、毎年7000枚ずつ売った計算だ。10000枚残ったペイネのオリジナル版画の半分の5000枚を私は買い取った。

レイモン・ペイネは20世紀フランス最大のイラストレーターで日本とフランスに美術館まである。絶対買うべきだとの確信があり、ありたけのお金をかき集め、銀行からお金も借り、売れそうな絵柄ばかり5000枚買った。実はペイネ美術館は日本の軽井沢と南フランスのアンチーブに有った。その3年後にペイネ美術館のある軽井沢に私がギャラリーヴァンドフランスをオープンするとは夢にも思ったいなかった。

 

ショッピングセンターでのフランスアート展の開催をやめる

1995年には、サンシャインのギャラリーアデカ、軽井沢プリンスショッピングプラザのギャラリーヴァンドフランスと2店舗を運営すると同時に、展示会フランスアート展を企画し販売していた。この頃は授業員も6~7人に膨れあがっていたが、1991年のブラックマンデーで株価が暴落してバブル経済が崩壊して、1995年頃には、もうパルコや西友、駅ビルなどで絵画版画が売れない時代になっていた。

展示会で活躍していた販売の女性達はつぎつぎと結婚して退社したため、展示会部門は自然崩壊して、サンシャインのギャラリーアデカと軽井沢プリンスショッピングプラザのギャラリーヴァンドフランスのみでの営業になった。Sも7年も待っても家族が日本に戻ってこなくて、彼女が日本にばかりいるので、アメリカ政府から永久滞在許可書(通称グリーンカード)返却するか、アメリカに住むかの決断を迫られた。彼女はアメリカに帰って行った。

私は、アシスタントを一人置いて、サンシャインのフランス商工会議所展示場のギャラリーアデカの営業を継続し、軽井沢のギャラリーヴァンドフランスは地元の人に任せて営業を続けた。

 

ミッシェル・アンリ来日展開始

1992年に、知り合ったフランスの巨匠ミッシェル・アンリと契約して1995年~ミッシェル・アンリが毎年来日する事になった。私は百貨店でミッシェル・アンリ来日展を企画開催するようになる。百貨店では、絵画は売れていた。バブル経済に至る頃は社員沢山かかえた版画販売の会社が乱立して、さまざまな場所で展示販売をしていた。この頃には、百貨店以外では余り絵画が売れない為、それらの会社が解散して社員達の中で能力のある人はフリーの販売員として百貨店の展示会で、その期間だけの契約で働いていた。私も、社員が居なくなったので、百貨店でのミッシェル・アンリの来日展はフリーの販売員に頼る事にした。

ミッシェル・アンリは、2009年迄15年間毎年来日して日本中の百貨店で展示会を開催した。日本橋三越、神戸大丸、京都大丸、新宿伊勢丹、東京大丸、池袋三越、札幌三越、博多大丸、名古屋三越、千葉三越、広島三越、仙台三越、岡山天満屋、福山天満屋、いわき大黒屋、軽井沢ギャルリーヴァンドフランス、東京ギャラリーアデカ(現ギャルリー亜出果)、池袋東武、東急日本橋、東急吉祥寺、東急町田、東急東横、プランタン銀座、沖縄三越、松戸伊勢丹、府中伊勢丹、横浜インタコンチネンタルホテル、箱根小田急ハイランドホテル、千葉パルコ、渋谷パルコ、駐日フランス大使公邸、新宿高島屋でミッシェル・アンリは会場に来て丁寧に対応してくれた。それぞれに思い出が沢山ある。

 

ミッシェル・アンリのオリジナルリトグラフとオリジナルシルクスクリーン制作しよう

展示会をするのに、油彩だけでは足りないので、弊社が版元になってオリジナルリトグラフとオリジナルシルクスクリーン合計15~20種類制作した。偶然知り合いになったパリの版元からオリジナルシルクスクリーンを20種類位大量に買った。又ミッシェル・アンリが収蔵していたオリジナルリトグラフとオリジナルシルクスクリーンもすべて買った。現在もミッシェル・アンリの版画の種類と枚数では、私が世界1のコレクターだと思う。

 

現代フランス画家を日本に紹介しよう

1999年にフランス商工会議所がサンシャインのフランス商工会議所展示場を閉鎖する事となり、私はサンシャインのすぐそばに買った自宅マンションの2階に事務所と倉庫を、1階に店舗を移転した。ミッシェル・アンリの展示会がブレイクして百貨店の仕事が多忙になったので、本社1階の店舗は翌年には閉店した。展示会での販売はフリーの販売員に頼るので、従業員は軽井沢のギャラリーヴァンドフランスで働く二人だけになり、随分気楽になった。百貨店の仕事が多くなり、日本に未紹介の作家を10数人発掘して現代エコールドパリ展、フランス絵画展などをあちこちの百貨店で開催した。私は、ミッシェル・アンリを有名にすると同時に21世紀フランスの人気作家を日本でも売り出す夢も追い求め始めた。

 

来日してくれたダニエル・クチュール、マニュエル・リュバロ、ミッシェル・マルグレイ、ニコル・クレマン、リザ・ベヌディ、コリーヌ・ビルカーツ、後に国家功労勲章を受章したジェラール・ジェベール、フランス芸術家協会会長になったマルチーヌ・デラロフ、フランス芸術家協会絵画部門会長でフランスの芸大教授のフランシス・ベランジェール、フランスの芸大卒で幾つもの美術館で作品が収蔵されている、ジャン・ゴダン、モン・ブロー、イギリスでもハッピーアートとして人気のあるピエルマテオ、ドイツ人ながら南フランスの原野やパリの街角を描くウット・エルマンなど一流の画家20人程日本に紹介した。

ミッシェル・アンリ、ジェベールなど他界した画家、ヒットして今もあちこちの百貨店で展示販売されている画家、作風が日本に合わなかった画家もいる。ミッシェル・アンリ来日展、ミッシェル・アンリ展(作家の来場はない)、現代エコール・ド・パリ展や新しい作家の個展など活発に展示会を開催した。

 

百貨店と小売業から卸売業に移行

しかし2010年代にはいると百貨店が急速に弱体化してきた。2007年に東京大丸が閉店セールをして数億円売って以来大丸は絵画のセール販売が定着して、百貨店でも有名画家のセール販売がメインになった。百貨店の画廊は、催事場でのセール販売に追い詰められ、新しい画家を育てる余裕はなくなった。ミッシェル・アンリも80歳を越え、2009年を最後に来日しなくなり、ミッシェル・アンリ来日展というドル箱が無くなった事もあり、百貨店事業から徐々に撤退して軽井沢のギャラリーヴァンドフランスでの小売りと業者への卸と通販に重点を移す事となった。

その間レイモン・ペイネのオリジナル版画とミッシェル・アンリのオリジナル版画は手元に集めたので、レイモン・ペイネとミッシェル・アンリのオリジナル版画のコレクターとしては私は現在も世界一だ。弊社はダニエル・クチュール、ウット・エルマン、マニュエル・リュバロ、ジャン・ゴダン、ピエルマテオ、などのフランス作家の絵画と20世紀フランス最大のイラストレーターレイモン・ペイネと20世紀フランス画壇の巨匠ミッシェル・アンリのオリジナル版画絵画の卸元となり、取引き業者が日本中で彼らの展示会を開催して販売してくれている。

ここ数年はインタネットサイトでのECサイト運営とデジタル空間での作家の広告活動にも熱心に取り組んでいる。

私が、17歳でフランスの哲学者アルベール・カミュと出会ってから半世紀がたった。その半世紀の間、私はフランスに育てられ、フランスアートと共に生きている。デジタル環境に対応しながら、私はフランスアートと共に次の半世紀に突入する。

 

 

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