henry2021
パリの版元画商から大量のミッシェル・アンリのオリジナル版画(シルクスクリーン)を購入した訳は?
お問い合わせは:03-5848-8605 又は右下チャット lineでどうぞ ギャルリー亜出果がパリの画商で版元のエドモンド・ニューマン氏から大量のオリジナル版画を買ったのはミッシェル・アンリの日本人の友人で大金餅のN姉妹の紹介だった。 写真後方左からミッシェル・アンリの隣がエドモンド・ニューマン氏 前列はミッシェル・アンリとアンドレ・ブラジリエのパリの画廊エチエンヌ・サシー氏、デビ夫人とニューマン氏の相棒のフィリップ氏↓ N姉弟は、お父さんの莫大な遺産の一部の赤坂の大きなビルの中に住んでいた。彼等はパリのモンテーニュ通り(随分お金持ちのアパマンがあり1~2階はシャネル、ディオール、アルマーニ、フェンディーなど多くのブランドの本社やショールームがある)にも豪華なアパルトマンを所有し住んでいた。ニューヨークにも住居を所有していたらしい。彼等は一生働く事は無く、世界中の友人宅のパーティーに招待されて騒いだり、自分達も招待したりして一生過ごした。フランスのシラク大統領夫妻とも懇意だったので、フランスのオペラ座だかベルサイユ宮殿の修復の時には、数十億円を寄付したらしい。 写真中央前列ベルナデット・シラク大統領夫人と隣がミッシェル・アンリ↓ ミッシェル・アンリもシラク大統領夫妻とは懇意なので、シラク大統領夫妻の紹介でミッシェル・アンリと知り合ったのかもしれない。ミッシェル・アンリのパリの画廊のあったマチニョン通りは上述のモンテーニュ通りと並行する高級画廊街で、大統領官邸のすぐ近くにあったので、シラク大統領夫人はミッシェル・アンリの展示会はよくも見に来ていた。 サローン・ドートンヌでのミッシェル・アンリ左とジャック・シラクフランス共和国大統領→ その内私もN姉弟と知り合いになって家に遊び行くようになった。その内に彼等のパリのアパルトマンの隣人がミッシェル・アンリの版画を沢山もっているから買ったらどうかと言い出した。 パリモンテーニュ通りのアルマーニのショールーム↓ 私は2005年にパリに行った時にモンテーニュ通リのN姉弟の隣人を訪ねた。その時、姉弟はパリにはいなかった。彼は身長が2メートル近い長身のエドモンド・ニューマンと言う名前で、ミッシェル・アンリのオリジナル版画(シルクスクリーン)を制作販売した人だ。フィリップという相棒と一緒に住んでいた。 ミッシェルアンリ オリジナル版画フランスの四季 お試しレンタルページ↓ 彼等は1985年~1986年に掛けて<フランスの四季>4部作、<パリシリーズ>4部作、<アジサイのベール>、<赤いインスピレーション>、<モンテカルロ>、<ベニスのラグーン>、<モンマルトル><ベニスのセントジョルジュ教会>、<黄金色のベニス>、<リビエラ>、<プロヴァンスの陽光>、<ブルガンディーのピクニック>合計18作を制作した。殆どが300部限定でEA(eprouve de l’artiste=作家保存版)とHC(hors du commerce=工房保存版)も含めると7000部程になった。 ミッシェル・アンリ オリジナル版画 ベニスのラグーン↓ ニューマン氏は全作品の内5000部程を日本のアメリカンアートを中心に高値でオリジナルシルクスクリーンを販売しているグループ会社に売った。ミッシェル・アンリはその頃、パリにも支店のあるアメリカのフィンドレー画廊と契約して毎年アメリカに行っていたので、ニューマン氏はミッシェル・アンリをアメリカでヒットしている画家として、日本のアメリカンアートの会社に売り込んだらしい。ミッシェル・アンリがフィンドレー画廊と契約していたので、彼はアメリカには売る事ができなかった。 ...
パリの版元画商から大量のミッシェル・アンリのオリジナル版画(シルクスクリーン)を購入した訳は?
お問い合わせは:03-5848-8605 又は右下チャット lineでどうぞ ギャルリー亜出果がパリの画商で版元のエドモンド・ニューマン氏から大量のオリジナル版画を買ったのはミッシェル・アンリの日本人の友人で大金餅のN姉妹の紹介だった。 写真後方左からミッシェル・アンリの隣がエドモンド・ニューマン氏 前列はミッシェル・アンリとアンドレ・ブラジリエのパリの画廊エチエンヌ・サシー氏、デビ夫人とニューマン氏の相棒のフィリップ氏↓ N姉弟は、お父さんの莫大な遺産の一部の赤坂の大きなビルの中に住んでいた。彼等はパリのモンテーニュ通り(随分お金持ちのアパマンがあり1~2階はシャネル、ディオール、アルマーニ、フェンディーなど多くのブランドの本社やショールームがある)にも豪華なアパルトマンを所有し住んでいた。ニューヨークにも住居を所有していたらしい。彼等は一生働く事は無く、世界中の友人宅のパーティーに招待されて騒いだり、自分達も招待したりして一生過ごした。フランスのシラク大統領夫妻とも懇意だったので、フランスのオペラ座だかベルサイユ宮殿の修復の時には、数十億円を寄付したらしい。 写真中央前列ベルナデット・シラク大統領夫人と隣がミッシェル・アンリ↓ ミッシェル・アンリもシラク大統領夫妻とは懇意なので、シラク大統領夫妻の紹介でミッシェル・アンリと知り合ったのかもしれない。ミッシェル・アンリのパリの画廊のあったマチニョン通りは上述のモンテーニュ通りと並行する高級画廊街で、大統領官邸のすぐ近くにあったので、シラク大統領夫人はミッシェル・アンリの展示会はよくも見に来ていた。 サローン・ドートンヌでのミッシェル・アンリ左とジャック・シラクフランス共和国大統領→ その内私もN姉弟と知り合いになって家に遊び行くようになった。その内に彼等のパリのアパルトマンの隣人がミッシェル・アンリの版画を沢山もっているから買ったらどうかと言い出した。 パリモンテーニュ通りのアルマーニのショールーム↓ 私は2005年にパリに行った時にモンテーニュ通リのN姉弟の隣人を訪ねた。その時、姉弟はパリにはいなかった。彼は身長が2メートル近い長身のエドモンド・ニューマンと言う名前で、ミッシェル・アンリのオリジナル版画(シルクスクリーン)を制作販売した人だ。フィリップという相棒と一緒に住んでいた。 ミッシェルアンリ オリジナル版画フランスの四季 お試しレンタルページ↓ 彼等は1985年~1986年に掛けて<フランスの四季>4部作、<パリシリーズ>4部作、<アジサイのベール>、<赤いインスピレーション>、<モンテカルロ>、<ベニスのラグーン>、<モンマルトル><ベニスのセントジョルジュ教会>、<黄金色のベニス>、<リビエラ>、<プロヴァンスの陽光>、<ブルガンディーのピクニック>合計18作を制作した。殆どが300部限定でEA(eprouve de l’artiste=作家保存版)とHC(hors du commerce=工房保存版)も含めると7000部程になった。 ミッシェル・アンリ オリジナル版画 ベニスのラグーン↓ ニューマン氏は全作品の内5000部程を日本のアメリカンアートを中心に高値でオリジナルシルクスクリーンを販売しているグループ会社に売った。ミッシェル・アンリはその頃、パリにも支店のあるアメリカのフィンドレー画廊と契約して毎年アメリカに行っていたので、ニューマン氏はミッシェル・アンリをアメリカでヒットしている画家として、日本のアメリカンアートの会社に売り込んだらしい。ミッシェル・アンリがフィンドレー画廊と契約していたので、彼はアメリカには売る事ができなかった。 ...
フランス大使主催ミッシェルアンリ歓迎パーティー|デビ夫人出席
お問い合わせは:03-5848-8605 又は右下チャット lineでどうぞ フランス大使主催のこのパーティーは、テレビなどでも活躍しているデビ夫人やオペラ歌手の秋川雅史氏なども参加してくれて大盛況だった。 当時秋川雅史氏はデビ夫人が育てていた無名のオペラ歌手だったが、その後<千の風になって>がヒットして一躍有名になり、紅白歌合戦などにも出場した。そのパーティーの様子をお伝えしよう。 挨拶するフランス大使とミッシェル・アンリ 大使夫人 ギャルリー亜出果武田↓ 私はフランス大使館と打ち合わせをしながら、パーティーの準備をした。ミッシェル・アンリ来日歓迎パーティーはフランス大使館の公式行事なので、経費はフランス大使館の負担だった。シャンペン、ワイン(ビールも日本酒も出ない)やオードブルなどのおつまみも全てフランス大使館が用意してくれたが、19時開催なのに食事はでなかったので、私は、パーティーの後、ギャルリー亜出果主催で地方から来てくれた方々の夕食会を催し宿泊ホテルも用意してもてなした。 ミッシェル・アンリ、デビ夫人、秋川雅史 小笠原先生↓ 来客は100人程で、1999年まで池袋サンシャインのフランス商工会議所展示場で運営していたギャラリーアデカや軽井沢プリンスのギャラリーヴァンドフランスの顧客、三越、大丸、天満屋などの百貨店の方その顧客、軽井沢プリンス関係の西武、パルコ、ミッシェル・アンリの絵画で館内を装飾している北海道の町立ホテルの町の町長一行、ミッシェル・アンリ友の会顧問の兵庫県知事の代理神戸日仏協会や国会議員、森喜朗元首相も交流があったので出席予定だった。 オリジナル版画(シルクスクリーン作家自筆サイン限定部数入り>↓ 日本ではパーティーも会合も司会者が進行役を務め、お偉方が何人も退屈な挨拶をして、参加者はその間、つまらない話に拍手して、ながったらしい乾杯の挨拶まで聞いて、漸く飲み物と食べ物にありつける。私もそのつもりにしていたが、大使は余計な挨拶は外したがった。 フランス人のパーティーはシンプルだ。司会などいらない。主催者(大使)が挨拶してすぐ乾杯。後は皆勝手に飲んで食べて、隣の人と会話で盛り上がって時間になったら解散だ。 ミッシェル・アンリ オリジナルシル版画(シルクスクリーン)ベニスの窓辺↓ ところが、結局日本式のパーティー形式になった。なぜなら、神戸の貝原知事はこられないので、メッセージをくれる事となり、森元首相も来る予定にしていたので、やはりそれらを紹介するのに司会者を置く事となり、私が司会進行役となった。大使がミッシェル・アンリを紹介し、ミッシェル・アンリが挨拶して、貝原兵庫県知事のメッセージを神戸日仏協会副会長が読み、森元首相は時間がずれ込み結局間に合わないので、出席していた兵庫県の奥谷衆議院議員が乾杯の挨拶をした。 乾杯の挨拶をする兵庫県の奥谷衆議院議員↓ 皆の挨拶が終わった頃、少し遅れて、デビ夫人が来てくれた。彼女の登場は圧巻だった。彼女は自分が育てているオペラ歌手の秋川雅史氏を引き連れてロングドレスを来て登場した。彼女の入場のアナウンスなどなかったが、彼女の発する華やかなオーラを誰もが感じ、誰もが彼女の来場を知り、前に進む彼女に道を開けた。彼女はまっすぐ会場の奥まで進み、ミッシェル・アンリに挨拶のキスをした。誰もが彼女とミッシェル・アンリを見ていた。 左から秋川雅史、ミッシェル・アンリ、石井氏(フランス在住ピアニスト) デビ夫人↓ 彼女が同伴して来た秋川雅史氏はオペラ歌手だが、カンツォーネ<サンタルチア>と<帰れソレント>を伴奏なしで熱唱して皆を感動させた。 ...
フランス大使主催ミッシェルアンリ歓迎パーティー|デビ夫人出席
お問い合わせは:03-5848-8605 又は右下チャット lineでどうぞ フランス大使主催のこのパーティーは、テレビなどでも活躍しているデビ夫人やオペラ歌手の秋川雅史氏なども参加してくれて大盛況だった。 当時秋川雅史氏はデビ夫人が育てていた無名のオペラ歌手だったが、その後<千の風になって>がヒットして一躍有名になり、紅白歌合戦などにも出場した。そのパーティーの様子をお伝えしよう。 挨拶するフランス大使とミッシェル・アンリ 大使夫人 ギャルリー亜出果武田↓ 私はフランス大使館と打ち合わせをしながら、パーティーの準備をした。ミッシェル・アンリ来日歓迎パーティーはフランス大使館の公式行事なので、経費はフランス大使館の負担だった。シャンペン、ワイン(ビールも日本酒も出ない)やオードブルなどのおつまみも全てフランス大使館が用意してくれたが、19時開催なのに食事はでなかったので、私は、パーティーの後、ギャルリー亜出果主催で地方から来てくれた方々の夕食会を催し宿泊ホテルも用意してもてなした。 ミッシェル・アンリ、デビ夫人、秋川雅史 小笠原先生↓ 来客は100人程で、1999年まで池袋サンシャインのフランス商工会議所展示場で運営していたギャラリーアデカや軽井沢プリンスのギャラリーヴァンドフランスの顧客、三越、大丸、天満屋などの百貨店の方その顧客、軽井沢プリンス関係の西武、パルコ、ミッシェル・アンリの絵画で館内を装飾している北海道の町立ホテルの町の町長一行、ミッシェル・アンリ友の会顧問の兵庫県知事の代理神戸日仏協会や国会議員、森喜朗元首相も交流があったので出席予定だった。 オリジナル版画(シルクスクリーン作家自筆サイン限定部数入り>↓ 日本ではパーティーも会合も司会者が進行役を務め、お偉方が何人も退屈な挨拶をして、参加者はその間、つまらない話に拍手して、ながったらしい乾杯の挨拶まで聞いて、漸く飲み物と食べ物にありつける。私もそのつもりにしていたが、大使は余計な挨拶は外したがった。 フランス人のパーティーはシンプルだ。司会などいらない。主催者(大使)が挨拶してすぐ乾杯。後は皆勝手に飲んで食べて、隣の人と会話で盛り上がって時間になったら解散だ。 ミッシェル・アンリ オリジナルシル版画(シルクスクリーン)ベニスの窓辺↓ ところが、結局日本式のパーティー形式になった。なぜなら、神戸の貝原知事はこられないので、メッセージをくれる事となり、森元首相も来る予定にしていたので、やはりそれらを紹介するのに司会者を置く事となり、私が司会進行役となった。大使がミッシェル・アンリを紹介し、ミッシェル・アンリが挨拶して、貝原兵庫県知事のメッセージを神戸日仏協会副会長が読み、森元首相は時間がずれ込み結局間に合わないので、出席していた兵庫県の奥谷衆議院議員が乾杯の挨拶をした。 乾杯の挨拶をする兵庫県の奥谷衆議院議員↓ 皆の挨拶が終わった頃、少し遅れて、デビ夫人が来てくれた。彼女の登場は圧巻だった。彼女は自分が育てているオペラ歌手の秋川雅史氏を引き連れてロングドレスを来て登場した。彼女の入場のアナウンスなどなかったが、彼女の発する華やかなオーラを誰もが感じ、誰もが彼女の来場を知り、前に進む彼女に道を開けた。彼女はまっすぐ会場の奥まで進み、ミッシェル・アンリに挨拶のキスをした。誰もが彼女とミッシェル・アンリを見ていた。 左から秋川雅史、ミッシェル・アンリ、石井氏(フランス在住ピアニスト) デビ夫人↓ 彼女が同伴して来た秋川雅史氏はオペラ歌手だが、カンツォーネ<サンタルチア>と<帰れソレント>を伴奏なしで熱唱して皆を感動させた。 ...
フランス共和国の大使がフランス絵画巨匠ミッシェル・アンリの歓迎パーティーを開催
フランス大使が公式行事として国費で、しかも大使公邸でミッシェルアンリ歓迎パーティーを開催するのは、フランス画家ミッシェルアンリが20世紀戦後フランスを代表国の重要な画家である事を日本人に理解してもらう為であった。 同時にアートを含む文化芸術(ファッションブランドなども含む)はフランスの重要な輸出産業であり、フランスの芸術ブランドであるミッシェル・アンリの価値を高める事は、フランス大使の使命でも事もご理解頂けると思う。 アメリカなどは、映画、ポップ音楽、ポップアートなどに力をいれているし、韓国が芸能産業を国の需要な産業に押し上げたが、フランスは19世紀から世界一の文化大国だ。日本は、アニメ、漫画とゲームが重要な文化産業となっている。 フランスの宝ともいえるミッシェルアンリの総代理店に選ばれ、日本各地でミッシェル・アンリの展示会を開催し、日本でのミッシェルアンリの油彩、版画の輸入販売できて、2016年のミッシェル・アンリの他界後も著作権管理も含め、ミッシェルアンリの代理店である事に、私(ギャルリー亜出果)は誇を感じている。 ミッシェル・アンリ歓迎カクテルパーティで挨拶するフランス大使と左から神戸日仏協会副会長小笠原英二氏、ギャルリー亜出果武田康弘(私)大使夫人 ミッシェル・アンリ↓ 当時は、日本が国際的な影響力が今より随分大きい時代だったのでフランス外務省の各国大使序列ではNo1がワシントン、No2が東京だった。グルドーモンターニュ氏は、外務省の超エリートだったので、それまで外国には出ていなかったため、東京が初めてで最後の赴任地となった。2002年にはフランス本国に召還されて、シラク大統領の外交顧問に就任した。その後、シラク大統領が外国に行く時はいつも、元駐日大使のグルドーモンターニュ氏がそばにいた。つまり、グルドーモンターニュ大使が超大物大使であった事がその事からも解る。 フランス大使がミッシェル・アンリ歓迎パーティーを開催したいきさつを説明しよう。 2000年のミッシェル・アンリ来日展は、神戸大丸と名古屋三越と東京では新宿高島屋でのみ開催された。 名古屋三越のミッシェル・アンリ来日展2000年 ギャルリー亜出果の卸先画廊のマネージャーとミッシェル・アンリ氏↓ グルドーモンターニュ駐日フランス大使は、2020年新宿高島屋で開催されたミッシェル・アンリ来日展を見に来てくれた。 ところが、この新宿高島屋でのミッシェル・アンリ来日展には、弊社が直接関与せず弊社の卸先の画廊が新宿高島屋に店舗を出している会社に作品を委託して、その会社の主催で開催されたため、余り格調の高くない展示会だった。 三越、伊勢丹、大丸などは、海外作家の情報も持ち積極的にフランス作家の販売をしていたが、高島屋は日本の作家をメインに販売していたので、フランスの事情にも精通せずミッシェル・アンリ展もそれほど重要視していなかったらしい。 新宿高島屋はフランス大使の突然の来場に驚き、店長が挨拶に来た。新宿高島屋の店長よりも、もっと驚いたのはグルドーモンテーニュフランス大使だった。 新宿高島屋でのミッシェル・アンリ来日展2000年 左から新宿高島屋店長 ミッシェル・アンリ氏 グルドーモンターニュ駐日大使↓ グルドーモンターニュ大使は、フランスでのミッシェルアンリの名声も知り、ミッシェル・アンリがヨーロッパで一番のパリの高級画廊街マチニョン街の画廊での展示会も見にった事もあるので、フランス絵画の宝ともいえるミッシェルアンリがこのような扱いをされいるのに、ショックを受けたようだ。 パリのアレクサンダーレオドゥーズ画廊のミッシェル・アンリ展↓ グルドーモンターニュフランス大使の反応は早かった。彼は、2001年のミッシェル・アンリの来日に合わせて、フランス大使公邸でミッシェル・アンリの歓迎パーティーを開催する事を決めた。 2001年は千葉三越、池袋三越、渋谷パルコと福島県いわき市の名門百貨店の大黒屋がミッシェル・アンリ展を開催する事となった。大黒屋は創立100周年にメインイベントとして春には陶芸の柿右衛門展、秋には絵画のミッシェル・アンリ来日展を開催する事として、大使館でのミッシェル・アンリ歓迎パーティーも地元のテレビ局が放送する事になった。 ...
フランス共和国の大使がフランス絵画巨匠ミッシェル・アンリの歓迎パーティーを開催
フランス大使が公式行事として国費で、しかも大使公邸でミッシェルアンリ歓迎パーティーを開催するのは、フランス画家ミッシェルアンリが20世紀戦後フランスを代表国の重要な画家である事を日本人に理解してもらう為であった。 同時にアートを含む文化芸術(ファッションブランドなども含む)はフランスの重要な輸出産業であり、フランスの芸術ブランドであるミッシェル・アンリの価値を高める事は、フランス大使の使命でも事もご理解頂けると思う。 アメリカなどは、映画、ポップ音楽、ポップアートなどに力をいれているし、韓国が芸能産業を国の需要な産業に押し上げたが、フランスは19世紀から世界一の文化大国だ。日本は、アニメ、漫画とゲームが重要な文化産業となっている。 フランスの宝ともいえるミッシェルアンリの総代理店に選ばれ、日本各地でミッシェル・アンリの展示会を開催し、日本でのミッシェルアンリの油彩、版画の輸入販売できて、2016年のミッシェル・アンリの他界後も著作権管理も含め、ミッシェルアンリの代理店である事に、私(ギャルリー亜出果)は誇を感じている。 ミッシェル・アンリ歓迎カクテルパーティで挨拶するフランス大使と左から神戸日仏協会副会長小笠原英二氏、ギャルリー亜出果武田康弘(私)大使夫人 ミッシェル・アンリ↓ 当時は、日本が国際的な影響力が今より随分大きい時代だったのでフランス外務省の各国大使序列ではNo1がワシントン、No2が東京だった。グルドーモンターニュ氏は、外務省の超エリートだったので、それまで外国には出ていなかったため、東京が初めてで最後の赴任地となった。2002年にはフランス本国に召還されて、シラク大統領の外交顧問に就任した。その後、シラク大統領が外国に行く時はいつも、元駐日大使のグルドーモンターニュ氏がそばにいた。つまり、グルドーモンターニュ大使が超大物大使であった事がその事からも解る。 フランス大使がミッシェル・アンリ歓迎パーティーを開催したいきさつを説明しよう。 2000年のミッシェル・アンリ来日展は、神戸大丸と名古屋三越と東京では新宿高島屋でのみ開催された。 名古屋三越のミッシェル・アンリ来日展2000年 ギャルリー亜出果の卸先画廊のマネージャーとミッシェル・アンリ氏↓ グルドーモンターニュ駐日フランス大使は、2020年新宿高島屋で開催されたミッシェル・アンリ来日展を見に来てくれた。 ところが、この新宿高島屋でのミッシェル・アンリ来日展には、弊社が直接関与せず弊社の卸先の画廊が新宿高島屋に店舗を出している会社に作品を委託して、その会社の主催で開催されたため、余り格調の高くない展示会だった。 三越、伊勢丹、大丸などは、海外作家の情報も持ち積極的にフランス作家の販売をしていたが、高島屋は日本の作家をメインに販売していたので、フランスの事情にも精通せずミッシェル・アンリ展もそれほど重要視していなかったらしい。 新宿高島屋はフランス大使の突然の来場に驚き、店長が挨拶に来た。新宿高島屋の店長よりも、もっと驚いたのはグルドーモンテーニュフランス大使だった。 新宿高島屋でのミッシェル・アンリ来日展2000年 左から新宿高島屋店長 ミッシェル・アンリ氏 グルドーモンターニュ駐日大使↓ グルドーモンターニュ大使は、フランスでのミッシェルアンリの名声も知り、ミッシェル・アンリがヨーロッパで一番のパリの高級画廊街マチニョン街の画廊での展示会も見にった事もあるので、フランス絵画の宝ともいえるミッシェルアンリがこのような扱いをされいるのに、ショックを受けたようだ。 パリのアレクサンダーレオドゥーズ画廊のミッシェル・アンリ展↓ グルドーモンターニュフランス大使の反応は早かった。彼は、2001年のミッシェル・アンリの来日に合わせて、フランス大使公邸でミッシェル・アンリの歓迎パーティーを開催する事を決めた。 2001年は千葉三越、池袋三越、渋谷パルコと福島県いわき市の名門百貨店の大黒屋がミッシェル・アンリ展を開催する事となった。大黒屋は創立100周年にメインイベントとして春には陶芸の柿右衛門展、秋には絵画のミッシェル・アンリ来日展を開催する事として、大使館でのミッシェル・アンリ歓迎パーティーも地元のテレビ局が放送する事になった。 ...
ミッシェル・アンリの絵画価値が高まっている理由
ミッシェル・アンリは20世紀戦後で最も優れた画家の一人である事を様々な角度から検証し、ミッシェル・アンリ絵画の価値が現在も価値を高めている現状の説明と将来もさらに価値を高める可能性についても説明する。 1980年頃から2021年40年間日本の絵画市場について 1980年にはフランス絵画と版画が盛んに輸入され日本で販売され始めた。最も大きな理由は日本の経済発展だ。日本は戦後奇跡の経済復興を遂げ、ドイツを抜きアメリカに次いで世界第2の経済大国になって、バブル経済へと昇りつめていった。1990年には日経平均株価は39000円の最高値となり、東京の土地の価格でアメリカ全土買えるとまで言われ、堤義明や森泰吉郎が交代世界一のお金持ちにランクされた。それは、1991年第一次湾岸戦争勃発によるバブル経済崩壊まで続いた。 堤義明氏がオーナーであった軽井沢プリンスホテルの軽井沢プリンスショッピングプラザオープニングセレモニー(ギャルリー亜出果もギャラリーヴァンドフランスを出展した。この写真は弊社のギャラリーヴァンドフランスの前で撮影した) 日本人は大企業から零細画商古物商までフランスに行き、フランス美術を買い漁った。19世紀の印象派20世紀のエコールドパリの画家などが数億、数十億円飛ぶように売れた。日本の絵画マーケット投資の対象となり、フランス美術がその中心となった。 当時日本人が沢山と止まった日本の地産グループが経営していたホテル門タボールがあったモントボール通り。現在はルネッサンスというホテルになっている。パリの中心にあり便利だった ↓ そのような時代を背景に所謂庶民や小金持ちお絵画版画を購入した。彼らが購入できたのは、戦後の画家で版画は数十万円油彩画数百万円から数千万円で購入きる戦後にデビューしたフランス画家達だ。 ベルナール・カトランの絵画↓ その中で最も日本で成功したのは、ベルナール・ビュッフェ、アンドレ・ブラジリ、ベルナール・カトラン、ジャン・ジャンセンとジャン・ピエール・カシニョールだ。彼ら以外にも10数人のフランス画家が日本で盛んに販売された。ピカソ、シャガール、ミロ、ローランさんなどのエコール・ド・パリ画家も版画は数十万から数百万円だったので庶民のマーケットで売られていた。 ミロの版画↓ この時代は多くの日本人がフランスに溢れ、パリの街角ですれ違うアジア人は殆ど日本人だった。多くの画商、古物商が盛んにパリに行っていた。私もその一人だった。 このオペラ通りはパリ観光のメインストリートの一つで、近くに東京銀行があったので当時は日本人が沢山歩いていた。 バブル経済後の1990年代は、シルクスクリーン版画を中心としたアメリカ系のポップアートが参入してフランス人気作家以上に値段で強引な手法で販売されて2000年頃には、その販売手法や枚数不正などがマスコミで明るみにでて批判の対象となり、信頼を失って2000年頃には見かけなくなった。 2000年頃には、日本の芸大教授を中心とした日本画家達が版画を制作してフランス絵画が創り上げたマーケットを占領した。中心的な作家は<平山郁夫、中島千波、東山魁夷、片岡球子、千住博、絹谷幸二>など芸大教授や勲章受章者達だ。彼らは百貨店や画廊を中心として市場を築き、市場を拡大しフランス系アメリカポップアート系は市場を失っていった。 2007年に東京大丸が閉店セールで美術品のセールで大成功を収めてからは、セールが中心となって、フランス系、アメリカ系、日本画家達全ての人気作家の作品がセールで売られる時代となった。その間、それらの人気画家の価格は下落を続けた。10年間程その状況が続いた結果、市場に売るべき美術品が不足する事となり、人気作家のセール販売も下火となり、新しい作家を模索されだした。その間に、国際的にマーケットを築いた日本のスーパースター、草間弥生、村上隆、などの作品は驚く程の価格高騰が起こった。 2021年に平山郁夫や片岡球子など日本の人気作家の偽物版画が見つかり、特に日本作家のオリジナル版画が信用失墜して、人気作家のセールを中心とした絵画市場は曲がり角を迎えている。価値があり、偽物の心配のない美術品が求められ始めた。セール販売の中心となったセカンダリー(中古品)の美術市場が、所謂過去のブランドの中古品ではなく、過去のネームバリューより、出どころがはっきりして本物(偽物ではない)の作品を求める傾向が出てきている。 ミッシェル・アンリは21世紀にも価値が高まる ミッシェル・アンリがダリアを描いた絵画↓ ミッシェル・アンリのフランスとアメリカでの高い評価 ミッシェル・アンリは、日本で成功を納めたビュッフェ、ブラジリエ、カトラン、などと同時代に活躍した画家です。同じ時代ボザールを卒業して戦後のフランス絵画の栄光をになった画家の一人だ。ビュッフェ、ブラジリエ、カトラン、ジャンセン、カシニョールが日本で売れ始めた1980年代にミッシェル・アンリはアメリカのフィンドレー画廊と契約してアメリカとフランスで活躍していた。その為、日本では、彼ら程は知名度、上がりらなかった。上記フランス画家でカシニョール以外はミッシェル・アンリを含んレジオン・ドヌール勲章作家です。1960年~2000年にレジオン・ドヌール勲章を受章した数少ない画家達だ。そして、カシニョール以外の上記作家はヨーロッパ一のパリの高級画廊街であるマチニョン通リの高級画廊の契約画家だ。 つまり、生涯フランスの高級画廊街の画家で、レジオン・ドヌール勲章を受けた作家は20世紀戦後ではミッシェル・アンリ、ベルナール・ビュッフェ、ベルナール・カトラン、ジャン・ジャンセンの4人だけだ。ブラジリエは後のサンジェルマンの近くの小さいな画廊に移った。 ミッシェル・アンリの優れた絵画の質 油彩画に重要な5つの要素がある 1:デッサン(形体)...
ミッシェル・アンリの絵画価値が高まっている理由
ミッシェル・アンリは20世紀戦後で最も優れた画家の一人である事を様々な角度から検証し、ミッシェル・アンリ絵画の価値が現在も価値を高めている現状の説明と将来もさらに価値を高める可能性についても説明する。 1980年頃から2021年40年間日本の絵画市場について 1980年にはフランス絵画と版画が盛んに輸入され日本で販売され始めた。最も大きな理由は日本の経済発展だ。日本は戦後奇跡の経済復興を遂げ、ドイツを抜きアメリカに次いで世界第2の経済大国になって、バブル経済へと昇りつめていった。1990年には日経平均株価は39000円の最高値となり、東京の土地の価格でアメリカ全土買えるとまで言われ、堤義明や森泰吉郎が交代世界一のお金持ちにランクされた。それは、1991年第一次湾岸戦争勃発によるバブル経済崩壊まで続いた。 堤義明氏がオーナーであった軽井沢プリンスホテルの軽井沢プリンスショッピングプラザオープニングセレモニー(ギャルリー亜出果もギャラリーヴァンドフランスを出展した。この写真は弊社のギャラリーヴァンドフランスの前で撮影した) 日本人は大企業から零細画商古物商までフランスに行き、フランス美術を買い漁った。19世紀の印象派20世紀のエコールドパリの画家などが数億、数十億円飛ぶように売れた。日本の絵画マーケット投資の対象となり、フランス美術がその中心となった。 当時日本人が沢山と止まった日本の地産グループが経営していたホテル門タボールがあったモントボール通り。現在はルネッサンスというホテルになっている。パリの中心にあり便利だった ↓ そのような時代を背景に所謂庶民や小金持ちお絵画版画を購入した。彼らが購入できたのは、戦後の画家で版画は数十万円油彩画数百万円から数千万円で購入きる戦後にデビューしたフランス画家達だ。 ベルナール・カトランの絵画↓ その中で最も日本で成功したのは、ベルナール・ビュッフェ、アンドレ・ブラジリ、ベルナール・カトラン、ジャン・ジャンセンとジャン・ピエール・カシニョールだ。彼ら以外にも10数人のフランス画家が日本で盛んに販売された。ピカソ、シャガール、ミロ、ローランさんなどのエコール・ド・パリ画家も版画は数十万から数百万円だったので庶民のマーケットで売られていた。 ミロの版画↓ この時代は多くの日本人がフランスに溢れ、パリの街角ですれ違うアジア人は殆ど日本人だった。多くの画商、古物商が盛んにパリに行っていた。私もその一人だった。 このオペラ通りはパリ観光のメインストリートの一つで、近くに東京銀行があったので当時は日本人が沢山歩いていた。 バブル経済後の1990年代は、シルクスクリーン版画を中心としたアメリカ系のポップアートが参入してフランス人気作家以上に値段で強引な手法で販売されて2000年頃には、その販売手法や枚数不正などがマスコミで明るみにでて批判の対象となり、信頼を失って2000年頃には見かけなくなった。 2000年頃には、日本の芸大教授を中心とした日本画家達が版画を制作してフランス絵画が創り上げたマーケットを占領した。中心的な作家は<平山郁夫、中島千波、東山魁夷、片岡球子、千住博、絹谷幸二>など芸大教授や勲章受章者達だ。彼らは百貨店や画廊を中心として市場を築き、市場を拡大しフランス系アメリカポップアート系は市場を失っていった。 2007年に東京大丸が閉店セールで美術品のセールで大成功を収めてからは、セールが中心となって、フランス系、アメリカ系、日本画家達全ての人気作家の作品がセールで売られる時代となった。その間、それらの人気画家の価格は下落を続けた。10年間程その状況が続いた結果、市場に売るべき美術品が不足する事となり、人気作家のセール販売も下火となり、新しい作家を模索されだした。その間に、国際的にマーケットを築いた日本のスーパースター、草間弥生、村上隆、などの作品は驚く程の価格高騰が起こった。 2021年に平山郁夫や片岡球子など日本の人気作家の偽物版画が見つかり、特に日本作家のオリジナル版画が信用失墜して、人気作家のセールを中心とした絵画市場は曲がり角を迎えている。価値があり、偽物の心配のない美術品が求められ始めた。セール販売の中心となったセカンダリー(中古品)の美術市場が、所謂過去のブランドの中古品ではなく、過去のネームバリューより、出どころがはっきりして本物(偽物ではない)の作品を求める傾向が出てきている。 ミッシェル・アンリは21世紀にも価値が高まる ミッシェル・アンリがダリアを描いた絵画↓ ミッシェル・アンリのフランスとアメリカでの高い評価 ミッシェル・アンリは、日本で成功を納めたビュッフェ、ブラジリエ、カトラン、などと同時代に活躍した画家です。同じ時代ボザールを卒業して戦後のフランス絵画の栄光をになった画家の一人だ。ビュッフェ、ブラジリエ、カトラン、ジャンセン、カシニョールが日本で売れ始めた1980年代にミッシェル・アンリはアメリカのフィンドレー画廊と契約してアメリカとフランスで活躍していた。その為、日本では、彼ら程は知名度、上がりらなかった。上記フランス画家でカシニョール以外はミッシェル・アンリを含んレジオン・ドヌール勲章作家です。1960年~2000年にレジオン・ドヌール勲章を受章した数少ない画家達だ。そして、カシニョール以外の上記作家はヨーロッパ一のパリの高級画廊街であるマチニョン通リの高級画廊の契約画家だ。 つまり、生涯フランスの高級画廊街の画家で、レジオン・ドヌール勲章を受けた作家は20世紀戦後ではミッシェル・アンリ、ベルナール・ビュッフェ、ベルナール・カトラン、ジャン・ジャンセンの4人だけだ。ブラジリエは後のサンジェルマンの近くの小さいな画廊に移った。 ミッシェル・アンリの優れた絵画の質 油彩画に重要な5つの要素がある 1:デッサン(形体)...
色彩理論に革新をおこしたフランス絵画巨匠画家ミッシェル・アンリ
お問い合わせは:03-5848-8605 又は右下チャット lineでどうぞ フランス絵画巨匠画家ミッシェル・アンリの色彩理論の革新とは、従来の絵画理論を越え赤を明るい色彩として使用して成功した事だ。一般的には赤は暗い色として扱われたいたが、ミッシェル・アンリを明るく輝かせて、赤で光まで表現した。 赤に赤を重ねてこのような美しい絵を描く画家を見たことがない。ルネッサンス美術からバロック絵画(この辺りまで、イタリアやオランダがスペインが中心)ロココ時代(ここからフランス絵画の時代が始まる)、象徴派、印象派そして20世紀のエコールドパリの画家の誰も試みなかった冒険をミッシェル・アンリは成し遂げた。 色価(=Valeurフランス語)という言葉は、耳慣れない言葉かもしれないが、画家や私達のように絵画を扱う者にとっては珍しい言葉ではない。色価<=Valuerフランス語>について説明しておこう。物質は光を反射して、その光が眼の網膜入り網膜の機能によって色や形の情報を脳に送り脳が色彩や形を認識する。つまり、色は物質(対象物)、光、眼、と脳みその相関関係で成り立っている。 (そのメカニスムは、布施英利氏(美術評論家)著書<脳の中の美術館:千曲学芸文庫)に分かりやすく説明されている。 余談だが、私は布施さんと二人で<日本人に愛されたフランス絵画>の題で二人で講演した事があるが、思考力が優れた人だ。) 布施英利と脳の中の美術館↓ 絵画は、現実の世界の対象物(風景、静物、人物など)と光、眼、脳の間で発生する複雑な関係をキャンバス上に表現されたものだ。もちろん、その描かれた絵画もまた、対象物でその複雑な相関関係で認識されるが、その問題はここでは触れない。 つまり、絵画は現実の世界の対象物の色彩を忠実に表現する事より、それがどの様に人間の眼に映るかを計算して、そのためにはどの色をどこに置くか、その色と他の色との相関関係の中で置く色を決める事になる。色価とは、大雑把にいえば、色彩間の相関関係の事だ。明確に一覧表があって規定されているわけではないので、それぞれの作家の判断でそれを決めるが、白は最も明るい色価であり、黒や茶色は暗い色価に分類される。 では、ミッシェル・アンリの赤に戻ろう。 ミッシェル・アンリはボザール(国立パリ高等美術学校)で2人の先生についた。 ボザールの正門↓ セーヌ川の岸辺 初級クラスでナルボンヌ、本科でシャプラン・ミディだ。ナルボンヌはデッサンの教授で、シャプラン・ミディは色彩の大家だった。ナルボンヌのクラスでは、ビュッフェも同じクラスにいたが、彼は中退した。ビュッフェは色彩を学ぶ事なく、シンプルなデッサンの魅力だけで描き続けた。 ボザールの建物 セーヌ川の岸辺 ↓ ミッシェル・アンリはシャプラン・ミディから色彩力をたたき込まれた。ある時、シャプラン・ミディは、ミッシェル・アンリが赤を明るい色彩とし使用して絵画を成功させているのを見て、ミッシェル・アンリは私を越えたと言った。従来の色彩論では赤は暗い色彩に分類されるが、ミッシェル・アンリは赤を基調に明るく輝く絵画を描いたのだ。 ミッシェル・アンリは30種類もの赤系統の絵具を使う、フランス製、イタリア製、オランダ製、アメリカ製、ドイツ製で微妙に色彩が異なる赤を使い分けるのだ。 赤を明るく輝く色彩と使用して、赤に赤を塗り重ねた美しい作品を見て欲しい。 ミッシェル・アンリ <赤いシンフォニー> 油彩50号...
色彩理論に革新をおこしたフランス絵画巨匠画家ミッシェル・アンリ
お問い合わせは:03-5848-8605 又は右下チャット lineでどうぞ フランス絵画巨匠画家ミッシェル・アンリの色彩理論の革新とは、従来の絵画理論を越え赤を明るい色彩として使用して成功した事だ。一般的には赤は暗い色として扱われたいたが、ミッシェル・アンリを明るく輝かせて、赤で光まで表現した。 赤に赤を重ねてこのような美しい絵を描く画家を見たことがない。ルネッサンス美術からバロック絵画(この辺りまで、イタリアやオランダがスペインが中心)ロココ時代(ここからフランス絵画の時代が始まる)、象徴派、印象派そして20世紀のエコールドパリの画家の誰も試みなかった冒険をミッシェル・アンリは成し遂げた。 色価(=Valeurフランス語)という言葉は、耳慣れない言葉かもしれないが、画家や私達のように絵画を扱う者にとっては珍しい言葉ではない。色価<=Valuerフランス語>について説明しておこう。物質は光を反射して、その光が眼の網膜入り網膜の機能によって色や形の情報を脳に送り脳が色彩や形を認識する。つまり、色は物質(対象物)、光、眼、と脳みその相関関係で成り立っている。 (そのメカニスムは、布施英利氏(美術評論家)著書<脳の中の美術館:千曲学芸文庫)に分かりやすく説明されている。 余談だが、私は布施さんと二人で<日本人に愛されたフランス絵画>の題で二人で講演した事があるが、思考力が優れた人だ。) 布施英利と脳の中の美術館↓ 絵画は、現実の世界の対象物(風景、静物、人物など)と光、眼、脳の間で発生する複雑な関係をキャンバス上に表現されたものだ。もちろん、その描かれた絵画もまた、対象物でその複雑な相関関係で認識されるが、その問題はここでは触れない。 つまり、絵画は現実の世界の対象物の色彩を忠実に表現する事より、それがどの様に人間の眼に映るかを計算して、そのためにはどの色をどこに置くか、その色と他の色との相関関係の中で置く色を決める事になる。色価とは、大雑把にいえば、色彩間の相関関係の事だ。明確に一覧表があって規定されているわけではないので、それぞれの作家の判断でそれを決めるが、白は最も明るい色価であり、黒や茶色は暗い色価に分類される。 では、ミッシェル・アンリの赤に戻ろう。 ミッシェル・アンリはボザール(国立パリ高等美術学校)で2人の先生についた。 ボザールの正門↓ セーヌ川の岸辺 初級クラスでナルボンヌ、本科でシャプラン・ミディだ。ナルボンヌはデッサンの教授で、シャプラン・ミディは色彩の大家だった。ナルボンヌのクラスでは、ビュッフェも同じクラスにいたが、彼は中退した。ビュッフェは色彩を学ぶ事なく、シンプルなデッサンの魅力だけで描き続けた。 ボザールの建物 セーヌ川の岸辺 ↓ ミッシェル・アンリはシャプラン・ミディから色彩力をたたき込まれた。ある時、シャプラン・ミディは、ミッシェル・アンリが赤を明るい色彩とし使用して絵画を成功させているのを見て、ミッシェル・アンリは私を越えたと言った。従来の色彩論では赤は暗い色彩に分類されるが、ミッシェル・アンリは赤を基調に明るく輝く絵画を描いたのだ。 ミッシェル・アンリは30種類もの赤系統の絵具を使う、フランス製、イタリア製、オランダ製、アメリカ製、ドイツ製で微妙に色彩が異なる赤を使い分けるのだ。 赤を明るく輝く色彩と使用して、赤に赤を塗り重ねた美しい作品を見て欲しい。 ミッシェル・アンリ <赤いシンフォニー> 油彩50号...
フランス絵画の巨匠画家ミッシェル・アンリは65年間ヨーロッパ一のパリの高級画廊街の画家だった
パリの大統領官邸とも隣接するマチニョン街はヨーロッパ一番の高級画廊街で、世界一美しいシャンゼリゼ通りを渡るとシャネルなど高級ブランドの本社も立ち並ぶ、ミッシェル・アンリそのマチニョン街ののロマネ画廊の画家としてデビューし、生涯マチニョン街の画廊のスターだった。 現在のマチニョン通リの画廊↓ マチニョン街について説明しておこう。パリの北西の小高い丘に凱旋門があり、凱旋門から世界一美しいと言われるシャンゼリゼ通りのなだらかな坂道を降りきった辺りを右に折れるとマチニョン通りで画廊ばかりが並んでいる。 シャンゼリゼ通リの坂道を降りきった辺りから凱旋門が見える↓ 同じ所を左に折れると有名なフランスブランドの本社などがあるモンテーニュ通リだ シャネル、ディオール、など10数社のブランドの本社が並んでいる。このモンテーニュ通リからシャンゼリゼを横切ると高級画廊街マチニョン通りが始まる。 モンテーニュ通りのシャネル本社↓ マチニョン通リを100メートル程行くと、高級ブティックや超高級ホテルが集まるフォブールサントノレ通リと交差する。マチニョン街から200メートル程の所、シャンゼリゼ通りとフォブールサントノレ通りに挟まれるようにエリゼ宮とその庭園がある。エリゼ宮は現在は大統領官邸になっている。つまり、マチニョン通り、フォブールサントノレ通りには、世界中の政治家、財界人などが集まり、高級ブランド、絵画が売れる仕組みになっている。 フォブール・サントノレの高級ホテル↓ ただ、21世紀に入ってからは、マチニョンは家賃が高すぎるので、4区のマレー地区(ピカソ美術館がある)辺りに、規模の小さい画廊が沢山出店してそちらの方が活発になっている。 マレー地区の画廊が集まるボージュ広場の画廊↓ ミッシェル・アンリの学生生活は長かった。彼は、学生時代から様々の展示会に出展し賞を受賞した。それらの賞ご褒美の奨学金で、オランダ、スペイン、イタリアに留学していたからだ。ミッシェル・アンリが学生生活を終えた頃には30歳近い年齢になっていた。 パリに戻ったミッシェル・アンリを迎えたロマネ画廊はミッシェル・アンリの先生のシャプラン・ミディなど当時の人気画家が在籍していたマチニョン街でもトップクラスの画廊だった。アメリカの人気女優でスエーデン出身のグレダ・ガルボは、絵画のコレクターとしても有名だが、彼女がミッシェル・アンリの絵画を購入したのも、このロマネ画廊だ。 ミッシェル・アンリが最初に契約したロマネ画廊の場所は現在は日本の画廊↓ その後、1970年頃ロマネ画廊のオーナーが高齢化して後継者もいなかった為、画廊を閉じる事となり、ミッシェル・アンリはやはりマチニョン街のアメリカのフィンドレー画廊と契約する事となった。ミッシェル・アンリは20年間パリのフィンドレー画廊での展示会はもとより、毎年アメリカのシカゴ、ロサンジェルス、ニューヨーク、マイアミなどフィンドレー画廊で個展を開催してアメリカを訪れ、ミッシェル・アンリの南フランスの別荘にはアメリカ人が頻繁に訪れた。ミッシェル・アンリはポピーを題材に描く事が多い為、アメリカではKING OF POPEE(ポピーの王様)と言われた。 ミッシェル・アンリのアメリカ画廊フィンドレーがあり、後には アレクサンダー・レオドゥーズ画廊があった場所↓ ポピー(フランス語ではコクリコ)は、花弁が薄く半透明で、自然の中で可憐に咲いているが、切り取って花瓶に活けると半日で枯れてしまう。ミッシェル・アンリはポピーの可憐で華やかな色彩を愛したと同時にその儚い命を愛し、その一瞬の美を画布に永遠に固定させようとしたが、アメリカ人がポピーの儚さに思いをはせたかどうかは疑問だ。彼らは、ミッシェル・アンリの輝く色彩と大きな構図で描かれたポピーの豪華さを愛してポピー王様という派手な名称をミッシェル・アンリに送ったに違いない。 文化論になるが、アメリカ人は<Oh,It’s great=偉大だ、素晴らしい>が口癖だが、フランス人は<C’est petit、petit>=小さくて可愛い>と喜ぶ。日本人もアメリカ的な感性より、フランス人に近い感性だ、命の儚さに美を感じる。...
フランス絵画の巨匠画家ミッシェル・アンリは65年間ヨーロッパ一のパリの高級画廊街の画家だった
パリの大統領官邸とも隣接するマチニョン街はヨーロッパ一番の高級画廊街で、世界一美しいシャンゼリゼ通りを渡るとシャネルなど高級ブランドの本社も立ち並ぶ、ミッシェル・アンリそのマチニョン街ののロマネ画廊の画家としてデビューし、生涯マチニョン街の画廊のスターだった。 現在のマチニョン通リの画廊↓ マチニョン街について説明しておこう。パリの北西の小高い丘に凱旋門があり、凱旋門から世界一美しいと言われるシャンゼリゼ通りのなだらかな坂道を降りきった辺りを右に折れるとマチニョン通りで画廊ばかりが並んでいる。 シャンゼリゼ通リの坂道を降りきった辺りから凱旋門が見える↓ 同じ所を左に折れると有名なフランスブランドの本社などがあるモンテーニュ通リだ シャネル、ディオール、など10数社のブランドの本社が並んでいる。このモンテーニュ通リからシャンゼリゼを横切ると高級画廊街マチニョン通りが始まる。 モンテーニュ通りのシャネル本社↓ マチニョン通リを100メートル程行くと、高級ブティックや超高級ホテルが集まるフォブールサントノレ通リと交差する。マチニョン街から200メートル程の所、シャンゼリゼ通りとフォブールサントノレ通りに挟まれるようにエリゼ宮とその庭園がある。エリゼ宮は現在は大統領官邸になっている。つまり、マチニョン通り、フォブールサントノレ通りには、世界中の政治家、財界人などが集まり、高級ブランド、絵画が売れる仕組みになっている。 フォブール・サントノレの高級ホテル↓ ただ、21世紀に入ってからは、マチニョンは家賃が高すぎるので、4区のマレー地区(ピカソ美術館がある)辺りに、規模の小さい画廊が沢山出店してそちらの方が活発になっている。 マレー地区の画廊が集まるボージュ広場の画廊↓ ミッシェル・アンリの学生生活は長かった。彼は、学生時代から様々の展示会に出展し賞を受賞した。それらの賞ご褒美の奨学金で、オランダ、スペイン、イタリアに留学していたからだ。ミッシェル・アンリが学生生活を終えた頃には30歳近い年齢になっていた。 パリに戻ったミッシェル・アンリを迎えたロマネ画廊はミッシェル・アンリの先生のシャプラン・ミディなど当時の人気画家が在籍していたマチニョン街でもトップクラスの画廊だった。アメリカの人気女優でスエーデン出身のグレダ・ガルボは、絵画のコレクターとしても有名だが、彼女がミッシェル・アンリの絵画を購入したのも、このロマネ画廊だ。 ミッシェル・アンリが最初に契約したロマネ画廊の場所は現在は日本の画廊↓ その後、1970年頃ロマネ画廊のオーナーが高齢化して後継者もいなかった為、画廊を閉じる事となり、ミッシェル・アンリはやはりマチニョン街のアメリカのフィンドレー画廊と契約する事となった。ミッシェル・アンリは20年間パリのフィンドレー画廊での展示会はもとより、毎年アメリカのシカゴ、ロサンジェルス、ニューヨーク、マイアミなどフィンドレー画廊で個展を開催してアメリカを訪れ、ミッシェル・アンリの南フランスの別荘にはアメリカ人が頻繁に訪れた。ミッシェル・アンリはポピーを題材に描く事が多い為、アメリカではKING OF POPEE(ポピーの王様)と言われた。 ミッシェル・アンリのアメリカ画廊フィンドレーがあり、後には アレクサンダー・レオドゥーズ画廊があった場所↓ ポピー(フランス語ではコクリコ)は、花弁が薄く半透明で、自然の中で可憐に咲いているが、切り取って花瓶に活けると半日で枯れてしまう。ミッシェル・アンリはポピーの可憐で華やかな色彩を愛したと同時にその儚い命を愛し、その一瞬の美を画布に永遠に固定させようとしたが、アメリカ人がポピーの儚さに思いをはせたかどうかは疑問だ。彼らは、ミッシェル・アンリの輝く色彩と大きな構図で描かれたポピーの豪華さを愛してポピー王様という派手な名称をミッシェル・アンリに送ったに違いない。 文化論になるが、アメリカ人は<Oh,It’s great=偉大だ、素晴らしい>が口癖だが、フランス人は<C’est petit、petit>=小さくて可愛い>と喜ぶ。日本人もアメリカ的な感性より、フランス人に近い感性だ、命の儚さに美を感じる。...