ミッシェル・アンリ資料

20世紀後半を代表するフランスの巨匠画家ミッシェル・アンリの雑誌掲載記事、ギャルリー亜出果への手紙等の資料を集めました。21世紀の今も世界中に感動を与え続けているミッシェル・アンリの作品とミッシェル・アンリに様々な角度から光を与えてみましょう。

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1:ミッシェル・アンリからギャルリー亜出果への手紙 

私は自然の画家です。木々、原野、森、花々、果実など全て好きです。だから、私は農業功労賞を受賞いたしました。この賞は、多くの方が受賞を望まれますが、アーティストが受賞する事は稀です。この作品は野の花々のブーケです。とてもシンプルで素朴な作品です。画家がいなければ、コクリコがこれほど賞でられる事はないでしょう。なぜなら切り取られて花瓶に入れられたコクリコは、すぐに色褪せてしまうからです。画家がいなかったら、コクリコが他の花々と一緒に花瓶に行けられるのを見ることも無いでしょう。なぜなら、他の花々が長く咲き誇っていても、コクリコはすぐに萎れてしまいますから、一緒に活ける事が出来ないのです。つまり、画家の魔法によってコクリコは枯れずに咲き誇っているのです。魔法とは画家のイマジネーションです。普通の花は、花瓶の水を吸い上げて生き延びますが、コクリコは逆に樹液が水の中に流れ出しすぐに枯れてしますのです。コクリコを花瓶の水に浸けると驚く程の速さで萎れます。自然のミステリーです。コクリコはかよわい花です。画家の魔法とは、一瞬にして枯れてしまう、コクリコにキャンヴァスの上で永遠の命を与えるのです。

 

2:ユニヴェール・デ・ザール2013年7&8月合併号

ミッシェル・アンリ特集 

最近開催されたマレの画家展でも、ミッシェル・の登場はやはり注目を集めた。ミッシェル・アンリは極度に控え目にしていても、彼の絵画マーケットでの大きな存在感を常に感じさせる。 

ミッシェル・アンリは同世代の具象画家の中でも特に活躍している画家である。彼は、40年間常にフランス人に支持された高い価値の画家である。それは、彼のコレクターやメセナのリストを見てもすぐに解ることだ。大統領夫妻、大臣、国家の要人、有名な俳優は歌手などを彼の絵画は魅了し続けてきた。フランスのエリート達の美しい客間に招待されるとミッシェル・アンリの絵画を目にするだろう。 

今日、ミッシェル・アンリは多くのイヴェントに参加し彼の絵画は、展示され、輸出され売られている。オークションでの重要な品目に数えられ、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、日本、韓国の客を引き寄せている。それらの国で、巨匠ミッシェル・アンリは非常に稀な卓越した画家として愛されている。彼のマチエール(絵画の質感)が生み出す澄んだ透明感のある絵画は、彼の無二の才能の証であり、美と愛の永遠の栄光を作り続けている。

 

 3:ユニベール・デ・ザール誌2004年4月号

ユニベール・デ・ザール誌xミッシェル・アンリ対談 

 ユニペール・デ・ザール誌の質問: 貴方の絵画について聞かせてください。 

ミッシェル・アンリ: 私にとっては、絵画のテクニックと知識がとても大切です。歳を経れば、経るほどに才能だけでは描けないとの思いを深めます。才能はテクニックの裏付け、つまり勤勉な  練習があって初めて開花します。だから、4・5点画いて画家と名乗る事は出来ません。絵画が偶然に巧く画ける事も、偶然に失敗する事も有り得ないのです。アマチアの画家は、なぜ巧く画けたのか、なぜ駄目だったのがわからないのですが、プロはその理由を知っています。テクニックが全ての基本であるとすれば、デッサンはテクニックの基本です。タブロー(油彩画)を見る時には、色彩の下にデッサンが、構成が、建築がある事を知るべきです。偉大な画家の研究をすれば解る事ですが、訓練によって完成されたテクニックを持たない画家はいません。完全にテクニックを身に付けた後に、その画家の独自性が完成するのです。 

ユニペール・デ・ザール誌の質門:どの画家が一番心に響きますか。 

ミッシェル・アンリ:私の好きな画家ですか?ボナール(Bonanard)よりも、ビュイアール(Vuillard)、クレーよりもスタールが好きです。私にとってはいビュイアールは生き生きとしてストレートです。スタールに関して言えば、自然から出発して抽象に至ります。クレーはその逆方向で、抽象から自然に向かいます。

 ユニペール・デ・ザール誌の質門:印象派については如何ですか。

 ミッシェル・アンリ:印象派は余りに全員一致で人気が在りすぎます。今日では、印象派は自己完結しているように思われていますが、ある時代の流行に過ぎません。なのに、フランス絵画はルイ15世の世紀で止まってしまったかのように思われています。例えルイ15世の時代に芸術が完成の時をむかえたとしても、その時代で芸術が停止する訳では在りません。

 ユニペール・デ・ザール誌の質門:貴方の最近のインスピレーションについてお伺いしたいのです。インスピレーションは時と共に変化しますか。 

ミッシェル・アンリ:私のインスピレーションはずっと同じです。けれども、進化していきます。私の初めてのタブロー(油彩画)は窓の前にあるミモザのブーケでした。背景は想像で画きました。その、想像して画いた背景は私の故郷ラングルの城壁でした。その時やはり、カーテンも画きました。

 ユニペール・デ・ザール誌の質門:貴方の絵画のオリジナリティはどのようにして生まれましたか。 

ミッシェル・アンリ:私にとって運命的な欠陥によって生まれました。つまり、欠陥が最大の魅力になったのです。私が画き始めた時、私は色価(valeur)に無関心で色彩にのみ興味が在りました。例えば赤は沈んだ色価(valeur)ですが、私は輝く色彩と考え、明るい色価(valeur)として使用しました。その結果、絵の背景は明るいものですか、私は逆に沈んだ色にしました。それでも、結構見られる絵になったのです。私には色彩が色価(valeur)より優先するのです。今でも思い出すのですが、私の指導教授のシャプラン・ミディが<君は色価を無視して絵を完成させる幸運を掴んだ、私は何時も色価を考えながら画かなければならない>と嘆いたものです。

 ユニペール・デ・ザール誌の質門:貴方は自分の見た物とモチーフから自由になれますか。 

ミッシェル・アンリ:勿論です。幸運な事に絵画は人工の物なので、目でみる現実その物ではありません。むしろ、芸術家はその現実の後ろに何があるかを見抜いていくのです。

 ユニペール・デ・ザール誌の質門:つまり貴方は非常に豊かな想像力に恵まれていると考えてよろしいですか。

 ミッシェル・アンリ:それは、分かりません。私は全ての物から学びます。例えば、散歩する時、周囲を見ながら歩きます。私が、タブローを画き始める時、すでになすべき事が分かっています。アイデアが完全に固まっていない時でも、進めて行くうちに突然閃きます。

 ユニペール・デ・ザール誌の質門:もし、間違っていたらすみませんが。結構、速く画かれるようですね。

 ミッシェル・アンリ:はい、画くスピードは速い方です。私の周りには、良い画家でもっと早く画く人もいます。私は効率の良いほうです。画くスピードはその画家の個性に依ります。モリエールは<人間嫌い>の中で「時間を掛ければ良いとゆうものでは無い」といっています。作品の質は製作に掛けた時間に比例しません。非常に幸運に恵まれる時があって、その時は自分で自分の限界を超えていると感じます。自分でも驚くのです。絵画の魔法とでの言いましょうか。

4:ユニベール・デ・ザール誌2003年9月号

ミッシェル・アンリ回顧展 1949年~2003年特集

 この9月はミッシェル・アンリにとって重要なヴァカンス明けとなった。ミディ・ピレネー地方議会とタルヌ県議会が、ツールーズ・ロートレックの生まれた町アルビーで彼の大規模な回顧展を開催する。ミッシェル・アンリの才能については異論の無いところだが、フランスのみならず海外<特にアメリカと日本>でも彼のコレクターは多い。 

この地方のミッシェル・アンリのコレクターのミッシェル・ゴメス氏が中心となって企画を進め、アルビーでのサローンヌ・ドートンヌが開催されるムーラン・アルビジュワで、つまり画家にとっても親しい場所での開催となった。ミッシェル・アンリがフランス国立高等美術学校卒業直後の1951年~1956年アムステルダムのデカルトの家に留学中の作品、1957-1958年マドリッドのベラスケスの家留学中の作品など古い時代の作品に触れる絶好の機会だ。 

もちろん最近の作品も展示され、皆さんの馴染み深い、前景にブーケがあり、後景に開かれた窓の向こうに風景や海景が配された構図の作品もご覧になれる。ミッシェル・アンリの言葉を引用しよう<私は自然を私の感性に従って再創造する。私のヴィジョンは植物画家とも、風景画家とも、ましてやシュールレアリストとも違う。私は私が見たものを描くのではない。私が見た物は、私が見ていない物を描くために必要なのだ。>ミッシェル・アンリの作品には透明感がある。花や果物が盛られた、クリスタルの瓶、コンポート、花瓶などをキャンバスに描き出す。 

彼が花を好きなのは、この自然のエレメントは例外的な色彩のニュアンスを持っているからだ、自然の中のどんな物よりも勝った輝きだ。再びミッシェル・アンリを引用しよう<もし、私がよく花を描くとすれば、この世で一番美しい色は花の色であり、また、花の表情から、その香りも感じる事が出来ることを確信しているからだ。>

 100点余りの作品が展示され、来場者は20世紀の巨匠の作品を一堂に見ることが出る。   パトリス・ド・ラ・ペリール

 

5:ユニベール・デ・ザール誌2003年6月号

ミッシェル・アンリ特集 

 芸術作品は観賞する人を想定している。誰にも見られずにアトリエの片隅に捨て置かれる物ではない。芸術作品が生きるとは、見られ感動される事であろう。 ミッシェル・アンリはエゴイストではない。彼が感動し、見たものを静かに詩的に表現する。サンレミにあるジュエンヌ美術館のエステルギャラリーを訪れる者は、ミッシェル・アンリの作品がバランスよく展示されているのに出会うことだろう。純粋な線の美しさ、透明感と輝きのある赤、輝く部分を引き立たせるブラウンなど、その繊細で卓越した画家の才能が現実世界をミッシェル・アンリの世界へと変貌させる。サクランボ、コクリコやパリの風景などは、私たちにとっては日常的な物であり、特筆する程ではないが、これらのオブジェがミッシェル・アンリによって優美な絵画世界へ仕上げる。透明な花瓶の中の花束は、しばしば窓辺に置かれ、ベニスの教会やノートルダムを背景に描かれ、魔法のように美しい世界を創り出す。ミッシェル・アンリのクリスタルの透明感、ブーケの軽やかさや建物の力強いデッサン力に見られる才能がしばしば誉めそやされるし、それは否定できない。確かにそうであろう。しかし、私たちは、現実の中にあるシンプルでしかも本質的な事物に対する画家の賛嘆と情熱も同時に分かち合いたい。         パトリス・ド・ラ・ペリエール

  

6:ユニベール・デ・ザール誌2001年3月号

ミッシェル・アンリ特集 

ミッシェル・アンリの絵画は特別な風合いがある。彼は独創的な絵画形式を作り出した。それぞれの絵画の中で支配色の果たす役割が大きい。赤とか青の基調になる色が、歌い上げられ、画家を私たちが満足いくまで、その色調の世界を漂わせる。ミッシェル・アンリの天性の才能は、確かな美学に基づいた装飾性がある。それぞれの、ボブジェ、花瓶、フルーツなどが前景に配されている。これらの身近で、親しい見やすいオブジェはシンプルで画面に彩りを添え、構成の要素となり、遠くを漂った視線がいつでも戻ってこれる場所でもある。

ミッシェル・アンリの確かな才能は、花を描く時にひときは輝きをます。ミッシェル・アンリがキャンバスに登場させる花々は、やさしい美しさ、優美さを備えている。その並外れた力量で、安らぎと一瞬のはかなさとがひそやかなやさしさを花から感じさる。ミッシェル・アンリは私たちを彼のイメージの世界へ導く。けれども、私たちの日常からそんなに遠くへ、連れて行くわけではない。現実の世界より、ほんの少し空気が澄み、オブジェが軽やかで、遥かなロマンチックな冒険に満ちた旅へと私たちの視線が旅立つそんな空間がミッシェル・アンリが私達を導く世界だ。

 

7:ユニベール・デ・ザール誌2000年夏号 

ミッシェル・アンリ特集

創造する事は、印象をシンボルと色彩で魂を込めて表現する事だ。 

上記は終戦直後、パリ国立高等美術学校を卒業したばかりのミッシェル・アンリの言葉だ。  

画家グリュベール(Gruber)、の影響を受けて、仲間達が皆、悲惨主義(mizerabiliseme)に同調する頃、ミッシェル・アンリは<どうして幸福であることを恥じる必要があるのだろうか>と、微笑みを浮かべながら、時代の寵児悲惨主義への反抗を宣言した。ミッシェル・アンリ芸術は幸福と協調の為の戦いとも言えよう。色彩と生命力に溢れた、彼の燃え上がるような花々は、その旗印とも言えよう。その上、カザ・ベラスケスへの留学で身に着けた雄大な構成力によってブーケの美しさはさらに際立ってきた。ミッシェル・アンリの静物画は人生とやさしさのレッスンのようで、惜しむことなく絵の具をつぎ込み、色彩とマチエールを豊かにしてる。ルージュ(赤)が思い切り爆発し、花の生命力を描き尽す。ルビー色、鮮やかなローズ色、鮮やかな赤(ヴァーミリオン)が舞い踊り、世界で最も美しい都市を飾り立てる。その街の美しさも、咲き誇る生命力溢れる花々に比べると、まだ控えめに見える。自然の賛美者ミッシェル・アンリはパリやヴェニスをキャンバスの後景に退けて、人間の造形は一厘のコクリコの美しさにも届かない事を思い出させる。ここでは、美しさは私達のすぐ近くに潜んでいる、最もシンプルな形で、最も表現的にそして、最も儚く。なぜなら、もしミッシェル・アンリが花の圧倒的な美しさを描くとすれば、それは、また、花の褪せやすさも知っているからだ。そのブーケは、まだ数時間、私達の目を楽しませてくれるだけで、すぐに透明な花瓶の中で枯れてしまう。キャンヴァスの向こう側に、目を向けた時、ミッシェル・アンリの絵画には甘美さとほろ苦さが同居しているのが解る。その、コクリコやバラのブーケからロンサールの詩が聞こえてくるようだ。

<愛らしい乙女よ、みずみずしい若さに満ちた乙女よ、さあ青春の果実を摘み尽くせ、この花のように老いがお前の美しさを取り上げに来る前に>