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ギャルリー亜出果とミッシェル・アンリ
ギャルリー亜出果とミッシェル・アンリ 小野田セメントという地方に本社があるセメント会社のフランス画家カレンダーの製作を私の会社が請け負っていたが、1993年小野田セメントの担当者と一緒に翌年のカレンダーに使う画家探しにフランスにでかけた。この企画はバブル経済の真最中の1989年に始まったので、予算もたっぷりあった。かなりの画家に会った中で、ミッシェル・アンリにも会った。パリの国立芸大(ボザール)出身のフランス画壇の巨匠で、レジオン・ドヌール勲章を受章し、フランス国立園芸協会絵画部門の会長とサローヌ・ドートンヌの副会長を務めるフランス画壇の巨匠だ。ベルナール・ビュッフェと同じクラスで、ビュッフェに絵画的影響を与えたと言われていて、フランスとアメリカで有名な画家だ。日本では、マルク・エステルというフランス人の画商が大丸などで若干扱っていた。リトグラフやセリグラフの結構製作していて、日本にも入っていた。 私はフランス人の女画商に案内してもらって、極度に緊張しながら、ミッシェル・アンリのアトリエのドアを叩いた。大柄でどっしりとした初老の紳士が迎えてくれた。礼儀正しくて、にこやかなので少し気が楽になった。部屋には、シラク大統領やその奥さんと撮った写真や、スエ―デンの王女や元首相やご婦人がこのアトリエに来られて時の写真、往年の大女優ジャンヌ・モローが所蔵のミッシェル・アンリの絵画の前で撮った写真まで飾ってあった。日本から来た、地方に本社があるセメント会社のカレンダーの話など、相手にしてくれるだろうかと不安になった。フランス人の女画商が話してくれている間に徐々に緊張がほぐれた。彼女はカレンダーの事よりも私の事を話していた。南仏の大学で勉強して、修士課程はパリでやった事や画商の仕事に情熱をもっていて、大のフランスファンで、ミッシェル・アンリの絵画も大好きだと私を売り込んでいる。聞いている内にミッシェル・アンリは時々私の方に笑顔を投げ掛けるようになった。彼女は私に仕事の話をするように、水を向けて来た。私もフランス人気質を知っているので、あまり仕事の件には踏み込まずに学生時代の想い出やフランスとの関わり合いの話しをした。ミッシェル・アンリの絵画も随分褒めた。ミッシェル・アンリは嬉しそうな顔で私を見て、「フランス絵画を日本で広めてくれて嬉しい。フランスの画家を代表してお礼を言います。」と言った。そろそろ、訪問時間が終わる頃、カレンダーの話をして検討しもらう事にした。 予定していた全ての画家に会った後で、小野田セメントの担当者はやはり、ミッシェル・アンリが良いと言った。予算は十分あった。日本に戻ってから、私は女画商に連絡して話を進めてくれるように頼んだ。10日程して彼女から連絡が有り、OKの返事とミッシェル・アンリのコメントを伝えてくれた。「武田さんはフランス語は南仏なまりで聞きづらいが、あのフランス絵画や文化への意気込みはすごい。画商に必要なのは、画家の仕事に惚れ込む力だ。あの人はその力を持っている。」と言ったそうだ。
ギャルリー亜出果とミッシェル・アンリ
ギャルリー亜出果とミッシェル・アンリ 小野田セメントという地方に本社があるセメント会社のフランス画家カレンダーの製作を私の会社が請け負っていたが、1993年小野田セメントの担当者と一緒に翌年のカレンダーに使う画家探しにフランスにでかけた。この企画はバブル経済の真最中の1989年に始まったので、予算もたっぷりあった。かなりの画家に会った中で、ミッシェル・アンリにも会った。パリの国立芸大(ボザール)出身のフランス画壇の巨匠で、レジオン・ドヌール勲章を受章し、フランス国立園芸協会絵画部門の会長とサローヌ・ドートンヌの副会長を務めるフランス画壇の巨匠だ。ベルナール・ビュッフェと同じクラスで、ビュッフェに絵画的影響を与えたと言われていて、フランスとアメリカで有名な画家だ。日本では、マルク・エステルというフランス人の画商が大丸などで若干扱っていた。リトグラフやセリグラフの結構製作していて、日本にも入っていた。 私はフランス人の女画商に案内してもらって、極度に緊張しながら、ミッシェル・アンリのアトリエのドアを叩いた。大柄でどっしりとした初老の紳士が迎えてくれた。礼儀正しくて、にこやかなので少し気が楽になった。部屋には、シラク大統領やその奥さんと撮った写真や、スエ―デンの王女や元首相やご婦人がこのアトリエに来られて時の写真、往年の大女優ジャンヌ・モローが所蔵のミッシェル・アンリの絵画の前で撮った写真まで飾ってあった。日本から来た、地方に本社があるセメント会社のカレンダーの話など、相手にしてくれるだろうかと不安になった。フランス人の女画商が話してくれている間に徐々に緊張がほぐれた。彼女はカレンダーの事よりも私の事を話していた。南仏の大学で勉強して、修士課程はパリでやった事や画商の仕事に情熱をもっていて、大のフランスファンで、ミッシェル・アンリの絵画も大好きだと私を売り込んでいる。聞いている内にミッシェル・アンリは時々私の方に笑顔を投げ掛けるようになった。彼女は私に仕事の話をするように、水を向けて来た。私もフランス人気質を知っているので、あまり仕事の件には踏み込まずに学生時代の想い出やフランスとの関わり合いの話しをした。ミッシェル・アンリの絵画も随分褒めた。ミッシェル・アンリは嬉しそうな顔で私を見て、「フランス絵画を日本で広めてくれて嬉しい。フランスの画家を代表してお礼を言います。」と言った。そろそろ、訪問時間が終わる頃、カレンダーの話をして検討しもらう事にした。 予定していた全ての画家に会った後で、小野田セメントの担当者はやはり、ミッシェル・アンリが良いと言った。予算は十分あった。日本に戻ってから、私は女画商に連絡して話を進めてくれるように頼んだ。10日程して彼女から連絡が有り、OKの返事とミッシェル・アンリのコメントを伝えてくれた。「武田さんはフランス語は南仏なまりで聞きづらいが、あのフランス絵画や文化への意気込みはすごい。画商に必要なのは、画家の仕事に惚れ込む力だ。あの人はその力を持っている。」と言ったそうだ。
幻のミッシェル・アンリ美術館
幻のミッシェル・アンリ美術館 ミッシェル・アンリ美術館の話を始めて聞いたのは、20世紀最後の頃の気がする。ミッシェル・アンリは、フランス北西部のラングルの生まれで、その故郷に美術館ができるとの事。 当時の市長はバリバリのシラク派でミッシェル・アンリの竹馬の友だ。美術館用に敷地が500~1000坪程で建坪も200坪~300坪ぐらいある古い建物を買った。ところが、屋根の修復だけで5億円掛かかり、内装も入れると莫大な金額になることが分かった。何しろ人口2万人弱の小さな市の事だ。この市長は予算がつかない内に任期が切れ、次の選挙で落選してしまった。 日本人とフランス人は、共通点は沢山あるが、正反対の所がある。日本人は権威に弱いのに対して、フランス人は自由を愛し、権威なんかくそ食らえと思っている。もうひとつ、決定的に違う点は、日本人は方向性が定まれば、目標に向かって全力で走る。フランス人はバランス感覚が発達していて余り極端な事を好まない。これが、政治の世界の現象として現れると面白い。フランスは中央が右に寄ると必ず地方が左による。これがフランス人のバランス感覚だ。つまり、社会党のミッテランが大統領の間は、見事に地方自治体は保守系に染まり、シラクが大統領になってからは、段々と地方自治体は社会党系になっていった。日本は大体その反対の傾向があり、みんな勝ち馬に乗りたがる。つまり、シラク政権が長引く中で、ミッシェル・アンリの生まれ故郷のラングル市も保守系の市長が落選して、社会党の市長が誕生したわけだ。当たり前の事だが、社会党系は福祉には手厚く、美術館など文化や贅沢には金を使わない。その割には、ミッテランもルーブル美術館から大蔵省を追い出して、全面改装をした。ブーブル美術館の庭の透明なピラミッドはその時にできた。社会党もそれなりに芸術保護にも取り組んだ。やはり、フランスは文化と芸術の国なのである。 さて、美術館はどうなったのか。建物は其の後も、手付かずのまま放置され、市立ミッシェル・アンリ美術館はお蔵入りとなった。ここで救世主が現れた、ルグロ氏と文化財保護の法律の出現である。フランス政府は文化財的な価値の高い古い建物を購入し、その建物を文化的な目的に使用する場合は税制面で大幅な優遇措置をとる法律を制定した。2003年頃ラングルの実業家のルグロ氏は建坪100坪で敷地も300坪ぐらいの、16世紀の建物を買い、私立ミッシェル・アンリ美術館を作る計画を立てた。ミッシェル・アンリは決断を迫られる事となる。いつ出来るとも解らない市立の美術館を気長に待つか、ルグロ氏の提案を受け入れて、小規模な美術館館で我慢するか。ミッシェル・アンリもすでに75歳。皆で話し合い、ルグロ氏の提案を受け入れることにした。 ルグロ氏はすぐに建物の屋根の修復を終え、内装に掛かり、1年後には美術館開館の予定で突っ走った。ルグロ氏にも幾多の壁が待ち構えていた。まずは、うるさい文化省だ。この建物の修復の審査を担当した役人にとってこの仕事が初仕事となり、大いに張りきった。つまり、細かいところまで文句をつけて、かなり設計図を変更された。出来上がっている部分も何度もやり直しをさせられた。そのため、工事は大幅に遅れ、出費も予想より随分と増えた。なお悪い事には、工期が延びている間に統一地方選挙があり、ミッシェル・アンリと仲の良いシラク派の州知事が思いもよらず落選してしまった。この人は美術館の修復のため州の助成金として200万ユーロ(3億円ぐらい)出す積もりにしていた。つまり、ルグロ氏は、助成金は受けられず、予想外の出費に泣く羽目になった。それでも、本業の会社は順調だったらしくて、何とか資金を調達して、2006年には美術館の改修工事は完成した。 その後オープンしない儘数年が過ぎたが、ルグロ氏の事業が左前になり破産していまい美術館はオープンしない内に閉館となった。どうして、ラングルにミッシェル・アンリ美術館を作る話が持ち上がったのだろうか。ラングル市長やルグロ氏が道楽や、郷土が生んだ偉大な画家ミッシェル・アンリを記念すためだけに、美術館を作ろうとしたわけではない。実は、ラングルは観光地なのだ。ラングルは古代ローマ人が建設した城砦都市のだ。周囲2キロメートル、高さ10メートルぐらいの壁に囲まれている。古代ローマ人はガリア(現在のフランスやベルギー)の未開地経営のためラングル、ゲルマンの未開地経営のためドイツのケルンの2都市を築いた。この2都市が古代ローマの衛星都市として栄えた。ケルンなどは、いまだに地元の人はコローニャという美しいラテン語で呼んでいる。 ついでにラングルの景観を説明しよう。現在、高さ10メートル位ある城壁も古代ローマ時代には3メートル程の高さしかなかった。ある時、外敵に攻撃され、町は散々に荒らされ、破壊し尽された。生き残った人々は、町を再建する際に、修復するよりも新築する方を選んだ。つまり、町全体を土で埋めてしまい、その上に新しい町を建設した。それに伴い城壁も高くなり倍の6メートル程になった。こんなに城壁が高くなって安心と思っていたら、また中世に外敵にやられて町は全滅してしまった。しかし、ラングルの人々はへこたれない。再度、町を埋めてその上に3つ目の町を建設した。当然城壁も高くなって、現在の町の姿となった。ミッシェル・アンリ美術館の建物も、半地下の所に以前の町の建物が少し顔を出している。さすがに、ローマ時代の建物は完全に埋まって影も形も見えない。この、城壁から見る風景は絶景だ。一度は見たいものだ。私も目の裏に焼きついている。あんな、中世風の田園風景は他では見たことが無い。ビロードを敷き詰めたような、深い緑が続いていて、ところどころに羊の群れや牛の群れが牧草を食んでいる。古代か中世のヨーロッパに迷い込んだようだ。 ラングル市長やルグロ氏はラングル市の観光スポットとして、ミッシェル・アンリ美術建設を思い立ったのだ。つまり経済価値が大いにあるのだ。18世紀の思想家、百科全書派のディドロと20世紀の画家ミッシェル・アンリがこの町が生んだ有名人なのだ。ようやく開館の準備が整ったところで、ルグロ氏は市長に美術館の年間の維持費だけは、市が負担するように訴えた。美術館の入場料だけでは維持できないのは明白だ。観光都市の観光資源だから、ルグロ氏の言い分はもっともだ。ところが、市長は完全に知らぬふりを決め込んでいる。ルグロ氏は次の市長選挙で今の市長を追い落とし、美術館に協力的な市長を擁立するつもりでいた。しかい、市長が退任するより先にルグロ氏が破産したのだ。戦いは負けた。 話しは日本にとぶ。北海道の北のはずれオホーツク海に面した紋別を、海沿いにさらに北上した所に雄武町という町がある。この町が20世紀の終りに温泉を掘り当て、温泉ホテルを建設した。ここの町長は中々さばけた人で、ホテルをミッシェル・アンリの絵画と版画で飾った。おまけに、ミッシェル・アンリギャラリーなるスペースも設けた。何時の日か、ミッシェル・アンリ美術館も建設して、町の観光資源にしようと思った。 私がこの件を元札幌文化放送社長で、在札幌フランス名誉領事の故木梨 芳一に話すと、木梨氏はミッシェル・アンリ美術館を持つ(将来的に)2つの町を姉妹都市にする事を提案してくれた。木梨氏は行動力と善意が洋服を着ているような人で、すぐにさまざまな準備を整えて、翌年のゴールデンウイークに私費でフランスに飛んでくれた。私も知らん顔も出来ないので、通訳代わりについて行った。木梨氏の手配で、在日本領事館アルザス領事のM氏もラングルに来てくれた。ラングル市庁舎で歓迎会が行われ、M領事と木梨氏はラングル市の名誉市民となった。ところが、姉妹都市の話はうまく運ばない。日仏共に財源がないのだ。まったく金の掛からないインターネットでの交流から初めて、いつか姉妹都市になるよう努力する事にした。 余談だが、この関西なまりのM領事は中々頭の切れる人で、しかも考え方が独創的で面白い。役人にしとくのは、もったいない。それとも、これぐらいの人が日本の外交官であるのは頼もしいと言うべきか。フランス政治院という、フランス外交官のエリート学校を卒業し、奥さんもフランス人だ。市長主催の夕食会では、ワインを飲みながら悠々と日本のアメリカ追従の外交路線を批判していた。私などは、フランス人との食事会はだいの苦手だ。アルコールを飲みながら、話題の多いフランス人とテーブルを囲むのはほとんど拷問に等しい。食事をしてアルコールが入り、リラックスモードの中で耳に神経を集中して、話題についていくのは並大抵ではない。このM領事は、へっちゃらで、むしろ話題を主導しているからたいしたものだ。 ミッシェル・アンリ氏はグアッシュの極小さい作品を数点画いて、お世話に成った人に差し上げた。M領事にも差し上げた。M領事は愛妻のイザベラに捧ぐ、とミッシェル・アンリ氏に書いてもらった。その夜、私の部屋のドアをドンドン叩く奴がいた。外国のホテルに泊まっていて、夜中にドアを叩かれても、気持ち悪くて誰も開けない。私も知らん顔をして寝ていた。すると、10分程して私の部屋に内線電話が入った。M領事だった<ミッシェル・アンリ氏から絵画を頂いた。お断りするのも失礼なので、取りあえず受け取ったが、私は立場上、只で人様から金品を受け取るわけには行かない。お支払したいとの事だ。絵画も気に入っているし、妻のイザベルに贈りたい。お支払いが済むまでは預かって欲しいとの事。画家さんも他の人には、只でさしあげて、M領事にだけ払わせるわけに行かない。私も画家が只でくれる物を売る事も出来ない。私は知り合いのフランス人画商にその絵画を預けて理由を話して、彼からM領事に売ってもらう事にした。その後、その絵画がM領事に渡ったかどうかは確かめていない。 その2年後に木梨氏が他界された。後で聞いた話しだが、私を連れてフランスへ行った時も、胃の手術をした数ヶ月後だったので、医師がかなり心配するのを振り切って行ってくれたそうだ。11月の雪がちらつく寒い日に私も告別式に札幌まで行った。札幌文化放送の社葬で、フランス大使も来て挨拶をしていた。追贈でフランス政府からレジヨン・ドヌール勲章を貰った。こんな立派な人には勲章ぐらいあげた方がいいと思う。 木梨氏が亡くなり、私も他の仕事に忙殺されている間に、ラングルのミッシェル・アンリ美術館は閉鎖されラングル市と雄武町の姉妹都市も根拠消滅した。
幻のミッシェル・アンリ美術館
幻のミッシェル・アンリ美術館 ミッシェル・アンリ美術館の話を始めて聞いたのは、20世紀最後の頃の気がする。ミッシェル・アンリは、フランス北西部のラングルの生まれで、その故郷に美術館ができるとの事。 当時の市長はバリバリのシラク派でミッシェル・アンリの竹馬の友だ。美術館用に敷地が500~1000坪程で建坪も200坪~300坪ぐらいある古い建物を買った。ところが、屋根の修復だけで5億円掛かかり、内装も入れると莫大な金額になることが分かった。何しろ人口2万人弱の小さな市の事だ。この市長は予算がつかない内に任期が切れ、次の選挙で落選してしまった。 日本人とフランス人は、共通点は沢山あるが、正反対の所がある。日本人は権威に弱いのに対して、フランス人は自由を愛し、権威なんかくそ食らえと思っている。もうひとつ、決定的に違う点は、日本人は方向性が定まれば、目標に向かって全力で走る。フランス人はバランス感覚が発達していて余り極端な事を好まない。これが、政治の世界の現象として現れると面白い。フランスは中央が右に寄ると必ず地方が左による。これがフランス人のバランス感覚だ。つまり、社会党のミッテランが大統領の間は、見事に地方自治体は保守系に染まり、シラクが大統領になってからは、段々と地方自治体は社会党系になっていった。日本は大体その反対の傾向があり、みんな勝ち馬に乗りたがる。つまり、シラク政権が長引く中で、ミッシェル・アンリの生まれ故郷のラングル市も保守系の市長が落選して、社会党の市長が誕生したわけだ。当たり前の事だが、社会党系は福祉には手厚く、美術館など文化や贅沢には金を使わない。その割には、ミッテランもルーブル美術館から大蔵省を追い出して、全面改装をした。ブーブル美術館の庭の透明なピラミッドはその時にできた。社会党もそれなりに芸術保護にも取り組んだ。やはり、フランスは文化と芸術の国なのである。 さて、美術館はどうなったのか。建物は其の後も、手付かずのまま放置され、市立ミッシェル・アンリ美術館はお蔵入りとなった。ここで救世主が現れた、ルグロ氏と文化財保護の法律の出現である。フランス政府は文化財的な価値の高い古い建物を購入し、その建物を文化的な目的に使用する場合は税制面で大幅な優遇措置をとる法律を制定した。2003年頃ラングルの実業家のルグロ氏は建坪100坪で敷地も300坪ぐらいの、16世紀の建物を買い、私立ミッシェル・アンリ美術館を作る計画を立てた。ミッシェル・アンリは決断を迫られる事となる。いつ出来るとも解らない市立の美術館を気長に待つか、ルグロ氏の提案を受け入れて、小規模な美術館館で我慢するか。ミッシェル・アンリもすでに75歳。皆で話し合い、ルグロ氏の提案を受け入れることにした。 ルグロ氏はすぐに建物の屋根の修復を終え、内装に掛かり、1年後には美術館開館の予定で突っ走った。ルグロ氏にも幾多の壁が待ち構えていた。まずは、うるさい文化省だ。この建物の修復の審査を担当した役人にとってこの仕事が初仕事となり、大いに張りきった。つまり、細かいところまで文句をつけて、かなり設計図を変更された。出来上がっている部分も何度もやり直しをさせられた。そのため、工事は大幅に遅れ、出費も予想より随分と増えた。なお悪い事には、工期が延びている間に統一地方選挙があり、ミッシェル・アンリと仲の良いシラク派の州知事が思いもよらず落選してしまった。この人は美術館の修復のため州の助成金として200万ユーロ(3億円ぐらい)出す積もりにしていた。つまり、ルグロ氏は、助成金は受けられず、予想外の出費に泣く羽目になった。それでも、本業の会社は順調だったらしくて、何とか資金を調達して、2006年には美術館の改修工事は完成した。 その後オープンしない儘数年が過ぎたが、ルグロ氏の事業が左前になり破産していまい美術館はオープンしない内に閉館となった。どうして、ラングルにミッシェル・アンリ美術館を作る話が持ち上がったのだろうか。ラングル市長やルグロ氏が道楽や、郷土が生んだ偉大な画家ミッシェル・アンリを記念すためだけに、美術館を作ろうとしたわけではない。実は、ラングルは観光地なのだ。ラングルは古代ローマ人が建設した城砦都市のだ。周囲2キロメートル、高さ10メートルぐらいの壁に囲まれている。古代ローマ人はガリア(現在のフランスやベルギー)の未開地経営のためラングル、ゲルマンの未開地経営のためドイツのケルンの2都市を築いた。この2都市が古代ローマの衛星都市として栄えた。ケルンなどは、いまだに地元の人はコローニャという美しいラテン語で呼んでいる。 ついでにラングルの景観を説明しよう。現在、高さ10メートル位ある城壁も古代ローマ時代には3メートル程の高さしかなかった。ある時、外敵に攻撃され、町は散々に荒らされ、破壊し尽された。生き残った人々は、町を再建する際に、修復するよりも新築する方を選んだ。つまり、町全体を土で埋めてしまい、その上に新しい町を建設した。それに伴い城壁も高くなり倍の6メートル程になった。こんなに城壁が高くなって安心と思っていたら、また中世に外敵にやられて町は全滅してしまった。しかし、ラングルの人々はへこたれない。再度、町を埋めてその上に3つ目の町を建設した。当然城壁も高くなって、現在の町の姿となった。ミッシェル・アンリ美術館の建物も、半地下の所に以前の町の建物が少し顔を出している。さすがに、ローマ時代の建物は完全に埋まって影も形も見えない。この、城壁から見る風景は絶景だ。一度は見たいものだ。私も目の裏に焼きついている。あんな、中世風の田園風景は他では見たことが無い。ビロードを敷き詰めたような、深い緑が続いていて、ところどころに羊の群れや牛の群れが牧草を食んでいる。古代か中世のヨーロッパに迷い込んだようだ。 ラングル市長やルグロ氏はラングル市の観光スポットとして、ミッシェル・アンリ美術建設を思い立ったのだ。つまり経済価値が大いにあるのだ。18世紀の思想家、百科全書派のディドロと20世紀の画家ミッシェル・アンリがこの町が生んだ有名人なのだ。ようやく開館の準備が整ったところで、ルグロ氏は市長に美術館の年間の維持費だけは、市が負担するように訴えた。美術館の入場料だけでは維持できないのは明白だ。観光都市の観光資源だから、ルグロ氏の言い分はもっともだ。ところが、市長は完全に知らぬふりを決め込んでいる。ルグロ氏は次の市長選挙で今の市長を追い落とし、美術館に協力的な市長を擁立するつもりでいた。しかい、市長が退任するより先にルグロ氏が破産したのだ。戦いは負けた。 話しは日本にとぶ。北海道の北のはずれオホーツク海に面した紋別を、海沿いにさらに北上した所に雄武町という町がある。この町が20世紀の終りに温泉を掘り当て、温泉ホテルを建設した。ここの町長は中々さばけた人で、ホテルをミッシェル・アンリの絵画と版画で飾った。おまけに、ミッシェル・アンリギャラリーなるスペースも設けた。何時の日か、ミッシェル・アンリ美術館も建設して、町の観光資源にしようと思った。 私がこの件を元札幌文化放送社長で、在札幌フランス名誉領事の故木梨 芳一に話すと、木梨氏はミッシェル・アンリ美術館を持つ(将来的に)2つの町を姉妹都市にする事を提案してくれた。木梨氏は行動力と善意が洋服を着ているような人で、すぐにさまざまな準備を整えて、翌年のゴールデンウイークに私費でフランスに飛んでくれた。私も知らん顔も出来ないので、通訳代わりについて行った。木梨氏の手配で、在日本領事館アルザス領事のM氏もラングルに来てくれた。ラングル市庁舎で歓迎会が行われ、M領事と木梨氏はラングル市の名誉市民となった。ところが、姉妹都市の話はうまく運ばない。日仏共に財源がないのだ。まったく金の掛からないインターネットでの交流から初めて、いつか姉妹都市になるよう努力する事にした。 余談だが、この関西なまりのM領事は中々頭の切れる人で、しかも考え方が独創的で面白い。役人にしとくのは、もったいない。それとも、これぐらいの人が日本の外交官であるのは頼もしいと言うべきか。フランス政治院という、フランス外交官のエリート学校を卒業し、奥さんもフランス人だ。市長主催の夕食会では、ワインを飲みながら悠々と日本のアメリカ追従の外交路線を批判していた。私などは、フランス人との食事会はだいの苦手だ。アルコールを飲みながら、話題の多いフランス人とテーブルを囲むのはほとんど拷問に等しい。食事をしてアルコールが入り、リラックスモードの中で耳に神経を集中して、話題についていくのは並大抵ではない。このM領事は、へっちゃらで、むしろ話題を主導しているからたいしたものだ。 ミッシェル・アンリ氏はグアッシュの極小さい作品を数点画いて、お世話に成った人に差し上げた。M領事にも差し上げた。M領事は愛妻のイザベラに捧ぐ、とミッシェル・アンリ氏に書いてもらった。その夜、私の部屋のドアをドンドン叩く奴がいた。外国のホテルに泊まっていて、夜中にドアを叩かれても、気持ち悪くて誰も開けない。私も知らん顔をして寝ていた。すると、10分程して私の部屋に内線電話が入った。M領事だった<ミッシェル・アンリ氏から絵画を頂いた。お断りするのも失礼なので、取りあえず受け取ったが、私は立場上、只で人様から金品を受け取るわけには行かない。お支払したいとの事だ。絵画も気に入っているし、妻のイザベルに贈りたい。お支払いが済むまでは預かって欲しいとの事。画家さんも他の人には、只でさしあげて、M領事にだけ払わせるわけに行かない。私も画家が只でくれる物を売る事も出来ない。私は知り合いのフランス人画商にその絵画を預けて理由を話して、彼からM領事に売ってもらう事にした。その後、その絵画がM領事に渡ったかどうかは確かめていない。 その2年後に木梨氏が他界された。後で聞いた話しだが、私を連れてフランスへ行った時も、胃の手術をした数ヶ月後だったので、医師がかなり心配するのを振り切って行ってくれたそうだ。11月の雪がちらつく寒い日に私も告別式に札幌まで行った。札幌文化放送の社葬で、フランス大使も来て挨拶をしていた。追贈でフランス政府からレジヨン・ドヌール勲章を貰った。こんな立派な人には勲章ぐらいあげた方がいいと思う。 木梨氏が亡くなり、私も他の仕事に忙殺されている間に、ラングルのミッシェル・アンリ美術館は閉鎖されラングル市と雄武町の姉妹都市も根拠消滅した。
20世紀フランスの巨匠ミッシェル・アンリ
20世紀フランス画壇の巨匠 ミッシェル・アンリは1928年フランスの北西ブルゴーニュ地方のラングルに生まれた。お父さんは学校の先生でふつうの家庭だった。幼少より描く事に興味があり、才能を発揮していたらしい。クリスマスのプレゼントは絵の具を買ってもらったとミッシェル・アンリから聞いている。4歳で描いた絵画は既に、今の構図で描いたと聞いている。窓辺にブーケを描き、窓の向こうに風景が描かれていたそそうだ。 ミッシェル・アンリが生まれたLangres (ラングル)はローマ時代に築かれた城塞都市 ラングルについてはミッシェル・アンリの美術館のブログで詳しく説明しよう。 <ブルゴーニュの秋>ミッシェル・アンリ作 シルクスクりーン 購入ご希望の方は画像をクリックしてください。 高校卒業後はパリのボザール(国立高等美術学校)とパリ大学に同時に入学した。画家になるのを反対していた両親の為、パリ大学の法学部にも席を置いた。けれども、早い内から才能が高く評価されて、ボザール在学中から様々の賞を取ったり、その賞の奨学金でマドリッド、アムステルダムに長期留学したり、クラスの代表としてベルリンに派遣されたりしたので、両親も安心したのだろう。パリ大学の法学部は中退している。ミッシェル・アンリがボーザールの1年生の時に、クラスベルナール・ビュッフェたいた。指導教授はナルボンヌで、デッサンを重視する教授だった。ミッシェル・アンリもビュッフェもこのクラスでデッサン力を身につけた。ビュッフェはマチニョンの画商のモーリス・ガルニエと出会い。ボザールを中退してプロの画家としてデビューして人気作家となっていった。ミッシェル・アンリは色彩力で定評のあった、シャプラン・ミディのクラスに進学してクラスの代表となり確かの色彩力を身につけた。ビュッフェの絵画はデッサンに偏り、漫画チックなのに対して、ミッシェル・アンリはデッサン力、色彩、ビュッフェの絵画はデッサンに偏り、漫画チックなのに対して、ミッシェル・アンリはデッサン力、色彩、構図と卓越した力量を身に着けた。 <ブルガンディーのピクニック> ミッシェル・アンリ作 オリジナルシルクスクリーン 購入ご希望の方は画像をクリックしてください。 余談だが、セルジュ・ゲンスブールというフランスの有名な音楽家をご存じだろうか。パンクのような雰囲気の音楽を作り、自分で歌う。彼は1928年生れで、やはりボザールに入学して画家を目指したが、目が出ず音楽に転向した。彼のお父さんは、バーやクラブのピアノ弾きだった。セルジュ・ゲンスブールは、現在では余ほどのフランス好きでないと知らない人が多いが、イギリスのトップ女優ジェーン・バーキンと結婚して、その娘が音楽家で女優のシャーロット・ゲンスブールだ。シャーロット・ゲンスブールは今の若い人達も知っている人が多いと思う。父親と同じく、メリディーラインより単調な音の組み合わせの軽いロック調の曲が多い。映画でも個性的な役が多く、カンヌ国際映画祭で主演女優賞に輝いた事もある。しかし、ミッシェル・アンリからセルジュ・ゲンスブールの事は聞いた事がない。ミッシェル・アンリは学生時代からきちんとした服装と礼儀正しい態度言葉使いで学生代表で外国に派遣された優等生だし、ゲンスブールはデカダンでよれよろのジーンズで絶えず巻きたばこをすかす不良だから、二人にあまり接点はなかったであろう。 セルジュ・ゲンスブールと妻のジェーン・バーキン セルジュ・ゲンスブールと娘のシャー ロット・ゲンスブール 話を絵画に戻そう。ミッシェル・アンリもビュッフェも1928年生れで、第2次世界大戦の終戦直後にボザールに入学した。当時は、映画などもイタリアンレアリスムの、貧しい人達の打ちひしがれた姿が描かれ、戦後の貧しく苦しい時代を生きる人達の共感を呼んでいた。文学の世界でも、サルトルやカミュなどフランスの実存主義文学が世界的な潮流となっていた。実存主義は、理想や規則よりありの儘の人間を肯定する傾向があり、戦後の底辺の人達の姿を肯定的にとらえた。悲しみはの中に入る人は、明るく楽しい雰囲気によってより、自分の心より更に暗い音楽、美術、文学などに心癒される傾向がある。心がマイナーな時はマイナーな音楽を好むと言い換える事ができるかもしれない。そういった時代に合って、ベルナール・ビュッフェの太く黒い線で描かれた薄暗い風景画やピエロ、サーカスの芸人などの物悲しげな絵画は人々の共感を誘った。また、アルマニア移民でモンパルナスの夜学で絵画を学んだ、ジャン・ジャンセンも震えるような、繊細な線を多用して、物悲しい風景や、貧しい人達の姿を描いて、時代の画家となった。ビュッフェはデッサンのみ学んで、ボザールを中退したと書いたが、確かにビュッフェの絵画には色彩が欠落しているが、そのモノトーンな貧しい色彩が時代の雰囲気には合っていた。 ベルナール・ビュッフェの版画 ビュッフェがボザールを去った後、ミッシェル・アンリはナルボンヌ教授のクラスを終え、優れた色彩画家でもあったシャプラン・ミディのクラスで色彩を学んだ。ミッシェル・アンリはシャプラン・ミディから色彩理論も叩きこまれたが、その理論通には描かなかった。通常の絵画理論では、赤い色彩は暗い色価とさている。しかし、ミッシェル・アンリは赤い色彩に光を与え、赤い色彩を明るい色価として使用して成功した。その様なミッシェル・アンリの色使いを見た、指導教授のシャプラン・ミディは<ミッシェル・アンリは私を越えた>と言った。 ...
20世紀フランスの巨匠ミッシェル・アンリ
20世紀フランス画壇の巨匠 ミッシェル・アンリは1928年フランスの北西ブルゴーニュ地方のラングルに生まれた。お父さんは学校の先生でふつうの家庭だった。幼少より描く事に興味があり、才能を発揮していたらしい。クリスマスのプレゼントは絵の具を買ってもらったとミッシェル・アンリから聞いている。4歳で描いた絵画は既に、今の構図で描いたと聞いている。窓辺にブーケを描き、窓の向こうに風景が描かれていたそそうだ。 ミッシェル・アンリが生まれたLangres (ラングル)はローマ時代に築かれた城塞都市 ラングルについてはミッシェル・アンリの美術館のブログで詳しく説明しよう。 <ブルゴーニュの秋>ミッシェル・アンリ作 シルクスクりーン 購入ご希望の方は画像をクリックしてください。 高校卒業後はパリのボザール(国立高等美術学校)とパリ大学に同時に入学した。画家になるのを反対していた両親の為、パリ大学の法学部にも席を置いた。けれども、早い内から才能が高く評価されて、ボザール在学中から様々の賞を取ったり、その賞の奨学金でマドリッド、アムステルダムに長期留学したり、クラスの代表としてベルリンに派遣されたりしたので、両親も安心したのだろう。パリ大学の法学部は中退している。ミッシェル・アンリがボーザールの1年生の時に、クラスベルナール・ビュッフェたいた。指導教授はナルボンヌで、デッサンを重視する教授だった。ミッシェル・アンリもビュッフェもこのクラスでデッサン力を身につけた。ビュッフェはマチニョンの画商のモーリス・ガルニエと出会い。ボザールを中退してプロの画家としてデビューして人気作家となっていった。ミッシェル・アンリは色彩力で定評のあった、シャプラン・ミディのクラスに進学してクラスの代表となり確かの色彩力を身につけた。ビュッフェの絵画はデッサンに偏り、漫画チックなのに対して、ミッシェル・アンリはデッサン力、色彩、ビュッフェの絵画はデッサンに偏り、漫画チックなのに対して、ミッシェル・アンリはデッサン力、色彩、構図と卓越した力量を身に着けた。 <ブルガンディーのピクニック> ミッシェル・アンリ作 オリジナルシルクスクリーン 購入ご希望の方は画像をクリックしてください。 余談だが、セルジュ・ゲンスブールというフランスの有名な音楽家をご存じだろうか。パンクのような雰囲気の音楽を作り、自分で歌う。彼は1928年生れで、やはりボザールに入学して画家を目指したが、目が出ず音楽に転向した。彼のお父さんは、バーやクラブのピアノ弾きだった。セルジュ・ゲンスブールは、現在では余ほどのフランス好きでないと知らない人が多いが、イギリスのトップ女優ジェーン・バーキンと結婚して、その娘が音楽家で女優のシャーロット・ゲンスブールだ。シャーロット・ゲンスブールは今の若い人達も知っている人が多いと思う。父親と同じく、メリディーラインより単調な音の組み合わせの軽いロック調の曲が多い。映画でも個性的な役が多く、カンヌ国際映画祭で主演女優賞に輝いた事もある。しかし、ミッシェル・アンリからセルジュ・ゲンスブールの事は聞いた事がない。ミッシェル・アンリは学生時代からきちんとした服装と礼儀正しい態度言葉使いで学生代表で外国に派遣された優等生だし、ゲンスブールはデカダンでよれよろのジーンズで絶えず巻きたばこをすかす不良だから、二人にあまり接点はなかったであろう。 セルジュ・ゲンスブールと妻のジェーン・バーキン セルジュ・ゲンスブールと娘のシャー ロット・ゲンスブール 話を絵画に戻そう。ミッシェル・アンリもビュッフェも1928年生れで、第2次世界大戦の終戦直後にボザールに入学した。当時は、映画などもイタリアンレアリスムの、貧しい人達の打ちひしがれた姿が描かれ、戦後の貧しく苦しい時代を生きる人達の共感を呼んでいた。文学の世界でも、サルトルやカミュなどフランスの実存主義文学が世界的な潮流となっていた。実存主義は、理想や規則よりありの儘の人間を肯定する傾向があり、戦後の底辺の人達の姿を肯定的にとらえた。悲しみはの中に入る人は、明るく楽しい雰囲気によってより、自分の心より更に暗い音楽、美術、文学などに心癒される傾向がある。心がマイナーな時はマイナーな音楽を好むと言い換える事ができるかもしれない。そういった時代に合って、ベルナール・ビュッフェの太く黒い線で描かれた薄暗い風景画やピエロ、サーカスの芸人などの物悲しげな絵画は人々の共感を誘った。また、アルマニア移民でモンパルナスの夜学で絵画を学んだ、ジャン・ジャンセンも震えるような、繊細な線を多用して、物悲しい風景や、貧しい人達の姿を描いて、時代の画家となった。ビュッフェはデッサンのみ学んで、ボザールを中退したと書いたが、確かにビュッフェの絵画には色彩が欠落しているが、そのモノトーンな貧しい色彩が時代の雰囲気には合っていた。 ベルナール・ビュッフェの版画 ビュッフェがボザールを去った後、ミッシェル・アンリはナルボンヌ教授のクラスを終え、優れた色彩画家でもあったシャプラン・ミディのクラスで色彩を学んだ。ミッシェル・アンリはシャプラン・ミディから色彩理論も叩きこまれたが、その理論通には描かなかった。通常の絵画理論では、赤い色彩は暗い色価とさている。しかし、ミッシェル・アンリは赤い色彩に光を与え、赤い色彩を明るい色価として使用して成功した。その様なミッシェル・アンリの色使いを見た、指導教授のシャプラン・ミディは<ミッシェル・アンリは私を越えた>と言った。 ...