現在のマチニョン通リの画廊↓
マチニョン街について説明しておこう。パリの北西の小高い丘に凱旋門があり、凱旋門から世界一美しいと言われるシャンゼリゼ通りのなだらかな坂道を降りきった辺りを右に折れるとマチニョン通りで画廊ばかりが並んでいる。
シャンゼリゼ通リの坂道を降りきった辺りから凱旋門が見える↓
同じ所を左に折れると有名なフランスブランドの本社などがあるモンテーニュ通リだ
シャネル、ディオール、など10数社のブランドの本社が並んでいる。このモンテーニュ通リからシャンゼリゼを横切ると高級画廊街マチニョン通りが始まる。
モンテーニュ通りのシャネル本社↓
マチニョン通リを100メートル程行くと、高級ブティックや超高級ホテルが集まるフォブールサントノレ通リと交差する。マチニョン街から200メートル程の所、シャンゼリゼ通りとフォブールサントノレ通りに挟まれるようにエリゼ宮とその庭園がある。エリゼ宮は現在は大統領官邸になっている。つまり、マチニョン通り、フォブールサントノレ通りには、世界中の政治家、財界人などが集まり、高級ブランド、絵画が売れる仕組みになっている。
フォブール・サントノレの高級ホテル↓
ただ、21世紀に入ってからは、マチニョンは家賃が高すぎるので、4区のマレー地区(ピカソ美術館がある)辺りに、規模の小さい画廊が沢山出店してそちらの方が活発になっている。
マレー地区の画廊が集まるボージュ広場の画廊↓
ミッシェル・アンリの学生生活は長かった。彼は、学生時代から様々の展示会に出展し賞を受賞した。それらの賞ご褒美の奨学金で、オランダ、スペイン、イタリアに留学していたからだ。ミッシェル・アンリが学生生活を終えた頃には30歳近い年齢になっていた。
パリに戻ったミッシェル・アンリを迎えたロマネ画廊はミッシェル・アンリの先生のシャプラン・ミディなど当時の人気画家が在籍していたマチニョン街でもトップクラスの画廊だった。アメリカの人気女優でスエーデン出身のグレダ・ガルボは、絵画のコレクターとしても有名だが、彼女がミッシェル・アンリの絵画を購入したのも、このロマネ画廊だ。
ミッシェル・アンリが最初に契約したロマネ画廊の場所は現在は日本の画廊↓
その後、1970年頃ロマネ画廊のオーナーが高齢化して後継者もいなかった為、画廊を閉じる事となり、ミッシェル・アンリはやはりマチニョン街のアメリカのフィンドレー画廊と契約する事となった。ミッシェル・アンリは20年間パリのフィンドレー画廊での展示会はもとより、毎年アメリカのシカゴ、ロサンジェルス、ニューヨーク、マイアミなどフィンドレー画廊で個展を開催してアメリカを訪れ、ミッシェル・アンリの南フランスの別荘にはアメリカ人が頻繁に訪れた。ミッシェル・アンリはポピーを題材に描く事が多い為、アメリカではKING OF POPEE(ポピーの王様)と言われた。
ミッシェル・アンリのアメリカ画廊フィンドレーがあり、後には
アレクサンダー・レオドゥーズ画廊があった場所↓
ポピー(フランス語ではコクリコ)は、花弁が薄く半透明で、自然の中で可憐に咲いているが、切り取って花瓶に活けると半日で枯れてしまう。ミッシェル・アンリはポピーの可憐で華やかな色彩を愛したと同時にその儚い命を愛し、その一瞬の美を画布に永遠に固定させようとしたが、アメリカ人がポピーの儚さに思いをはせたかどうかは疑問だ。彼らは、ミッシェル・アンリの輝く色彩と大きな構図で描かれたポピーの豪華さを愛してポピー王様という派手な名称をミッシェル・アンリに送ったに違いない。
文化論になるが、アメリカ人は<Oh,It’s great=偉大だ、素晴らしい>が口癖だが、フランス人は<C’est petit、petit>=小さくて可愛い>と喜ぶ。日本人もアメリカ的な感性より、フランス人に近い感性だ、命の儚さに美を感じる。
ミッシェル・アンリの真っ赤なポピーを見て、日本人は儚い一瞬の美しさに感動し、フランス人はその可憐な美しさを愛し、アメリカ人は大きな構図と画面一杯に咲き誇る豪華絢爛さ愛でるのだろう。フランスも日本もアメリカでもミッシェル・アンリは愛された。
1990年頃まで、フィンドレー画廊がパリから撤退したので、フィンドレー画廊のパリ支店長だったエチエンヌ・サシー氏のサシー画廊が契約した為、パリに支店のある日本のためなが画廊や日動画廊が取引できなかった。サシー画廊はミッシェル・アンリとブラジリエという2大人気作家と契約して大いに儲けて、ニューヨークに支店をだしたが、ブラジリエの息子が左岸に自分で画廊をオープンして自分で商売を始めた上に、サシー画廊に訴訟を沢山起こした。その度にブラジリエが敗訴したらしいが、サシー氏は疲れはてて、パリの画廊を閉じてニューヨークに画廊の専念したが、間もなく他界した。
サシー画廊と契約していた頃には、フランスの女優ジャンヌ・モロー、シラク大統領夫妻、
などもミッシェル・アンリの絵画を購入している。レイモン・バール首相夫妻は、かなりの数の作品を収集していて、サシー画廊閉店後は、ミッシェル・アンリの次の契約画廊アレクサンザー・レオドゥーズ画廊でも購入を続けた。
サシー画廊の閉店に伴い、ミッシェル・アンリはやはりマチニョン街のアレクサンダー・レオヅーズ画廊と契約した。アレクサンダー・レオドゥーズ画廊はカンヌの画廊だが、その頃パリにも出店したばかりだった。その後はロサンジェルスにも画廊をオープンした為、ミッシェル・アンリは日本に来たついでに、そのままロサンジェルスにいったりしていた。
アレクサンザー・レオドゥーズ画廊との契約は最後まで続いた。つまり、1995年~2016年迄ミッシェル・アンリはフランスとアメリカではマチニョン街のサシー画廊→アレクサンドル・レオドゥーズ画廊
日本では弊社ギャルリー亜出果が契約していた。
つまり、ミッシェル・アンリは20代後半から常にヨーロッパ一番の高級画廊街のマチニョンの画廊の契約画家だった。ロマネ画廊と約10年、フィンドレー画廊と20年、サシー画廊と約15年、アレクサンダー・レオドゥーズ画廊と約10年の65年間マチニョン街の高級画廊の契約画家であり続けた。
ギャルリー亜出果は1995年~2016年21年間の契約だったので、パリのどの画廊とよりも、ギャルリー亜出果と仕事が長かった事になる。