カシニョールとの出会い

カシニョールとの出会い

 

ジャン・ピエール・カシニョールはプランスのブランドジバンシー部長の息子で、まあ中位の小坊ちゃん。通称ボザール正式には国立パリ高等美術学校のシャプラン・ミディのクラスで学んだ。アトリエの先輩にミッシェル・アンリがいた。アトリエへ入る試験の時の試験官がミッシェル・アンリで、有名な画家同士にしては珍しく仲が悪くない。

15年以上昔なので、どうして知り合ったのかも忘れてしまったがCT女史という、フランスのオークションの鑑定人と私が仲良くなった。彼女は以前日本の伊藤忠だかと取引があり、日本に好感を持っていた。また、フランス語をわりと流暢に話すちょっと変わった、日本人(私)が気に入ったらしくて、一緒に食事をしたり、家にも招いてくれた。オジェという人物画を描く、物凄く女好きて無鉄砲な画家がいた。そいつがアメリカから戻って来たから組んでそいつで一緒に一儲けしようと持ちかけられた。その頃は、まだ版画が良く売れた時期で、そんな聞いたこともない画家の話など、興味は無く、彼女がカシニョールのお姉さんだか妹だかと仲が良いのでカシニョールを紹介してもらう事にした。当時はビュッフェ、ブラジリエ、カトラン、カシニョールの版画を安く仕入れられれば、それこそ一儲けも二儲けも可能だった。

 散々彼女の機嫌を取って、カシニョールの家に連れて行ってもらった。凱旋門から、放射状に出ている通りの一つで、凱旋門から数分の所だ。表札にはJPCとしか書いていない。その日、カシニョールは引越しの準備で急がしかった。まだ、 2人目だか3人目の奥さんの子供が4-5歳でアパルトマンの中をショロチョロしていた。パリにいると、来訪者が多すぎて、ゆっくり子供と遊ぶ暇も無いのでスイスに引っ越す事にしたそうだ。私はその話を鵜呑みにした間抜けだが、他の人は別の意見だ。スイスの方が圧倒的に税金が安く、また、銀行に隠し口座が持てるからだと言う。つまり、カシニョールは随分儲けているそうだ。それはそうに違いない。どちらが正しいのか。日本のように、フランスも本音と建前があるのだろうか。

 それはさて置き、私は有りっ丈の知識と、私が知る限りの形容詞を使って彼の版画を褒め上げた。また、ムッシュー・カシニョールを連発した。彼は、すっかり気を良くして私に版画を売ってくれる事になった。小さな電卓を持ってきて、版画の入っているケースを次々に開けて電卓を叩いて見せた。私は日本で買うより安そうな値段の版画で、売れそうなのを10枚程選んで買った。しかし、この値段では一儲けも二儲けもは、できない。せいぜい、日本で業者から買うより少し安いだけだ。作品によっては、日本で買うほうが安いのもある。これは、やはり相当に儲けている。まあ、別れた女房への慰謝料をかなりはらっているらしい。儲けているだけに、先方も慰謝料を吹っかけたことだろう。

 CT女史によると、私の態度は理想的だったそうだ。何しろ、私は全身全霊で、ありとあらゆるレトリック(修辞法)を駆使した。カシニョールのアパルトマンをでた後は疲れ果てて放心状態だった。それだけ苦労した割には、大して安くもなくて少々拍子抜けした。まあ、いつかいい事でも有るだろうと思い、彼女にも紹介料を払い、夕食もご馳走してあげた。

 その後、品川プリンスホテルの新館がオープンし西武ブループがカシニョールを日本に呼んだ。品川プリンスホテルのステンドグラスを作らせ、その図柄を版画に起し、ノリタケにカシニョールの絵柄を焼き付けた食器まで作らせた。ホテルのオープンに先駆けて展示会もやり、2000万円程売ったらしい。当時としてはたいした金額ではなかった。西武グループは機会ある事にカシニョールの版画や原画を買い、軽井沢プリンスホテルなど以前は全室カシニョールの版画で飾られていた。カシニョールだけでは無く、ビュッフェ、ブラジリエ、カトランなど20世紀後半の巨匠を買い集めたらしい。それらの作品をパリで買い集めた、元オーナー一族の女性はミッシェル・アンリも買ったらしいが、日本には送らずパリの自宅に飾っていたとミッシェル・アンリが言っていた。品川プリンスホテルのカシニョール展の折には、私も西武グループの担当者から呼ばれて、半日程通訳の真似ごとをした。丁度私の結婚式の直前だったので、画集にメッセージを書いてくれた。その後、カシニョールに会う機会はない。10年程年まえ、カシニョールの画業50年だかのパーティーの招待状が届いたが、時間が取れなくていかなかった。

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