ミッシェル・アンリとエコール・ド・パリの画家マルク・シャガールのパリのアトリエ
パリの画家ミッシェル・アンリのアトリエは戦前には、モンパルナスのエコール・ド・パリの画家マルクシャガールがアトリエ住居として使用していた。ロシアの革命家レーニンもパリ時代に住居にしていた。
アトリエの前に立つミッシェル・アンリ↓
パリの画家ミッシェル・アンリのアトリエは戦前には、モンパルナスのエコール・ド・パリの画家マルクシャガールがアトリエ住居として使用していた。ロシアの革命家レーニンもパリ時代に住居にしていた。
戦前のマルク・シャガールの写真↓
シャガールは、ウクライナやアメリカに住んだ時期以外は断続的に30年近く断続的にパリに住み、故郷ウクライナの伝統的な絵画の影響を濃厚に残す幻想駅な絵画描き、ムルロー工房で版画を制作した。
シャガールは、1950年から南フランスのニースに移り住んでその地で永眠した。。そのシャガールが戦前に住んでいたアトリエを戦後1950年代からミッシェル・アンリが引き継いで50年以上も住み続けた。
マルク・シャガールが描いたパリの風景画↓
ロシアの革命家レーニンも1910年~2年間程ミッシェル・アンリが住居にしていた建物に住み、1階のアトリエ部分でプラウダの原稿なども書いたことだろう。
ロシアの革命家レーニンの写真↓
19世紀後半から20世紀初頭のパリで、右岸最北のモンマルトルの丘と左岸最南に近いモンパルナスに画家が集まった。ピカソ、ブラックがモンマルトルのBateau laboire(洗濯船)というアパートでキュビスム(立体派)の絵画的実験を繰り返して、キュビスム絵画や彫刻を創造したのは有名な話だ。
Bateau lavoir(洗濯船)の写真↓
モンパルナスはシャガール、藤田嗣二、モジリアニなどのエコール・ド・パリ(20世紀初頭にパリに住んで活躍した外国人作家の総称)の地で、La Ruche(蜂の巣)と言われる画家専用の集団アパート(アトリエ兼住宅)は今も残っている。
La Ruche(蜂の巣)の写真 ↓
マルク・シャガールは故郷ウクライナの伝統的な絵画の影響を濃厚に残こす幻想的な絵画を描き、1950年にコードダジュールのニースに移り済むまで断続的に、パリに30年近く住んでいた。そのシャガールが戦前に住んでいたアトリエを戦後1950年代からミッシェル・アンリが引き継いだ。
マルク・シャガールがパリの風景描いた絵↓
このアトリエはモンパルナス駅の次のメトロ駅Alesia(アレジア)から5~6分の所にある。Avenue de General Leclerc 通りに面した表の緑色の左右に開く事のできる大きな木製の扉の一枚を開いて中庭に入ると、中庭の道の左側がアトリエで天井は光を取り込む為ガラス貼りになっている。アトリエの中には応接セットがあって来客を迎えられるようになっている。
中庭の道の右側の建物は1階は80号以上の大きな絵画を描くアトリエで2階が住居になっている。1階には巨大なイーゼルが置かれていた。
この緑の扉の後ろに、広い中庭とミッシェル・アンリ、マルク・シャガールのアトリエがある。パリは奥深い。↓
下の写真は、スエーデン王国のベルナドット王女がミッシェル・アンリのアトリエを訪れた時の写真だ。スエーデン王国はミッシェル・アンリの作品を収蔵しているが、この時のベルナドット王女の来訪は購入の為ではなかった。↓
ベルナドット王女は子供の眼の難病の支援活動をしていて、その支援活動のためニューヨークでチャリティーオークションを開催するにあたり、ミッシェル・アンリの作品もチャリティーに出してほしいとの依頼でアトリエをおとずれた。
スエーデン王国のベルナドット王女がミッシェル・アンリに綴った手紙↓
Avenue de General Leclerc通りに面した扉から入った内部は、100坪以上の広さがありミッシェル・アンリが独占していたから家賃も大変な額だった。このアトリエと住居にミッシェル・アンリは2012年迄実に50年以上住み続けた。
中庭の道の左側のアトリエに立つミッシェル・アンリ↓
ミッシェル・アンリ↓
50数年で実に10億円もの家賃を払った計算だ。アメリカと仕事をしていた時代は、南フランスに寝室が20もある別荘をもっていて、彼の別荘はアメリカ人で賑わっていた。1990年代半ばにミッシェル・アンリと契約していたアメリカのフィンドレー画廊がパリから撤退して、アメリカの仕事が激減したため、南フランスの別荘を売ってパリから列車で数時間距離のノルマンディーの海辺に普通の別荘を買った。
ノルマンディの海辺の風景。晴れた日は対岸のイギリスが見える↓
フィンドレー画廊のパリ支店長をしていたエチエンヌ・サシー氏がウオーレー・フィンドレーと同じヨーロッパⅠ番の高級画廊街マチニョン通りにサシー画廊をオープンしていたので、ミッシェル・アンリはフランスではサシー画廊と契約してアンドレ・ブラジリエと共にサシー画廊の2枚看板なった。
現在のマチニョン街の画廊の写真↓
サシー氏はミッシェル・アンリの為にマチニョン通りにもう1店舗オープンしてそこはミッシェル・アンリを常設にして、ブラジリエのとは分けた。
パリのマチニョン街の現在画廊↓
私がミッシェル・アンリと会ったのは、アメリカのフィンドレー画廊がパリから撤退した直後だったので、弊社との契約はある意味でミッシェル・アンリにとってもタイミングが良かった。フィンドレー画廊との契約が続いていたら、弊社と契約しなかったと思う。
私が日本人画商には珍しくフランス語が堪能で、フランス文化に傾倒し、フランス大使館などとも親交があった事もミッシェル・アンリの決断を促したかもしれない。絶妙なタイミングで弊社がミッシェル・アンリと契約した。私にとっては驚く程ラッキーだった。
プランタン銀座での展示会のミッシェル・アンリと私(ギャルリー亜出果武田康弘)↓
当時は、バブル経済が崩壊して数年後で日本はアメリカに次ぐ世界2位経済大国だった時代だ。日本でフランス絵画が売れていた時代なので、ミッシェル・アンリがアメリカがダメなら日本でと考えるは、時代背景から考えると自然な流れだったと思う。
以降はミッシェル・アンリが弊社の為にも描いてくれるようになった。
来日して日本食を楽しむミッシェル・アンリ
左からギャルリー亜出果社員 武田康弘 ミッシェル・アンリ↓
110, Avenue du General Leclerc のパリ14区の中庭の左右の建物はロシアの革命家レーニンに執筆活動、戦前戦後の大作家マルク・シャガールとミッシェル・アンリに創作の場を提供した歴史的な建築物と言える。