2006年の夏に関西の某百貨店に商談で行き、担当者がくるまで、画廊でぶらぶらしていた。総合展だったので、日本の物故作家を中心に展示してあった。不細工な裸婦の絵が掛けてあって、こんな下手糞な絵なんか誰が買うものか、3流週刊誌のヌード写真の方がまだ魅力があると思った。作家名を見て驚いた、20世紀初頭に生まれ、フランスに留学し、文化勲章も貰った作家で、私でさえ名前は知っている。以前、福岡市の県立美術館に行って、ヴラマンクの絵の前に行ったらやはりその作家の名前が書いてあった。何で、ヴラマンクの絵に日本人の作家の名前が書いてあるのだろうと不思議に思っていたら、説明書きにヴラマンクに師事した○○と書いて有った。
その不細工でデブの女のヌードは20号ぐらいで、2000万円の値段が付いていた。当社の天才画家ミッシェル・アンリの油彩画20号が250万円で、これが2000万円もするのか不思議に思った。それから、また新幹線に1時間程乗り、別の百貨店の担当者と夕食を一緒にした時、その絵の話をしたら、20号で2000万円では安すぎるから、多分パステルか水彩であろうとの事。油彩なら1億ぐらいはするそうだ。そんなバナナ。そうしたら、ミッシェル・アンリの油彩を50枚買える。
その文化勲章作家に何の悪意も無いけれど、あほらしくてまた、羨ましくて、でも仕方が無いと思い。盃に日本酒を、たっぷりついで、不思議に思う気持ちを一緒に胃の中に流し込んだ。その、百貨店の担当者にとっては当たり前の事を私が知らないだけだった。日本の画商連中の常識を私が知らないだけだった。聞け我が名を。ドン・キ・ホーテ。
さあ、玉葱の皮を剥こう。まず、マーケット有きである。つまり、お金のある人がいるのだ。お金持ちが高い車も買い、へリコプターや、飛行機まで持っていたり、ついでにゴルフ場も持っていたり、愛人も囲っているかも知れない。そういう人達は、庶民がしない贅沢をしたがり、庶民が持たないものを持ちたがる。バランス感覚からいっても、20億円の家に200万円の絵画は安すぎる。家に訪ねてきた人が、その家の豪華さにため息をつき、調度品の格調の高さに驚きと尊敬を表す。絵画だけ、200万円ではバランスが取れないし、来た人に尊敬と驚愕の念を起こさせる事が出来ない。
そこで、名前の通った物故作家の登場となる。あの、高校の美術の教科書にも登場する、ヨーロッパにも留学した、文化勲章の、日本画壇を築いた・・・と歴史的修飾語には事欠かないこの人たちの絵が必要になる。絵画の質は2の次である。日本人は温順な国民で、私は同国民として最大限の敬意と好意を感じている。社会の歯車を円滑に回すために、私達の温順さがどれだけ、役に立っているか考えた時、賞賛を禁じえない。しかし、どんな物にも負の部分がある。温順な日本人は絵を見る前に、すでに帽子を脱いでいる。女性の顔も見ない内に評判だけ聞いて惚れてしまうようなものだ。生身の女性であれば、幾ら自分の価値観や美観に自信の無い男でも、いくら、温順な男でも、ブスか美人かぐらいは判断がつく。ブスでも財産が有るから結婚する場合もあるが、これは又別問題だ。もちろん、ブスで、性格がよかったり、頭が良く能力が高いからと結婚したりする。(私は外見の美しさだけで女性を判断してはいけないと思う。誤解の無いように。)ところが、絵の場合はお金持ちも審美眼に自信が無いので、目をつぶって買うのだ。そして、画商が並べる薀蓄を覚えて、自分も他の人に説明する。この絵が美しいという根拠のない前提で商談が進む。この絵の良さを理解しない奴が馬鹿なのである。ブスでデブの女のヌードを見ながら、皆がため息をつき、驚きと尊敬を表す。私は馬鹿で結構。こんな、不細工なヌードなどゴミ箱に捨ててやる。いや、買う人がいれば売って一儲けしようか。幸い、私はこの絵を買う事も売る事もしない。つまり、あらゆる意味で蚊帳の外なのだ。
蚊帳の外で叫ぶ。ミッシェル・アンリは天才だと。クチュールの花も風景もなんと美しく、私をうっとりさせるかと叫ぶ。ピエルマテオの描くメルヘン世界に住みたいと思う。ジェベールの原野の風景がどれだけ私の心を和ませるか。リュバロの画くブーケの山野の風景の強烈な色彩を日本画家の誰かが、真似する時が来るだろうと。私は蚊帳の外で叫び続ける。その内、蚊帳が移動して私の周りを取り囲む日が来るであろう。それとも、来ないであろう。どちらでもいい。挑戦し続ける。私には確信がある。何故なら、感動があるから。感動のない芸術が有るのであろうか。