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ペイネ&ミッシェルアンリの愛と花の美術館が放射能被害の飯館村にできたのは何故?

東日本大震災で放射能被害を受けた飯舘村の村長が2018年に自宅の蔵を改造してレイモンペイネとミッシェルアンリの美術館にした。

2003年頃、飯舘村の菅野村長から弊社に電話があった。ペイネの美術館を飯舘村に作りたいので、レイモン・ペイネの版画を沢山欲しいとの電話だった。


当時は、弊社(ギャルリー亜出果)は軽井沢プリンスショッピングプラザに<ギャラリーヴァンドフランス>というフランス絵画版画の専門ギャラリー(1995年~2015年)を経営すると同時に軽井沢プリンスホテル西館の通路にも作品を展示して販売していた。

飯舘村の菅野村長は、その1月程前に軽井沢プリンスホテルでのセミナーに参加して、軽井沢プリンスホテル西館に弊社が展示していたレイモン・ペイネのオリジナル版画を5点程購入したらしい。私も軽井沢プリンスホテルの月末の売り上げ報告で、レイモン・ペイネの版画が数点売れたのは知っていた。

私は、菅野村長の電話から2月程して東京で菅野村長に合ってランチをして話を聞いた。飯舘村に愛の沢という場所があって、小さな湖を中心に運動場や温泉、宿泊施設、レストランもある村人の憩いの公園になっている。

愛の沢の愛の架け橋↓

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愛の沢には男性と女性の性器に似た石があり愛の沢という名前の由来になっているらしい。菅野村長は愛の沢にちなんで、ペイネの恋人達の美術館をオープンしたいとの事だった。ペイネ美術館は軽井沢と南仏アンチーブなどにあるが、飯舘村にも作りたいとの事だった。美術館はペイネのオリジナル版画は定価10万円~20万円程なので格安で美術館をオープンできるわけだ。

私は数か月後にその愛の沢を見に行った。菅野村長は、新しいアイデアと実行力のる人で、飯舘村発展のために色々な試みをしていた。愛の沢のペイネ美術館も村起こしの一環らしい。面白いので、それらの菅野村長の試みを幾つか紹介しようう。

1:村民俳句大会:1980年代に<サラダ記念日>という俳句集を出版して一躍有名になった俳人の黛まどか氏を審査員に呼んで、村民や一般公募の農村や飯舘村をよんだ句の審査会を開いて、選ばれた俳句を高さ30センチ程の石に掘り込み、愛の沢を一周する散歩道に数十個設置して、散歩しながら農村の俳句を楽しめるようにした。その句集も出版した。

飯舘村愛の沢の句碑↓

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2:若妻の翼:農家のお嫁さんのフランスへの集団旅行の企画をした。確か7~8回程実施したようです。農家の若い奥さん達が自分達でフランス旅行の企画を立て、予約も自分達でして、1週間程フランスを旅行するのだ。もちろん、フランス語はできないし、英語も大したレベルではないので、身振り手振りも交えて旅行中のコミュニケーションをすることになる。参加した彼女達はその企画によって自信をつけ、帰国後に村の中の様々な分野で積極的に活躍したそうだ。特筆すべきは、その旅行の実施は秋の収穫の農家が最も忙しい時期を選んで行われた事だ。忙しい時に農家の奥さんが不在になれば、農家は困る事によって、お嫁さんの重要度を認識する仕組になっている。発想が面白い。でも、この企画がフランスだったのはとても良かったと私は思う。アメリカだと犯罪に巻き込まれる危険が高いし、イタリアだと50メートル置きに男が付きまとう。フランスはジプシーやイタリア系のストリート泥棒はいるが、身の危険を感じる事はない。店やレストラン、ホテルで盗難の被害もそんなに多くない。

菅野村長は2年間程の間に数十点のオリジナル版画を買ってくれた。菅野村長は個人で買って、美術館が出来たら村に寄付する予定にしていた。数年後、菅野村長は仙台三越でのミッシェル・アンリ来日展に奥さんと一緒に来てくれた。ミッシェル・アンリの絵画を見て、同時に画家に会って感激し、予定の美術館は「ペイネ&ミッシェルアンリの愛と花の美術館」にする事になった。

 

 ミッシェル・アンリ来日展を見に来てくれた飯舘村菅野村長夫妻とギャルリー亜出果 武田康弘↓

 仙台三越のミッシェル・アンリ展に来場した飯舘村の菅野村長夫妻とギャルリー亜出果武田康弘の写真

ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館建設は2006年に飯舘村議会で否決されたが、菅野村長は諦めていなくて機会をうかがっていた。菅野村長は自分が書いた本や、ブランドの飯館牛の肉の大きな塊を送ってくれたり、東京に来たときは一緒に食事をしたりして、私達はすっかり友達になった。

私は村長へのお礼にと思って2009年から毎年、子供達の夏休み中に飯館村に行って愛の沢のコテージに宿泊し、飯舘村から1時間程の松川浦という海水浴場にもいった。飯舘村のコテージの傍の草むらから見上げる夜空は素晴らしい物だった。飯舘村は高原で愛の沢のコテージは丘の上にあるので、周りには星空を遮る物がなく、真っ暗なので、満点の星空が広がっている。星が降るというのは、このような夜空の事だとおもう。
飯舘村ホテル+レストランの木こり館 このそばにコテージもある↓

 

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飯舘村コテージに宿泊して近くのやま湖での花火大会や、村の夏祭りにも行った。菅野村長の奥さんが茹でてもってきてくれたトウモロコシを女房や子供と一緒に頬張りながら、花火を見た。村の祭りでは、飯館牛と村でとれた野菜でのバーベキューを楽しんだ。愛の沢を散歩しながら村民の俳句も楽しんだ。数メートル置きあるその民の俳句を口ずさみながら、湖をぐるりと散歩するのは楽しかった。村民が作った俳句をいくつか紹介しよう。「ひと声に牛の寄りくる秋の暮」「下校の子稲刈る父を見て帰る」「トラクターに新妻乗せて花野ゆく」など牧歌的な句が並んでいる。審査員の俳人黛まどかさんが選んだ句だ。私も一句作って、俳句で生活している友人に見せたら、ストレートすぎて俳句になっていないそうだ。彼曰く、私の性格そのままだそうだ。私のストレートな句は「夏の夜天まで響け祭り太鼓」花火の上がる前に、かがり火に照らされた祭り太鼓の演奏があり、太鼓の音が真っ暗な夜空に上って行っていたのを、私が俳句にした。

2011年3月11日東日本大震災が発生した。数週間すると飯館村が放射能で大変な被害に会っている事が解った。菅野村長に何かできる事が有るか聞きいたら、子供達が一番可愛そうなので、なにかプレゼントして欲しいと言われ、寄付を集め読売ジャイアンツと楽天のグッズ400個を飯舘村の幼稚園児と小学生に届けた。

飯舘村の幼稚園の先生にプレゼントを渡すギャルリー亜出果武田↓

雄武町プレゼント持参

まだ、飯舘村全村避難の命令がでる前だったが、3校ある小学校の子供達は、隣町の小学校の校舎を借りて勉強していた。

飯舘村の唯一の書店(町役場のすぐそばにある)↓

中には1時間以上掛けて通っている子供もいた。子供達は以外に明るく遊んでいた。私は彼らに「今大変な時だけど、この状況を乗り越えた向こうには、素晴らしい未来が待っているから、大変だけど一緒に乗り越えて行こう。」と言いつつ、この子供達が将来苦しむ事が無いようにと祈るような気持ちだった。今でも、時々、あの時会った子供達の事が心に浮かぶ。元気で育って欲しいと念じる。きっと大丈夫だ、元気に育つと思った。

飯舘村の子供達にプレゼントを届けた武田康弘と教室の子供達↓

放射能被害の飯舘村の子供達にプレゼントを届けた武田康弘と子供達の写真

(株)ワニプラスの佐藤寿彦社長から、菅野村長の手記を出版してくれるとの親切な申し出があり8月に「美しい村に放射能が降った」を出版してくれた。

その後、菅野村長から子供達に、東京で野球を見せてあげたいとの、希望があった。私は、小石川ロタリークラブ、読売ジャイアンツ、東京ドーム 藤田観光に協力して頂き、村主催で2012年4月と8月に3回に分けて180人の子供達に、読売ジャイアンツ観戦1泊ツアーを開催した。東京ドームに子供達と保護者を招待して、読売ジャイアンツの博物館を見て、読売ジャイアンツの試合観戦、藤田観光のワシントンホテルに1泊し、翌日はバスで東京観光して飯舘村に戻る企画だった。もんもんとした状況の子供達を元気づける企画だと思った。また、沢山の人が彼らを応援している事を感じてもらい<絆>を作る事だと思った。私も東京ドームでバスから降りる子供達や保護者の方々を出迎えた。彼らの晴れ晴れとした顔を見たとき、本当にうれしかった。協力してくれた方々も一緒に出迎えた。皆さん感激していた。

 

2016年頃から飯舘村の帰村が始まった。帰村が始まると建築業者や土木業者が多数でいりして復興が始まったので、私の役割は終わったとおもった。 菅野村長は新たな村作りの中で自宅の蔵を改装してペイネとミッシェル・アンリの愛と花の美術館をオープンした。