ギャルリー亜出果とレイモン・ペイネ

ギャルリー亜出果とレイモン・ペイネ

 

レイモン・ペイネ版画と私 

 

南フランスのラングドック地方の首都モンペリエは、大学都市として有名だ。特に医学部は歴史が古く、カルガンチュア物語を書いた中世の文学者フランソワ・ラブレーや日本でも20世紀後半に随分話題をまいた、ノストラダムスの大予言<le siecle>を書いたノストラダムスもモンペリエ大学の医学部で学んだ。 私は、1970年代にそのモンペリエで数年間をすごした。

 
 上の写真は、モンペリエの風景週末に友人達と街中のアジア食料品店やスーパーマーケットに買い物に来ていたが、中心地のカフェは高いので横目で眺め散歩だけしていた。

市街地近くの伝統ある医学部や法学部ではなくて、町の郊外にある新設の文学部だ。町から少し隔離されるように、大規模なキャンパスと学生寮が建設され、フランスの国内外から来た学生が浮世離れした生活を送っていた。私もそのひとりで、社会学という日本に帰ってもあまり就職の無さそうな学部の学生だった。将来の事など何処吹く風。進級試験の事とか、今度の休みにどうやって金を使わないで旅行するかぐらいしか頭になかった。修士課程でパリに行くまでこの青い空と爽やかな空気の南仏の街でのんきに過ごした。日本からも結構留学生が来ていた。商社や外務省から1年の短期留学で来た人たちや私のように大学や大学院に通う人、大学を卒業して短期でくる人などがいた。

 
 上記はモンペリエ大学のキャンパス。40年の歳月が流れた。 
 

私が絵画の仕事を始めて数年後1990年頃に、その頃のフランス人の友達から便りが届いた。同じ大学の後輩が版画の仕事を始めたので力になって欲しいとの事。その後輩の版画商はアレクサンダー・トカールといって私より10歳ほど年少なので、私の学生時代にはあった事もない。私がパリに行った時、トカール君はパリまで私に会いに来た。当時まだ日本の地産グループが経営していた、チュイルリー公園脇のモンタボールというホテルの日本レストランで昼食を食べた。彼は箸が上手く使えなくて何度もこぼしていた。トカール君は柔道をやっていたので、先輩後輩の日本の秩序も良くわかり、その後一緒に食事するたびに、私が奢った。大学の先輩なので仕方がない。次の年に、ニースに住んでいる叔父さんのミュレ氏を紹介したいというので、ニースに行った。冬枯れのニースは観光客も数えるほどしかいなくて、町も海岸も閑散としている。夏とは別世界で、あちこちで咲き乱れるミモザの黄色い花がわずかに南フランスを感じさせる。花戦争があるとホテルのフロンドが言っていた。観光客を呼ぶイヴェントとして、どこからか大量の花を運んで来て投げ合うらしい。ミュレさんは、ニースの高台に住んでいて、一寸した金持ちだ。ミュレさんは通信教育教材で儲けたらしい。随分もうけた頃に法律が変わり、そのビジネスがあまり儲からなくなったので版画制作をはじめたそうだ。

 

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 1996年頃のトカールさんの結婚式。奥さんのドニーズさんは現在はスーパーマーケットチェーンの役員になっている。

ペイネの版画はミュレさんが手がけた。リトグラフ約40絵柄程とエッチチング12絵柄、ミュレさんは親切な人でニースの空港まで、トカール君と迎えに来てくれて、丘の上の高そうなレストランで昼食をご馳走してくれた。昼間からシャンペンを抜いてワインもしこたま飲んだ後、大型のベンツで自宅に連れて行ってくれた。その途中スピード違反で捕まり、ミュレさんは切符を切られた。不思議な事にそれともフランスでは当然なのか、飲酒運転は調べられもしない。余談だが、私は学生の頃、中古で買ったフイアットに乗っていた。中古なのでさすがに良く故障し、しょっちゅうガソリンスタンドやガレージに駆け込んだ。ある時ガソリンを給油しながら、タバコを吸っている人を目撃した。一瞬眼を疑った。次にフランスのガソリンは燃えないのかとも思った。昼間から心行くまでワインを飲んで車を運転し、ガソリンのそばでタバコを吸いながらフランス人は元気に幸福に生活している。フランスの歩行者用信号の青は渡れ、黄色は渡れ、赤は車が来ていなければ渡れ。私が赤信号で立ち止まっていると、病気なのかと心配して声を掛けてくれた人がいた。フランス人は親切な国民なのだ。

そのミュレさんも1992年頃に亡くなられた。私は再び、ニースに行きトカール君とミュレさんの倉庫で商売をした。当時40絵柄程のペイネのリトグラフが10、000枚程倉庫に眠っていた。私はありったけの金をかき集め、銀行から借金をし、4、000枚程買った。売れそうな絵柄は全部買って、残り6000枚程は少しずつ買う約束をした。あまり人気のない絵柄は、その後もトカール君が日本の業者やアメリカの業者に少しずつ売りつづけた。 1999年にペイネが亡くなったので、私は1000枚買い足した。トカール君がもっていた残りの版画も半年程で完売してしまった。トカール君は大分高く売って儲けたらしい。その後、トカール君やフランスの業者から私が買ったより大分高い金額で買いたいとの要望があった。

私は軽井沢プリンスショッピングプラザ内(後に軽井沢プリンスホテル内)の弊社直営店舗ギャラリーヴァンドフランスで少しづつ販売し、業者卸はしなかった。2015年弊社がギャラリーヴァンドフランスを閉廊して現在まだかなりの枚数を所有している。弊社で販売しているペイネの版画は、版元から買った正真正銘のオリジナル版画で作家の直筆サインと番号が入っている新品だ。現在私が世界で最も沢山ペイネの版画を所有しているコレクターとなった。ペイネのオリジナル版画はフランス、アメリカででも全く品切れとなり、買いたい人がたくさんいるらしい。日本では、長野県の軽井沢と岡山県の美作市にペイネ美術館があるが、フランスにもコートダジュールの一角アンチーブ市に美術館がある。アンティーブ市はペイネ美術館とピカソ美術館を市の観光資源として運営している。ペイネの恋人たちは世界のアイドルだ。私は値上げもせずに、12万円~15万円ぐらいで、本当にペイネの好きな人に少しづつ販売を続けている。

 

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