フランスの画家は神だ

フランスの画家は神だ

 

油彩画の重要な要素は、画家の意図、構図、デッサン、色彩、タッチ、マチエール。この6要素は、絵画のジャンル(具象、抽象、風景、人物、生物)を問わず大切になってくる。日本の画家が重要視する要素とフランスの画家が重要視する要素は異なる。

此処では、画家の意図の話をしよう。フランスのプロの画家が描くときは、まずは画家の意図がある。つまり、どんな絵画を描きたいかが、第一にくる。この部分は画家のインスピレーションに係る。その画家の技量より才能とか画家の教養・イマジネーションの力が働く部分だろう。もちろん、その意図を実現する画家としての力量(デッサン力、色彩の構成力…など)は不可欠だし、その技量に対する自信があってはじめて、イメージでききる事もまた事実だが。どんな絵画を描くかというのは、主題とか描く対象とか表現したい事とかそういう事ではなくて、この絵画をどのような絵画にするつもりかという事だ。当然、主題とか表現したい事とか描く対象も考慮に入れながら、その絵画の全体像をイメージするのだ。

その発想は画家により、またその絵画により異なる。たとえば、明るい雰囲気のブーケを描こうと思う。そこから、画家のインスピレーションが働く。それを、どう描き、どのように見る人に理解させるか、また、楽しませるか、また、ショックを与えるかと考える。わかりづらいかも知れないが、それが画家のその絵画を描く意図だ。そこには、豊なイマジネーションが必要だ。日本人の評論家はよく、円熟した画家の境地などと言う。画家の鋭い眼光が捕らえたなどと意味の無い事をいう。絵画からその画家の人生観とか、感情を読み取ろうとする。

そして絵画の評論をしないで、画家の伝記を書く。フランスの画家は神だ。自分の目の前のキャンバスに自分の世界を創る。それは、自分の人生観とか感情と密接に絡み合いながらも、自分とは違う世界を作る。それが、画家の意図だ。だから、フランスの画家は画家が描いた絵画と職人の絵画は一目で区別がつくらしい。画家の描いた絵画には、明確な意図が見える。職人はただ描くだけだ。たとえ、職人の描いた絵画が、良くできていて、円熟した境地にあったり、抒情性があったとしても、そこからは画家の意図が読み取れない。

だから、フランス人のプロ画家が他の画家に師事して、同じような絵画を描くことはあり得ない。なぜなら、自分の意図をキャンバスの上に実現するのが、神なる画家の仕事だ。他人の技法は学んでも、意図とインスピレーションは真似できない。他の画家の意図を自分のキャンバスに実現するとすれば、それはもう画家ではなく職人の仕事だ。別に職人が悪いわけではない、立派な職業だし。立派な職人が様々な産業を支えている。でも、フランス人の感覚では、画家は職人ではない。日本人の描く絵画がフランスでほとんど評価されないのは、まず、そのへんの問題ではないだろうか。

職人の作る物は唯きれいであればいいが絵画は違う。日本画の画家が描く桜も京都のお寺も富士山もとりあえずきれいだったりするが、みんな同じだ。フランス人の画家から見れば、彼らは画家では無く絵画職人なのだろう。また彼らの描く桜、富士山、神社仏閣が日本人に美しく見えるとすれば、それは画家の力というより、伝統の力だろう。

日本人の画家のグループが良くフランスのサロンに出したり、フランスでグループ展をしたりする。フランス人は社交性があり、日本人には好意を敬意を持っているので、それなりに愛想良く対応するが、絵画の本質はよく捕えている。殆どアマチアの絵画だと言う。弊社の画家Mの来日展をある地方都市の百貨店で開催した。もちろんMも会場に行った。ちょうど、同じ百貨店でフランス人のほかの画家が展示会をしていた。Mはフランスでも有名なので、その画家がやってきて、Mに自分の絵画を見て欲しいと言った。Mは見に行って、愛想良く対応し「又、どこかでお会いできると嬉しい。」とあたりさわりの無いことを言っていた。

後で、Mがこっそり言うには、「職人の絵画だ。どの絵画にも画家の意図が見えない。だだ描いているだけだ。それにしてもひどい。もしかしたら自分で描かないでプロの職人にやらしているかもしれない。」と感想を漏らしていた。もちろん、これは、実際に調べた訳ではないし、証拠があるわけでもない。Mがプロの画家としての意見をこっそり私に述べただけだ。プロの職人とプロの画家は違う。

映画なども、映画監督は意図を持っている。けれども、いくら経験が長くて、技術が優れていても、監督以外の映画製作に関わる人たちはプロの職人だ。映画監督の意図を実現するプロの職人集団だ。日本の映画はフランスでも人気が高い。北野武、黒沢明、小津安二郎、アニメの宮崎駿などは圧倒的な人気があり尊敬を集めている。その他でも、溝口健二、小栗康平、高橋伴明などの質の高い日本映画も良く理解され、ファンが多い。どの映画作品を見ても、その映画監督のオリジナリティとその監督の映画らしさにあふれている。つまり、それぞれの映画監督の意図がくっきりと作品浮かび上がる。その作品だけが与えうる感動がある。他の作品には決してない感動がそれぞれの作品にある。

画家のは自分の意図に従い、キャンヴァスの上に自分の世界を実現するように、映画監督も小説家も芸術家はすべて彼らの意図に従い作品を創造する唯一絶対の孤独な神だ。彼らの作品が、人々に感動を与えた瞬間から神達は孤独から解放され、人間との関わりを回復する。

 

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