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堤義明氏が世界一のお金持ちの時代のフランス絵画とミッシェル・アンリ

堤義明氏が世界一のお金持ちの時代のフランス絵画とミッシェル・アンリ

  1995年にプリンスホテルが軽井沢プリンスホテルに隣接して軽井沢プリンスショッピングプラザをオープンしてギャルリー亜出果も29店舗の内1店舗としてギャラリーヴァンドフランスをオープンして、当時世界でも有数の金持ちで西武ブループのオーナーの堤義明氏も来場したが、堤氏はビュッフェ、ブラジリエ、カトラン、カシニョールといった当時日本で人気のあった画家の絵画を買い集めて各地のプリンスホテルに飾っていた。 1994年には品川プリンスホテルが新館(現メインタワー)をオープンした。その建物はフランス画家カシニョールのステンドグラスを作って、食器もノリタケでカシニョールの絵画を焼き付けさせた。そのオープンに先立ちホテルのバンケットホールでカシニョール来日展を開催した。 私は個人的にカシニョールも知り合いだったり、西武商事が以前運営していたギャラリープリンスの仕事も引き継いでいたので、通訳として少し手伝いをした。 その後、テレビでオープニングパーティーが放映されたが、沢口靖子さん、南野陽子さんなど当時のトップアイドルがパーティーに出席していた。なにしろ1987年~94年までは程毎年堤義明氏と森ビルの森泰吉郎氏がフォーブス誌の世界長者番付でトップを独占していた。豪華なパーティーだった。 堤義明氏がフランス絵画を収取したには理由がある。妹の堤邦子氏が離婚してパリに永住していて、西武百貨店のパリ事務所の代表としてフランスの文化芸術を日本に伝えていた。彼女は日本で有名になっていた画家を堤氏に紹介した。 弊社の契約作家ミッシェル・アンリは1990年代初めまではニューヨークに本店がありパリ、ロンドンにも支店のあったアメリカのフィンドレー画廊の画家だったで日本よりフランスとアメリカをメインに活躍していた。その後1995年から弊社ギャルリー亜出果がミッシェル・アンリと契約して日本中で展示会を開催した。 ミッシェル・アンリによると、堤邦子氏のパリの自宅にはミッシェル・アンリの絵画も飾っていたらしいし、フランス語も流暢で優雅な方だったらしい。 明治以降日本がアジアのトップランナーとして走り続け、20世紀の終わりに世界に追いつき一瞬の栄華を極めたが、世界はその後変化のスピードを上げていったが、日本は変化を好まず世界の中で地盤沈下を続けているが、21世紀も第2コーナーに差し掛かった今そろそろ起き上がって新たな挑戦を始める時期かもしれない。

堤義明氏が世界一のお金持ちの時代のフランス絵画とミッシェル・アンリ

  1995年にプリンスホテルが軽井沢プリンスホテルに隣接して軽井沢プリンスショッピングプラザをオープンしてギャルリー亜出果も29店舗の内1店舗としてギャラリーヴァンドフランスをオープンして、当時世界でも有数の金持ちで西武ブループのオーナーの堤義明氏も来場したが、堤氏はビュッフェ、ブラジリエ、カトラン、カシニョールといった当時日本で人気のあった画家の絵画を買い集めて各地のプリンスホテルに飾っていた。 1994年には品川プリンスホテルが新館(現メインタワー)をオープンした。その建物はフランス画家カシニョールのステンドグラスを作って、食器もノリタケでカシニョールの絵画を焼き付けさせた。そのオープンに先立ちホテルのバンケットホールでカシニョール来日展を開催した。 私は個人的にカシニョールも知り合いだったり、西武商事が以前運営していたギャラリープリンスの仕事も引き継いでいたので、通訳として少し手伝いをした。 その後、テレビでオープニングパーティーが放映されたが、沢口靖子さん、南野陽子さんなど当時のトップアイドルがパーティーに出席していた。なにしろ1987年~94年までは程毎年堤義明氏と森ビルの森泰吉郎氏がフォーブス誌の世界長者番付でトップを独占していた。豪華なパーティーだった。 堤義明氏がフランス絵画を収取したには理由がある。妹の堤邦子氏が離婚してパリに永住していて、西武百貨店のパリ事務所の代表としてフランスの文化芸術を日本に伝えていた。彼女は日本で有名になっていた画家を堤氏に紹介した。 弊社の契約作家ミッシェル・アンリは1990年代初めまではニューヨークに本店がありパリ、ロンドンにも支店のあったアメリカのフィンドレー画廊の画家だったで日本よりフランスとアメリカをメインに活躍していた。その後1995年から弊社ギャルリー亜出果がミッシェル・アンリと契約して日本中で展示会を開催した。 ミッシェル・アンリによると、堤邦子氏のパリの自宅にはミッシェル・アンリの絵画も飾っていたらしいし、フランス語も流暢で優雅な方だったらしい。 明治以降日本がアジアのトップランナーとして走り続け、20世紀の終わりに世界に追いつき一瞬の栄華を極めたが、世界はその後変化のスピードを上げていったが、日本は変化を好まず世界の中で地盤沈下を続けているが、21世紀も第2コーナーに差し掛かった今そろそろ起き上がって新たな挑戦を始める時期かもしれない。

1995年軽井沢プリンンスショッピングプラザとギャラリーヴァンドフランスのオープンとフランス絵画の巨匠ミッシェル・アンリ=花を描く幸福の画家

1995年軽井沢プリンンスショッピングプラザとギャラリーヴァンドフランスのオープンとフランス絵...

1992年頃からフランス絵画の輸入元の私の会社㈱アデカ(ギャルリー亜出果)は軽井沢プリンスホテルでトップシーズンの8月と年末年始にフランスアート展を開催していた。西館の正面玄関から一番近い浅間という大広間1/4程脱着可能な壁で仕切って使っていた。それ以前は西武商事がプリンスギャラリーをいう絵画販売会社を青山でやっていたが、バブルが飛んで絵画販売部門を閉鎖したので、弊社が代わりを頼まれていた。軽井沢プリンスホテルに隣接して、軽井沢プリンスショッピングプラザを開設する計画が持ち上がり、弊社もそこに店舗をオープンする事になった。全部で29店舗の小さなリゾートショッピングプラザだ。   1994年に計画が始まり、1995年7月22日にオープンした。大々的にオープン式典が行われ、西武グループ総帥の堤義明氏も出席されてテープカットされていた。堤氏は当時のトップアイドル美人歌手の南野陽子さんを同伴されてショッピングプラザを案内されていた。まだ、バブルの余韻の残っている時代で堤義明氏は1980年代~90年代まで6回も世界の富豪番付けで1番になられていた。その前年1994年には品川プリンスホテルの新館がオープンして沢口靖子などの花形芸能人を招いて派手なパーティーを開き、テレビでも放映された。堤義明氏はフランス絵画を多数所有していたが、その話は別の機会に譲ろう。

1995年軽井沢プリンンスショッピングプラザとギャラリーヴァンドフランスのオープンとフランス絵...

1992年頃からフランス絵画の輸入元の私の会社㈱アデカ(ギャルリー亜出果)は軽井沢プリンスホテルでトップシーズンの8月と年末年始にフランスアート展を開催していた。西館の正面玄関から一番近い浅間という大広間1/4程脱着可能な壁で仕切って使っていた。それ以前は西武商事がプリンスギャラリーをいう絵画販売会社を青山でやっていたが、バブルが飛んで絵画販売部門を閉鎖したので、弊社が代わりを頼まれていた。軽井沢プリンスホテルに隣接して、軽井沢プリンスショッピングプラザを開設する計画が持ち上がり、弊社もそこに店舗をオープンする事になった。全部で29店舗の小さなリゾートショッピングプラザだ。   1994年に計画が始まり、1995年7月22日にオープンした。大々的にオープン式典が行われ、西武グループ総帥の堤義明氏も出席されてテープカットされていた。堤氏は当時のトップアイドル美人歌手の南野陽子さんを同伴されてショッピングプラザを案内されていた。まだ、バブルの余韻の残っている時代で堤義明氏は1980年代~90年代まで6回も世界の富豪番付けで1番になられていた。その前年1994年には品川プリンスホテルの新館がオープンして沢口靖子などの花形芸能人を招いて派手なパーティーを開き、テレビでも放映された。堤義明氏はフランス絵画を多数所有していたが、その話は別の機会に譲ろう。

フランスの絵画の巨匠画家ミッシェル・アンリとの出会い=花を描く幸福の画家

フランスの絵画の巨匠画家ミッシェル・アンリとの出会い=花を描く幸福の画家

1993年初めてミッシェル・アンリと会った。ギャルリー亜出果は小野田セメント(現太平洋セメント)のカレンダーの制作を請け負っていた。翌年1994年のカレンダーの画家を探しに、小野田セメントの担当者とパリにい行った。数人の画家と会った。知り合いの女画商のCさんの紹介でミッシェル・アンリのアトリエに行った。   ミッシェル・アンリのアトリエはパリの15区にあった。戦前はマルク・シャガールが使っていたアトリエだが、ミッシェル・アンリが引き継いだのだ。1991年第1次湾岸戦争が起こり、バブル経済がぶっ飛んだとは言えまだ、景気の良い時代だった。ミッシェル・アンリは、パリのエリゼ宮添いのマチニョン街の高級画廊の画家で日本では、マルク・エステルという元外交官の画商が大丸百貨店を中心に販売していた。   有名な画家に会うので私も緊張していた。画商のC女史にの後ろに隠れるように、して彼のアトリエに入った。C女史は、彼に私を紹介した後、彼と暫く世間話をして、私にも話に加わるように、目配せをするので私も会話に加わった。 その内、ミッシェル・アンリが私になぜそのなにフランス語が出来るのかなど、私の事を聞いてくるので、南仏のモンペリエ大学の頃の話とかパリ大学で社会学の修士論文を書いていた頃の話などすると次第に嬉しそうな顔になった。彼の絵画をどう思うかと聞かれたので、好きだと答えた。大作家などで、評論がましい事をいうのは差し控えて<貴方の絵画を見ている時は幸福感を感じる>と伝えとた。 雰囲気が和んで、ミッシェル・アンリが私を気に入ったのを見定めたC女史は、小野田セメントのカレンダーの話をするようにと、ようやく本題を切り出した。小野田セメントの担当者は、待ちくたびれていたので、ほっとした表情をした。私は短く、1994年の小野田セメントのカレンダーのミッシェル・アンリの絵画を使いたい旨を伝えて、ミッシェル・アンリのアトリエを後にした。 日本に帰ってどの作家にするか、小野田セメントと会議をした結果ミッシェル・アンリが第一候補になった。他の画家よりかなり高額だが、その頃はまだバブル経済の余波で小野田セメントもたっぷり予算をもっていた。その後2週間程して、C女史からOKの返事が届いた。   ミッシェル・アンリ<カリフォルニアのポピー>オリジナルシルクスクリーン 作家自筆サイン入り250部限定 イメージサイズ43x35㎝    ミッシェル・アンリは花をメインに描く画家でビュッフェ、ブラジリエadekat-gallery.com 110,000円 ギャルリー亜出果で購入する

フランスの絵画の巨匠画家ミッシェル・アンリとの出会い=花を描く幸福の画家

1993年初めてミッシェル・アンリと会った。ギャルリー亜出果は小野田セメント(現太平洋セメント)のカレンダーの制作を請け負っていた。翌年1994年のカレンダーの画家を探しに、小野田セメントの担当者とパリにい行った。数人の画家と会った。知り合いの女画商のCさんの紹介でミッシェル・アンリのアトリエに行った。   ミッシェル・アンリのアトリエはパリの15区にあった。戦前はマルク・シャガールが使っていたアトリエだが、ミッシェル・アンリが引き継いだのだ。1991年第1次湾岸戦争が起こり、バブル経済がぶっ飛んだとは言えまだ、景気の良い時代だった。ミッシェル・アンリは、パリのエリゼ宮添いのマチニョン街の高級画廊の画家で日本では、マルク・エステルという元外交官の画商が大丸百貨店を中心に販売していた。   有名な画家に会うので私も緊張していた。画商のC女史にの後ろに隠れるように、して彼のアトリエに入った。C女史は、彼に私を紹介した後、彼と暫く世間話をして、私にも話に加わるように、目配せをするので私も会話に加わった。 その内、ミッシェル・アンリが私になぜそのなにフランス語が出来るのかなど、私の事を聞いてくるので、南仏のモンペリエ大学の頃の話とかパリ大学で社会学の修士論文を書いていた頃の話などすると次第に嬉しそうな顔になった。彼の絵画をどう思うかと聞かれたので、好きだと答えた。大作家などで、評論がましい事をいうのは差し控えて<貴方の絵画を見ている時は幸福感を感じる>と伝えとた。 雰囲気が和んで、ミッシェル・アンリが私を気に入ったのを見定めたC女史は、小野田セメントのカレンダーの話をするようにと、ようやく本題を切り出した。小野田セメントの担当者は、待ちくたびれていたので、ほっとした表情をした。私は短く、1994年の小野田セメントのカレンダーのミッシェル・アンリの絵画を使いたい旨を伝えて、ミッシェル・アンリのアトリエを後にした。 日本に帰ってどの作家にするか、小野田セメントと会議をした結果ミッシェル・アンリが第一候補になった。他の画家よりかなり高額だが、その頃はまだバブル経済の余波で小野田セメントもたっぷり予算をもっていた。その後2週間程して、C女史からOKの返事が届いた。   ミッシェル・アンリ<カリフォルニアのポピー>オリジナルシルクスクリーン 作家自筆サイン入り250部限定 イメージサイズ43x35㎝    ミッシェル・アンリは花をメインに描く画家でビュッフェ、ブラジリエadekat-gallery.com 110,000円 ギャルリー亜出果で購入する

ミッシェル・アンリがサローン・ドートンヌ副会長として1994年来日した

ミッシェル・アンリがサローン・ドートンヌ副会長として1994年来日した

私が初めてミッシェル・アンリと会ったのは、1993年で1994年の小野田セメント(現太平洋セメント)の絵画カレンダーに彼の絵画を使用する契約を得る為だった。翌1994年のミッシェル・アンリが日本に来た。彼は、当時サローン・ドートンヌの副会長で、翌1995年11月にサローン・ドートンヌは日本特集を組む事になっていたため、日本の画家団体と打ち合わせに来た。 ギャラリーアデカ(2014年ギャルリー亜出果に名称変更)はサンシャインの中のフランス商工会議所展示場に常設していた。まだ、フランスの版画がよく売れる時代だったので、シャガール、ビュッフェ、ミロ、ローランサン、カシニョール、フランスの人気画家のオリジナル版画を販売していた。ミッシェル・アンリの版画も売っていた。ミッシェル・アンリは弊社の販売コレクションを見て、とても質の高い作品を集めていると誉めてくれた。 ミッシェル・アンリの絵画は風景の前に花を描く独特のスタイルと様々な色彩に宝石のような色彩を与えて描く画家として有名な巨匠で、当時は、元外交官のマルク・エステルという画商が関西の大丸百貨店を中心にミッシェル・アンリの絵画もビュッフ、ブラジリエ、カトラン等のフランス人気作家の油彩と一緒に販売していた。 私はそのような巨匠のミッシェル・アンリに画商として認められ、褒められて嬉しかった。ミッシェル・アンリを紹介してくれたC女史もたまたま日本に来ていて私のギャラリーに同行していたので、私にミッシェル・アンリの絵画を扱わせてくれないかと思い切って頼んでみた。C女史も驚いたようだが、私を応援してくれて、私と取引をするように進めてくれた。 私は、当時取引のあった日本橋東急百貨店と話しをして翌年にミッシェル・アンリを招待してミッシェル・アンリ展を開催する手はずを整えて、その年の秋にパリでミッシェル・アンリに再度会い、ミッシェル・アンリのOKを取った。ミッシェル・アンリはマルク・エステルとの取引を解消して、弊社と独占契約をする事となっり、まずは1995年11月の展示会の為に20点の油彩画を注文し、版画はパリの知り合いのギャラリーから買い集めた。         

ミッシェル・アンリがサローン・ドートンヌ副会長として1994年来日した

私が初めてミッシェル・アンリと会ったのは、1993年で1994年の小野田セメント(現太平洋セメント)の絵画カレンダーに彼の絵画を使用する契約を得る為だった。翌1994年のミッシェル・アンリが日本に来た。彼は、当時サローン・ドートンヌの副会長で、翌1995年11月にサローン・ドートンヌは日本特集を組む事になっていたため、日本の画家団体と打ち合わせに来た。 ギャラリーアデカ(2014年ギャルリー亜出果に名称変更)はサンシャインの中のフランス商工会議所展示場に常設していた。まだ、フランスの版画がよく売れる時代だったので、シャガール、ビュッフェ、ミロ、ローランサン、カシニョール、フランスの人気画家のオリジナル版画を販売していた。ミッシェル・アンリの版画も売っていた。ミッシェル・アンリは弊社の販売コレクションを見て、とても質の高い作品を集めていると誉めてくれた。 ミッシェル・アンリの絵画は風景の前に花を描く独特のスタイルと様々な色彩に宝石のような色彩を与えて描く画家として有名な巨匠で、当時は、元外交官のマルク・エステルという画商が関西の大丸百貨店を中心にミッシェル・アンリの絵画もビュッフ、ブラジリエ、カトラン等のフランス人気作家の油彩と一緒に販売していた。 私はそのような巨匠のミッシェル・アンリに画商として認められ、褒められて嬉しかった。ミッシェル・アンリを紹介してくれたC女史もたまたま日本に来ていて私のギャラリーに同行していたので、私にミッシェル・アンリの絵画を扱わせてくれないかと思い切って頼んでみた。C女史も驚いたようだが、私を応援してくれて、私と取引をするように進めてくれた。 私は、当時取引のあった日本橋東急百貨店と話しをして翌年にミッシェル・アンリを招待してミッシェル・アンリ展を開催する手はずを整えて、その年の秋にパリでミッシェル・アンリに再度会い、ミッシェル・アンリのOKを取った。ミッシェル・アンリはマルク・エステルとの取引を解消して、弊社と独占契約をする事となっり、まずは1995年11月の展示会の為に20点の油彩画を注文し、版画はパリの知り合いのギャラリーから買い集めた。         

1995年ミッシェル・アンリ来日展:花を描くフランス巨匠画家

1995年ミッシェル・アンリ来日展:花を描くフランス巨匠画家

  ミッシェル・アンリの来日  1995年年ミッシェル・アンリが来日して日本橋東急百貨店と東京東横店で来日展を開催した。その年は大森のいずず自動車本社ビルのエントランスホールで日仏作家展が開催されミッシェル・アンリはフランス代表となった。この展示会のオープニングには森喜朗氏元通産大臣(後に総理大臣、おり5年ミッシェル・アンリが来日して、日本橋東急百貨店と東急東横百貨店でミッシェル・アンリ来日絵画展を開催した。その年は大森のいずず自動車本社ビルのエントランスホールで日仏作家展が開催されミッシェル・アンリはフランス代表となった。この展示会のオープニングには森喜朗氏元通産大臣(後に総理大臣、東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長)が主賓として招待され、フランス領事なども出席していた。森喜朗、ミッシェル・アンリ、駐東京フランス領事などがテープカットをした。森喜朗さんという人は結構配慮のある人で、ミッシェル・アンリにも親切にしてくれたが、当時から失言壁はあって<絵画の事はよくわからないのですが等>結構意味不明の事を言ったが通訳があまり優秀な人ではなかったので、フランス人ははじめから演説の内容を理解するのを、あきらめていたから、事なきをえた。 私は車で空港にミッシェル・アンリ、C女史とフランスの女流画家モニック・ジュールノーを迎えに行き、そのまま大森のいすゞ本社ビルに向かったが、フランス画壇の巨匠ミッシェル・アンリを車に乗せて、極度に緊張していて、右折禁止の場所で右折してしまい、運悪くパトカーが追いかけて来た。パトカーは中にフランス人が3人も乗っているのを見て<貴方もメンツがあるだろうから、今日はこのまま行って良い>と見逃してくれた。。ミッシェル・アンリは<自分の住んでる場所なのに、でも事故でなくて良かった>と少々不機嫌だった。私の頭の中は真っ白だった。 その翌日から、ミッシェル・アンリは日本橋東急百貨店と東急百貨店での展示会に出席してファンにサービスしてくれた。ミッシェル・アンリは巨匠のわりには気さくで、お客様への対応も丁寧で、百貨店の人やお客様にも喜ばれた。もちろん絵画もよく売れた。私が以前ミッシェル・アンリの絵画を販売していたマルク・エステル程高くない価格設定をしていたので、<君は良心的だ>とミッシェル・アンリは喜んだ。売り上げも満足のいくものだった。 当時の弊社の店舗ギャラリー・アデカにも来てくれて、キャラリーアデカのお客様にサイン会を開催した。弊社のお客様からも受けが良くて、売り上げも上がった。 私は来年も又別の百貨店でミッシェル・アンリの展示会を開催したいと思った。  

1995年ミッシェル・アンリ来日展:花を描くフランス巨匠画家

  ミッシェル・アンリの来日  1995年年ミッシェル・アンリが来日して日本橋東急百貨店と東京東横店で来日展を開催した。その年は大森のいずず自動車本社ビルのエントランスホールで日仏作家展が開催されミッシェル・アンリはフランス代表となった。この展示会のオープニングには森喜朗氏元通産大臣(後に総理大臣、おり5年ミッシェル・アンリが来日して、日本橋東急百貨店と東急東横百貨店でミッシェル・アンリ来日絵画展を開催した。その年は大森のいずず自動車本社ビルのエントランスホールで日仏作家展が開催されミッシェル・アンリはフランス代表となった。この展示会のオープニングには森喜朗氏元通産大臣(後に総理大臣、東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長)が主賓として招待され、フランス領事なども出席していた。森喜朗、ミッシェル・アンリ、駐東京フランス領事などがテープカットをした。森喜朗さんという人は結構配慮のある人で、ミッシェル・アンリにも親切にしてくれたが、当時から失言壁はあって<絵画の事はよくわからないのですが等>結構意味不明の事を言ったが通訳があまり優秀な人ではなかったので、フランス人ははじめから演説の内容を理解するのを、あきらめていたから、事なきをえた。 私は車で空港にミッシェル・アンリ、C女史とフランスの女流画家モニック・ジュールノーを迎えに行き、そのまま大森のいすゞ本社ビルに向かったが、フランス画壇の巨匠ミッシェル・アンリを車に乗せて、極度に緊張していて、右折禁止の場所で右折してしまい、運悪くパトカーが追いかけて来た。パトカーは中にフランス人が3人も乗っているのを見て<貴方もメンツがあるだろうから、今日はこのまま行って良い>と見逃してくれた。。ミッシェル・アンリは<自分の住んでる場所なのに、でも事故でなくて良かった>と少々不機嫌だった。私の頭の中は真っ白だった。 その翌日から、ミッシェル・アンリは日本橋東急百貨店と東急百貨店での展示会に出席してファンにサービスしてくれた。ミッシェル・アンリは巨匠のわりには気さくで、お客様への対応も丁寧で、百貨店の人やお客様にも喜ばれた。もちろん絵画もよく売れた。私が以前ミッシェル・アンリの絵画を販売していたマルク・エステル程高くない価格設定をしていたので、<君は良心的だ>とミッシェル・アンリは喜んだ。売り上げも満足のいくものだった。 当時の弊社の店舗ギャラリー・アデカにも来てくれて、キャラリーアデカのお客様にサイン会を開催した。弊社のお客様からも受けが良くて、売り上げも上がった。 私は来年も又別の百貨店でミッシェル・アンリの展示会を開催したいと思った。  

フランスの画商C女史がフランス絵画巨匠の画家ミッシェル・アンリを紹介してくれた=花を描く幸福の画家

フランスの画商C女史がフランス絵画巨匠の画家ミッシェル・アンリを紹介してくれた=花を描く幸福の画家

1991年にフランス人画商のC女史に初めて会った。東京でアート・エクスとがあり、彼女はフランスの画廊に雇われて来日していた。バブル景気の真っ最中で、いくつものフランスの画廊がこのアートエクスポに参加していた。私も会場で半日過ごした。幾つかの画廊と商談をして、名詞を渡しておいた。 金曜日にC女史が私に電話を掛けてきた。東京に誰も知り合いがいなくて、同僚は日本の画廊に招待されて週末観光に行くが、自分は誰にも招待されたいないが、東京見物がしたいとの事だ。仕方がないので、私は土曜だけ彼女を車で東京を案内する事にした。   翌朝10時頃銀座の東武ホテルで彼女をピックアップして、浜離宮、浅草、などを案内して、夜は横浜のチャイナタウンで夕食して、ホテルまで送ってあげた。彼女はとても喜んで、翌日成田から帰国した。その翌年、私がフランスに行った時にパリ郊外のバルビゾン(ミレーなどのバルビゾン派が住んで絵画制作をした所)に案内して画家を紹介してくれたり、その後私が日本での独占契約をする事になったフランス画壇の巨匠ミッシェル・アンリも紹介してくれた。 彼女の離婚した亭主は、エアーフランスのパイロットで当時付き合っていた彼氏もエアーフランスのパイロットなので、航空券が格安で入手できる。、その後は頻繁にフランスと日本を往復して、盛んに日本の画廊にフランス画家を紹介したり絵画版画を売っていたが、私とは余り取引が発生しなかった。他の日本の画廊と違って私はフランス語もできるしフランスの事情もよくわかるので彼女の仲介が必要なかったが、友人として助け合って仕事をした。彼女は日本がすっかり気に入って娘も日本に引っ張ってきて暫くの間日本に住ませていた。日本が世界経済の中で存在感があった時代の話だ。

フランスの画商C女史がフランス絵画巨匠の画家ミッシェル・アンリを紹介してくれた=花を描く幸福の画家

1991年にフランス人画商のC女史に初めて会った。東京でアート・エクスとがあり、彼女はフランスの画廊に雇われて来日していた。バブル景気の真っ最中で、いくつものフランスの画廊がこのアートエクスポに参加していた。私も会場で半日過ごした。幾つかの画廊と商談をして、名詞を渡しておいた。 金曜日にC女史が私に電話を掛けてきた。東京に誰も知り合いがいなくて、同僚は日本の画廊に招待されて週末観光に行くが、自分は誰にも招待されたいないが、東京見物がしたいとの事だ。仕方がないので、私は土曜だけ彼女を車で東京を案内する事にした。   翌朝10時頃銀座の東武ホテルで彼女をピックアップして、浜離宮、浅草、などを案内して、夜は横浜のチャイナタウンで夕食して、ホテルまで送ってあげた。彼女はとても喜んで、翌日成田から帰国した。その翌年、私がフランスに行った時にパリ郊外のバルビゾン(ミレーなどのバルビゾン派が住んで絵画制作をした所)に案内して画家を紹介してくれたり、その後私が日本での独占契約をする事になったフランス画壇の巨匠ミッシェル・アンリも紹介してくれた。 彼女の離婚した亭主は、エアーフランスのパイロットで当時付き合っていた彼氏もエアーフランスのパイロットなので、航空券が格安で入手できる。、その後は頻繁にフランスと日本を往復して、盛んに日本の画廊にフランス画家を紹介したり絵画版画を売っていたが、私とは余り取引が発生しなかった。他の日本の画廊と違って私はフランス語もできるしフランスの事情もよくわかるので彼女の仲介が必要なかったが、友人として助け合って仕事をした。彼女は日本がすっかり気に入って娘も日本に引っ張ってきて暫くの間日本に住ませていた。日本が世界経済の中で存在感があった時代の話だ。