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フランス絵画巨匠画家ミッシェル・アンリはフランス最高の勲章レジオン・ドヌール勲章を受章した数少...
1960年以降フランス画家で、フランス共和国大統領が授与する最高の勲章レジオン・ドヌール勲章を受章したのは、ミッシェル・アンリ、ベルナール・ビュッフェ、ベルナール・カトラン、アンドレ・ブラジリエ、ジャン・ジャンセンの5人のみだ。 レジオン・ドヌール作家5人の絵画↓ ベルナール・カトラン ベルナール・ビュッフェ アンドレ・ブラジリエ ジャン・ジャンセン⇓ レジオン・ドヌール勲章作家ミッシェル・アンリの絵画↓ 最近ワイズ・バッシュも受章したと聞いている。日本で人気の高いカシニョールもアイズピリも受章していない。フランス人画家に、レジオン・ドヌール勲章が授与されるのは、10年に一人ぐらいの割合だろう。私(ギャルリー亜出果)が世界一のコレクターで、20世紀フランスで国民的人気を誇って、南仏アンチーブと日本の軽井沢に美術館のあるレイモン・ペイネさえも、授与されたのは文化功労勲章であり、レジオン・ドヌール勲章ではない。 レジオン・ドヌール勲章について説明しておこう レジオン・ドヌール勲章は、1802年にナポレオン・ボナパルトによって創設された勲章で現在も引き継がれている。軍事、文化、科学、産業、商業、クリエーションなどでフランスに卓越した功績を残して人に与えられる。フランス共和国大統領がワンランク下の国家功労章と共に決定授与するフランス最高の勲章だ。歴代の大統領、首相も皆レジオン・ドヌール勲章を授与される。文化功労勲章は文部大臣が決定授与する。 現在のレジオン・ドヌール勲章左、ナポレオン時代の勲章右 フランスの勲章は、外国人にも授与されていて、日本人はフランスで高く評価されているので色々な人が受賞する。フランスは外交大国なので、戦争や威嚇よりも、友情と信頼関係を醸造する外交を重んじる。勲章を外国人に沢山授与するのも外交手段と思っている節があり、フランス人より外国人の方が、選考基準がゆるいかもしれないと、私は感じる。 レジオン・ドヌール勲章博物館↓ 最近の日本人では、建築家の安藤忠雄、映画監督の北野武監督などが以前に文部大臣から文化功労勲章を授与されたが、ごく最近に大統領からレジオン・ドヌール勲章を授与されている。漫画家の谷口ジローなどが、ヨーロッパで人気が高くて、文化功労勲章を受章しているが、レジオン・ドヌール勲章ではない。財界では、豊田自動車社長の豊田章夫社長の父で元社長の豊田章一郎、ソニーの盛田昭夫なども受章している。文化人では、大江健三郎、筒井康隆、小澤征爾、藤田嗣二(フランスに帰化)なども受章している。 レイジオン・ドヌール勲章受章の北野武と藤田嗣二 イギリスも叙勲制度があって、ビートルズのポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、初代007のショーン・コネレーなどが騎士の称号を授与され、て、名前の前にサーを付ける事になっている。 左からポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、 ショーン・コネリー レジオン・ドヌール勲章を授与されるとメダルを貰うが、いつもメダルを持ち歩くわけにいかないので、背広の襟に赤い1~2センチ程の細長い赤色の刺繍を縫い付ける。ミッシェル・アンリはどの背広にも、襟に1~2センチの赤い刺繍をしていた。 展示会の為来日して和食を楽しむミッシェル・アンリの襟に小さく赤い刺繍が見える ギャルリー亜出果と日本で独占契約していたミッシェル・アンリはフランスで10年に一人しでてこない巨匠画家だ。
フランス絵画巨匠画家ミッシェル・アンリはフランス最高の勲章レジオン・ドヌール勲章を受章した数少...
1960年以降フランス画家で、フランス共和国大統領が授与する最高の勲章レジオン・ドヌール勲章を受章したのは、ミッシェル・アンリ、ベルナール・ビュッフェ、ベルナール・カトラン、アンドレ・ブラジリエ、ジャン・ジャンセンの5人のみだ。 レジオン・ドヌール作家5人の絵画↓ ベルナール・カトラン ベルナール・ビュッフェ アンドレ・ブラジリエ ジャン・ジャンセン⇓ レジオン・ドヌール勲章作家ミッシェル・アンリの絵画↓ 最近ワイズ・バッシュも受章したと聞いている。日本で人気の高いカシニョールもアイズピリも受章していない。フランス人画家に、レジオン・ドヌール勲章が授与されるのは、10年に一人ぐらいの割合だろう。私(ギャルリー亜出果)が世界一のコレクターで、20世紀フランスで国民的人気を誇って、南仏アンチーブと日本の軽井沢に美術館のあるレイモン・ペイネさえも、授与されたのは文化功労勲章であり、レジオン・ドヌール勲章ではない。 レジオン・ドヌール勲章について説明しておこう レジオン・ドヌール勲章は、1802年にナポレオン・ボナパルトによって創設された勲章で現在も引き継がれている。軍事、文化、科学、産業、商業、クリエーションなどでフランスに卓越した功績を残して人に与えられる。フランス共和国大統領がワンランク下の国家功労章と共に決定授与するフランス最高の勲章だ。歴代の大統領、首相も皆レジオン・ドヌール勲章を授与される。文化功労勲章は文部大臣が決定授与する。 現在のレジオン・ドヌール勲章左、ナポレオン時代の勲章右 フランスの勲章は、外国人にも授与されていて、日本人はフランスで高く評価されているので色々な人が受賞する。フランスは外交大国なので、戦争や威嚇よりも、友情と信頼関係を醸造する外交を重んじる。勲章を外国人に沢山授与するのも外交手段と思っている節があり、フランス人より外国人の方が、選考基準がゆるいかもしれないと、私は感じる。 レジオン・ドヌール勲章博物館↓ 最近の日本人では、建築家の安藤忠雄、映画監督の北野武監督などが以前に文部大臣から文化功労勲章を授与されたが、ごく最近に大統領からレジオン・ドヌール勲章を授与されている。漫画家の谷口ジローなどが、ヨーロッパで人気が高くて、文化功労勲章を受章しているが、レジオン・ドヌール勲章ではない。財界では、豊田自動車社長の豊田章夫社長の父で元社長の豊田章一郎、ソニーの盛田昭夫なども受章している。文化人では、大江健三郎、筒井康隆、小澤征爾、藤田嗣二(フランスに帰化)なども受章している。 レイジオン・ドヌール勲章受章の北野武と藤田嗣二 イギリスも叙勲制度があって、ビートルズのポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、初代007のショーン・コネレーなどが騎士の称号を授与され、て、名前の前にサーを付ける事になっている。 左からポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、 ショーン・コネリー レジオン・ドヌール勲章を授与されるとメダルを貰うが、いつもメダルを持ち歩くわけにいかないので、背広の襟に赤い1~2センチ程の細長い赤色の刺繍を縫い付ける。ミッシェル・アンリはどの背広にも、襟に1~2センチの赤い刺繍をしていた。 展示会の為来日して和食を楽しむミッシェル・アンリの襟に小さく赤い刺繍が見える ギャルリー亜出果と日本で独占契約していたミッシェル・アンリはフランスで10年に一人しでてこない巨匠画家だ。
巨匠画家ミッシェル・アンリは、シャガールのパリのアトリエを引き継いだ
ミッシェル・アンリとエコール・ド・パリの画家マルク・シャガールのパリのアトリエ パリの画家ミッシェル・アンリのアトリエは戦前には、モンパルナスのエコール・ド・パリの画家マルクシャガールがアトリエ住居として使用していた。ロシアの革命家レーニンもパリ時代に住居にしていた。 アトリエの前に立つミッシェル・アンリ↓ パリの画家ミッシェル・アンリのアトリエは戦前には、モンパルナスのエコール・ド・パリの画家マルクシャガールがアトリエ住居として使用していた。ロシアの革命家レーニンもパリ時代に住居にしていた。 戦前のマルク・シャガールの写真↓ シャガールは、ウクライナやアメリカに住んだ時期以外は断続的に30年近く断続的にパリに住み、故郷ウクライナの伝統的な絵画の影響を濃厚に残す幻想駅な絵画描き、ムルロー工房で版画を制作した。 シャガールは、1950年から南フランスのニースに移り住んでその地で永眠した。。そのシャガールが戦前に住んでいたアトリエを戦後1950年代からミッシェル・アンリが引き継いで50年以上も住み続けた。 マルク・シャガールが描いたパリの風景画↓ ロシアの革命家レーニンも1910年~2年間程ミッシェル・アンリが住居にしていた建物に住み、1階のアトリエ部分でプラウダの原稿なども書いたことだろう。 ロシアの革命家レーニンの写真↓ 19世紀後半から20世紀初頭のパリで、右岸最北のモンマルトルの丘と左岸最南に近いモンパルナスに画家が集まった。ピカソ、ブラックがモンマルトルのBateau laboire(洗濯船)というアパートでキュビスム(立体派)の絵画的実験を繰り返して、キュビスム絵画や彫刻を創造したのは有名な話だ。 Bateau lavoir(洗濯船)の写真↓ モンパルナスはシャガール、藤田嗣二、モジリアニなどのエコール・ド・パリ(20世紀初頭にパリに住んで活躍した外国人作家の総称)の地で、La Ruche(蜂の巣)と言われる画家専用の集団アパート(アトリエ兼住宅)は今も残っている。 La Ruche(蜂の巣)の写真 ↓ マルク・シャガールは故郷ウクライナの伝統的な絵画の影響を濃厚に残こす幻想的な絵画を描き、1950年にコードダジュールのニースに移り済むまで断続的に、パリに30年近く住んでいた。そのシャガールが戦前に住んでいたアトリエを戦後1950年代からミッシェル・アンリが引き継いだ。 マルク・シャガールがパリの風景描いた絵↓...
巨匠画家ミッシェル・アンリは、シャガールのパリのアトリエを引き継いだ
ミッシェル・アンリとエコール・ド・パリの画家マルク・シャガールのパリのアトリエ パリの画家ミッシェル・アンリのアトリエは戦前には、モンパルナスのエコール・ド・パリの画家マルクシャガールがアトリエ住居として使用していた。ロシアの革命家レーニンもパリ時代に住居にしていた。 アトリエの前に立つミッシェル・アンリ↓ パリの画家ミッシェル・アンリのアトリエは戦前には、モンパルナスのエコール・ド・パリの画家マルクシャガールがアトリエ住居として使用していた。ロシアの革命家レーニンもパリ時代に住居にしていた。 戦前のマルク・シャガールの写真↓ シャガールは、ウクライナやアメリカに住んだ時期以外は断続的に30年近く断続的にパリに住み、故郷ウクライナの伝統的な絵画の影響を濃厚に残す幻想駅な絵画描き、ムルロー工房で版画を制作した。 シャガールは、1950年から南フランスのニースに移り住んでその地で永眠した。。そのシャガールが戦前に住んでいたアトリエを戦後1950年代からミッシェル・アンリが引き継いで50年以上も住み続けた。 マルク・シャガールが描いたパリの風景画↓ ロシアの革命家レーニンも1910年~2年間程ミッシェル・アンリが住居にしていた建物に住み、1階のアトリエ部分でプラウダの原稿なども書いたことだろう。 ロシアの革命家レーニンの写真↓ 19世紀後半から20世紀初頭のパリで、右岸最北のモンマルトルの丘と左岸最南に近いモンパルナスに画家が集まった。ピカソ、ブラックがモンマルトルのBateau laboire(洗濯船)というアパートでキュビスム(立体派)の絵画的実験を繰り返して、キュビスム絵画や彫刻を創造したのは有名な話だ。 Bateau lavoir(洗濯船)の写真↓ モンパルナスはシャガール、藤田嗣二、モジリアニなどのエコール・ド・パリ(20世紀初頭にパリに住んで活躍した外国人作家の総称)の地で、La Ruche(蜂の巣)と言われる画家専用の集団アパート(アトリエ兼住宅)は今も残っている。 La Ruche(蜂の巣)の写真 ↓ マルク・シャガールは故郷ウクライナの伝統的な絵画の影響を濃厚に残こす幻想的な絵画を描き、1950年にコードダジュールのニースに移り済むまで断続的に、パリに30年近く住んでいた。そのシャガールが戦前に住んでいたアトリエを戦後1950年代からミッシェル・アンリが引き継いだ。 マルク・シャガールがパリの風景描いた絵↓...
フランス絵画の巨匠ミッシェルとオリジナル版画<シルクスクリーン>を共同制作して展示会を開催
2000年にミッシェル・アンリが私にオリジナルリトグラフの独占制作権と日本での彼の作品の独占販売権を認めてくれた。 ここでシルクスクリーンという版画の技法について説明しておこう。シルクスクリーンは孔版画の技法の一種で、一言でいえば、絹の布の網目から色を染み出させてその色を紙や布に移し取る技法の事だ。 元は絹が使われていただが現在は絹を使う事は無く、様々のやり方で穴の開いたスクリーンから染み出させた色を紙に移しとる技法をシルクスクリーン、スクリーンプリント、セリグラフと呼ぶ、芸術分野ではシルクスクリーの名前が一般的に使われるので、ここでもシルクスクリーンの名前を採用した。 シルクスクリーン工房の作業風景 シルクスクリーンから沁み出る色を紙に擦り付ける作業↓ シルクスクリーンの技法は20世紀初頭イギリスで発明されて、商業分野で使用されたが、1960年代にアメリカのアンディー・ウオーホルやロイ・リキテンシュタインがオリジナルシルクスクリーンを制作して以来アートの技法となって、アメリカやイスラエルのアート専門のシルクスクリーン工房が有名になった。 アンディ・ウオーホルのシルクスクリーン作品 マリリンモンロー↓ シルクスクリーンは色を厚塗りできる技法だ。ミッシェル・アンリはマチエール(絵具の形としての造形的な美しさ)が際立って美しい画家なので、シルクスクリーンで色彩のみでなく絵具のマチエールも表現できる。 つまり、ミッシェル・アンリの油彩の魅力を表現するには、シルクスクリーンの方がリトグラフより適している。リトグラフは石版の上に塗った色を移し取るが、薄くしか色を乗せる事ができない。 ミッシェル・アンリとギャルリー亜出果共同制作 ミミッシェル・アンリのオリジナルシルクスクリーン<ローマの窓辺>↓ パリの版画販売会社ギャラリーFAのGと一緒に4作品制作する事になった。以前に日本の版画卸業者制作したオリジナルリトグラフは6~8号サイズで全部で6作制作したが、今回のオリジナルセリグラフはその倍のサイズ大体12~16号サイズだ。200部限定で4作品制作して、私が各100部Gが100部を引き受ける事となった。 ギャルリー亜出果xミッシェル・アンリ共同制作 オリジナルシルクスクリーン<カリフォルニアのポピー>↓ フランスは19世紀以来オリジナルリトグラフの歴史があり、ロートレック、ミュシャ、ローランサン、シャガール、ピカソ、ルオー、ミロなど有名な作家がリトグラフを制作して、質の高いリトグラフの工房はあるが、シルクスクリーンの工房の質は高くない。 パリのリトグラフ工房 1980年代にパリの画商がミッシェル・アンリのオリジナルシルクスクリーンを制作した時と同じイスラエルの工房に制作を依頼した。 ミッシェル・アンリもイスラエルに行った。その工房はドイツのフランクフルトのショーに出展するので、私も会いに行った。その後工房のオーナー夫妻が来日して打ち合わせもした。 ギャルリー亜出果とミッシェル・アンリ共同制作 イスラエルの工房で鉛筆でサインを入れるミッシェル・アンリシルクスクリーン<ベニスのコクリコ>現在は売り切れ 制作した作品は「パリのアート橋」、「ローマの窓辺」、「ベニスのコクリコ」、「ベニスのブーケ」だ。流石に質の良い作品に仕上がって、ミッシェル・アンリ、パリの画廊FAのGも私もだった。 池袋三越でのミッシェル・アンリの展示会に早速展示して大好評だった これらのミッシェル・アンリオリジナル版画<シルクスクリーン>は有名百貨店での展示会でも購入できると同時に弊社サイトでも購入可能だ。 弊社が直接画家と共同で制作して、作家が自筆でサインを入れた新品作品だから安心して購入頂ける。私の目の前でサインを入れた作品だ。 絵画版画はリサイクルされた作品も市場に出回っているので、弊社のサイトで新品を購入される事をお勧めしたい。他で見かける事があれば、弊社にお問い合わせ頂けば、その作品が弊社の制作の新品かそれとも、リサイクル商品か調査できるので、お気軽にご連絡あれ。
フランス絵画の巨匠ミッシェルとオリジナル版画<シルクスクリーン>を共同制作して展示会を開催
2000年にミッシェル・アンリが私にオリジナルリトグラフの独占制作権と日本での彼の作品の独占販売権を認めてくれた。 ここでシルクスクリーンという版画の技法について説明しておこう。シルクスクリーンは孔版画の技法の一種で、一言でいえば、絹の布の網目から色を染み出させてその色を紙や布に移し取る技法の事だ。 元は絹が使われていただが現在は絹を使う事は無く、様々のやり方で穴の開いたスクリーンから染み出させた色を紙に移しとる技法をシルクスクリーン、スクリーンプリント、セリグラフと呼ぶ、芸術分野ではシルクスクリーの名前が一般的に使われるので、ここでもシルクスクリーンの名前を採用した。 シルクスクリーン工房の作業風景 シルクスクリーンから沁み出る色を紙に擦り付ける作業↓ シルクスクリーンの技法は20世紀初頭イギリスで発明されて、商業分野で使用されたが、1960年代にアメリカのアンディー・ウオーホルやロイ・リキテンシュタインがオリジナルシルクスクリーンを制作して以来アートの技法となって、アメリカやイスラエルのアート専門のシルクスクリーン工房が有名になった。 アンディ・ウオーホルのシルクスクリーン作品 マリリンモンロー↓ シルクスクリーンは色を厚塗りできる技法だ。ミッシェル・アンリはマチエール(絵具の形としての造形的な美しさ)が際立って美しい画家なので、シルクスクリーンで色彩のみでなく絵具のマチエールも表現できる。 つまり、ミッシェル・アンリの油彩の魅力を表現するには、シルクスクリーンの方がリトグラフより適している。リトグラフは石版の上に塗った色を移し取るが、薄くしか色を乗せる事ができない。 ミッシェル・アンリとギャルリー亜出果共同制作 ミミッシェル・アンリのオリジナルシルクスクリーン<ローマの窓辺>↓ パリの版画販売会社ギャラリーFAのGと一緒に4作品制作する事になった。以前に日本の版画卸業者制作したオリジナルリトグラフは6~8号サイズで全部で6作制作したが、今回のオリジナルセリグラフはその倍のサイズ大体12~16号サイズだ。200部限定で4作品制作して、私が各100部Gが100部を引き受ける事となった。 ギャルリー亜出果xミッシェル・アンリ共同制作 オリジナルシルクスクリーン<カリフォルニアのポピー>↓ フランスは19世紀以来オリジナルリトグラフの歴史があり、ロートレック、ミュシャ、ローランサン、シャガール、ピカソ、ルオー、ミロなど有名な作家がリトグラフを制作して、質の高いリトグラフの工房はあるが、シルクスクリーンの工房の質は高くない。 パリのリトグラフ工房 1980年代にパリの画商がミッシェル・アンリのオリジナルシルクスクリーンを制作した時と同じイスラエルの工房に制作を依頼した。 ミッシェル・アンリもイスラエルに行った。その工房はドイツのフランクフルトのショーに出展するので、私も会いに行った。その後工房のオーナー夫妻が来日して打ち合わせもした。 ギャルリー亜出果とミッシェル・アンリ共同制作 イスラエルの工房で鉛筆でサインを入れるミッシェル・アンリシルクスクリーン<ベニスのコクリコ>現在は売り切れ 制作した作品は「パリのアート橋」、「ローマの窓辺」、「ベニスのコクリコ」、「ベニスのブーケ」だ。流石に質の良い作品に仕上がって、ミッシェル・アンリ、パリの画廊FAのGも私もだった。 池袋三越でのミッシェル・アンリの展示会に早速展示して大好評だった これらのミッシェル・アンリオリジナル版画<シルクスクリーン>は有名百貨店での展示会でも購入できると同時に弊社サイトでも購入可能だ。 弊社が直接画家と共同で制作して、作家が自筆でサインを入れた新品作品だから安心して購入頂ける。私の目の前でサインを入れた作品だ。 絵画版画はリサイクルされた作品も市場に出回っているので、弊社のサイトで新品を購入される事をお勧めしたい。他で見かける事があれば、弊社にお問い合わせ頂けば、その作品が弊社の制作の新品かそれとも、リサイクル商品か調査できるので、お気軽にご連絡あれ。
シャンゼリゼ通りのパリの名所グラン・パレの修復とフランス絵画巨匠ミッシェル・アンリのサロン・ド...
グラン・パレ↓ グラン・パレ内部<光を取り込むガラスの天井が印象的> パリの名所グラン・パレについて説明しておこう。 グラン・パレ(大宮殿)は1900年パリ万博の展示場として建築された。セーヌ川とシャンゼリゼ通りに挟まれて、向かいのプチ・パレ(小宮殿)と一対で建築された。グラン・パレは万博後は、グランパレ・ナショナル・ギャラリーとして様々の大規模な展示会の会場となった。美術品を自然の光で見られるように、グラン・パレの天井はガラス張りになっている。 プチ・パレはパリ市立美術館となり美術品とクラシック家具が常設展示されていまる。 プチ・パレ↓ プチ・パレの華麗なエントランス↓ グラン・パレと対岸のエッフェル塔を結ぶアレクサンドル三世橋もセーヌ川の上に建築された。アレクサンドル三世橋はアールヌーボーの街灯や黄金色に輝く欄干の上の天使などの彫刻が施された、パリで最も華麗な橋である。 パリのセーヌ川に掛かるアレクサンドル三世橋↓ <橋の向こうに見えるガラス張りの屋根がグラン・パレ> 上記のサイトから購入できるミッシェル・アンリのオリジナル版画の構図と上記写真の構図を見比べてください。美しいパリのグラン・パレを身近に楽しんでください。 フランス絵画の巨匠ミッシェル・アンリとグラン・パレはどう結びつくのか? ミッシェル・アンリは永年に渡り、サロン・ドトンヌ(秋のサロン)の役員を勤め、1983年から事務局長、1990年からは副会長を勤めていた。 サロン・ドトンヌはフランスの17世紀のフランス王立サロンの流れを汲むル・サロン(フランス芸術家協会公募展)、国民美術協会などと並び称されるフランスの名門サロン(公募展)の一つでル・サロンが春に開催され保守的な傾向を示しているのに対抗して前衛的な秋のサロンとして1904年のから開催されている。ルオー、マチス、ピカビア、ボナールなどが出展して始まった。 ミッシェル・アンリとサロン・ドトンヌ会長のマッカーボーイがイランで開催されたサロン・ドトンヌに来場したイラン国王と王妃を迎えている。↓ フランス共和国は芸術を多分野に渡る重要産業と考えているので、フランス芸術家協会、サロン・ドトンヌ、国民美術協会、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・ドコンパレゾンにも無料で会場を提供すると同時にグラン・パレ内に無料で事務所も提供していた。 ミッシェル・アンリとサロン・ドトンヌに来場しシラク・フランス共和国大統領↓ それぞれの美術団体がサロン(公募展示会)を開催して多くの画商はファンが来場し商談や販売の機会を提供していた。ところが、1993年にグランパレの屋根が落下してグランパレは閉鎖された。 落下の原因を調べたところ土台部分が脆くなっているのが発見された。グランパレはセーヌ川のほとりに建築されている為、セーヌ川の水が建物の土台に浸透して、適度な湿り気を与えていたが、高速道路の工事によって使われたコンクリートがセーヌ川からの水の浸透を遮断した為、土台の石は乾燥して脆く壊れやすくなったのが原因と聞いている。 ミッシェル・アンリとサロン・ドトンヌに来場したバラデュール首相首相夫人1993年↓ グラン・パレは再度オープンしたのは2003年なので、実に改修工事に10年以上の歳月をかけた。 グランパレの閉鎖により、各サロンは展示会場の確保が難しくなり、画家達が大きなダメージを被った。会員の画家達は次第に会から離れ、衰退していく過程で役員の有名画家達も退会して無名の画家ばかりが残る状態となった。私も1995年のサロン・ドトンヌを見に行ったがエッフェル塔の近くにテントの会場で開催していた。...
シャンゼリゼ通りのパリの名所グラン・パレの修復とフランス絵画巨匠ミッシェル・アンリのサロン・ド...
グラン・パレ↓ グラン・パレ内部<光を取り込むガラスの天井が印象的> パリの名所グラン・パレについて説明しておこう。 グラン・パレ(大宮殿)は1900年パリ万博の展示場として建築された。セーヌ川とシャンゼリゼ通りに挟まれて、向かいのプチ・パレ(小宮殿)と一対で建築された。グラン・パレは万博後は、グランパレ・ナショナル・ギャラリーとして様々の大規模な展示会の会場となった。美術品を自然の光で見られるように、グラン・パレの天井はガラス張りになっている。 プチ・パレはパリ市立美術館となり美術品とクラシック家具が常設展示されていまる。 プチ・パレ↓ プチ・パレの華麗なエントランス↓ グラン・パレと対岸のエッフェル塔を結ぶアレクサンドル三世橋もセーヌ川の上に建築された。アレクサンドル三世橋はアールヌーボーの街灯や黄金色に輝く欄干の上の天使などの彫刻が施された、パリで最も華麗な橋である。 パリのセーヌ川に掛かるアレクサンドル三世橋↓ <橋の向こうに見えるガラス張りの屋根がグラン・パレ> 上記のサイトから購入できるミッシェル・アンリのオリジナル版画の構図と上記写真の構図を見比べてください。美しいパリのグラン・パレを身近に楽しんでください。 フランス絵画の巨匠ミッシェル・アンリとグラン・パレはどう結びつくのか? ミッシェル・アンリは永年に渡り、サロン・ドトンヌ(秋のサロン)の役員を勤め、1983年から事務局長、1990年からは副会長を勤めていた。 サロン・ドトンヌはフランスの17世紀のフランス王立サロンの流れを汲むル・サロン(フランス芸術家協会公募展)、国民美術協会などと並び称されるフランスの名門サロン(公募展)の一つでル・サロンが春に開催され保守的な傾向を示しているのに対抗して前衛的な秋のサロンとして1904年のから開催されている。ルオー、マチス、ピカビア、ボナールなどが出展して始まった。 ミッシェル・アンリとサロン・ドトンヌ会長のマッカーボーイがイランで開催されたサロン・ドトンヌに来場したイラン国王と王妃を迎えている。↓ フランス共和国は芸術を多分野に渡る重要産業と考えているので、フランス芸術家協会、サロン・ドトンヌ、国民美術協会、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・ドコンパレゾンにも無料で会場を提供すると同時にグラン・パレ内に無料で事務所も提供していた。 ミッシェル・アンリとサロン・ドトンヌに来場しシラク・フランス共和国大統領↓ それぞれの美術団体がサロン(公募展示会)を開催して多くの画商はファンが来場し商談や販売の機会を提供していた。ところが、1993年にグランパレの屋根が落下してグランパレは閉鎖された。 落下の原因を調べたところ土台部分が脆くなっているのが発見された。グランパレはセーヌ川のほとりに建築されている為、セーヌ川の水が建物の土台に浸透して、適度な湿り気を与えていたが、高速道路の工事によって使われたコンクリートがセーヌ川からの水の浸透を遮断した為、土台の石は乾燥して脆く壊れやすくなったのが原因と聞いている。 ミッシェル・アンリとサロン・ドトンヌに来場したバラデュール首相首相夫人1993年↓ グラン・パレは再度オープンしたのは2003年なので、実に改修工事に10年以上の歳月をかけた。 グランパレの閉鎖により、各サロンは展示会場の確保が難しくなり、画家達が大きなダメージを被った。会員の画家達は次第に会から離れ、衰退していく過程で役員の有名画家達も退会して無名の画家ばかりが残る状態となった。私も1995年のサロン・ドトンヌを見に行ったがエッフェル塔の近くにテントの会場で開催していた。...
1996年ミッシェル・アンリの来日
前年1995年には、初めてミッシェル・アンリを日本に招待して日本橋東急百貨店と東急東横百貨店でミッシェル・アンリの来日展を開催すると同時に、7月に軽井沢プリンスショッピングプラザがオープンして弊社もそこに、ギャラリーヴァンドフランスを出展した。弊社にとっては、その後の20年に向けて画期的な年となった。 私は1996年もミッシェル・アンリに来日してもらおうと思っていたが、11月には、ミッシェル・アンリが副会長を勤めていたサローン・ドートンヌの11月開催と重なって予定の調整に随分手間取った。 コルシカ島の中心のカルヴィ市がカルヴィ現代アート展を毎年開催する事になりミッシェル・アンリがそのアート展の会長に就任して第1回カルヴィ現代アート展が開催される事になりその日程調整も入ってきた。 百貨店の展示会は一年~半年以上前に会期を含めて企画を決定して準備を始める。春になってもミッシェル・アンリから来日の返事は来なかった。私は、5月にパリに行き、ミッシェル・アンリに会った。 ミッシェル・アンリは日本は気に入っていて、私の仕事の仕事ぶりも高く評価してくれていたので、まずは安心した。私はミッシェル・アンリの絵画は同僚のビュッフェや後輩のカシニョールよりクオリティが高いと思っていた。 ビュッフェやカシニョールは1970年代からパリに画廊を持っている為永画廊やフランスの版画制作会社のビジョン・ヌーベルの日本代理店をが日本に入れていた。その頃はミッシェル・アンリはパリの為永画廊の隣のアメリカのフィンドレー画廊の専属画家で、毎年アメリカにばかり行っていたため為永画廊もビジョン・ヌーベルもミッシェル・アンリを扱わなかった。日本ではビュッフェやカシニョール程有名ではなかった。 私はミッシェル・アンリの価値を日本人に認めさせたいと思っていた。ミッシェル・アンリは頭の良い人でビジネスの事にも理解があるので、私の熱意を実現するため、毎年来日して協力したいと言った。 ミッシェル・アンリの絵画は全ての絵画的な要素において優れている。 1:構図:絵画は非常に大きくと安定感のある古典的な構図で描いている。 2:色彩:原色に近い輝きのある色彩をバランス良く使っているので、色彩が輝きを失わない。同系色を幾重にも重ねてもそれぞれの色が美しい。赤、黄色、ブルー、緑、茶色と様々の色を支配色として描く事が出来、色彩に透明感と宝石のような輝きを与える。つまり、様々な色彩を使いこなせる。ある時、ミッシェル・アンリの先生の社プラン・ミディはミッシェル・アンリが赤を明るい色彩として(普通赤は暗い色彩と考えられている)使用しているのを見て、「ミッシェル・アンリは私を越えた」と言った。ビュッフェはデッサンと単純化された一種漫画のような、表現に特徴があるが、色彩は表現は貧しい。 3:マチエール:マチエールは絵筆の軌跡、絵画の肌の事だ。タッチとはまた別の概念だ。カシニョールやビュッフェはマチエールを余り感じさせない表面がフラットな絵画を描く。日本画なども同じように表面がフラットなので、日本画を見慣れている日本人には、マチエール感が無いカシニョールやビュッフェの絵画に余り違和感がないが、印象派以降の西洋の絵画を見慣れている人には、物足りない。ミッシェル・アンリは美しいマチエールを付ける。 4:意図:絵画は画家の意図によって描かれる。芸術家は常に、自分が何を創造して、見ている人に何を感じて欲しいのか、自分が何を表現したいのかを意識してアートを組み立てる。それがなければ、デッサンをし絵具を付けているだけの機械的な作業だ。芸術家の職人の違いはそこにある。ミッシェル・アンリの絵画には意図する美しさがある。それぞれの絵画で千差万別なので一言で表す事が出来ないが、それぞれの絵画が特徴のある美しさを感じさせる。それは、画家自身がインスピレーションを得、意図し、工夫し、試みた結果として表現される。 つまり、ミッシェル・アンリの絵画は全ての絵画的要素が卓越している。 ミッシェル・アンリと親密に話して、彼は、私が如何に彼の絵画を正確に理解しているかを知ってさらに私を信頼してくた。 日程調整をして連絡するとのミッシェル・アンリの言葉を得てパリを後にした。 7月にミッシェル・アンリから連絡があり11月の来日が決定したが、ミッシェル・アンリの来日迄4月しかなく、百貨店での企画は難しい。ミッシェル・アンリは日本に来るために、サローン・ドートンヌの副会長を辞任したらしい。 今年はサンシャインのギャラリーアデカ、軽井沢プリンスショッピングプラザのギャラリーヴァンドフランスと千葉パルコで展示会を開催する事とした。
1996年ミッシェル・アンリの来日
前年1995年には、初めてミッシェル・アンリを日本に招待して日本橋東急百貨店と東急東横百貨店でミッシェル・アンリの来日展を開催すると同時に、7月に軽井沢プリンスショッピングプラザがオープンして弊社もそこに、ギャラリーヴァンドフランスを出展した。弊社にとっては、その後の20年に向けて画期的な年となった。 私は1996年もミッシェル・アンリに来日してもらおうと思っていたが、11月には、ミッシェル・アンリが副会長を勤めていたサローン・ドートンヌの11月開催と重なって予定の調整に随分手間取った。 コルシカ島の中心のカルヴィ市がカルヴィ現代アート展を毎年開催する事になりミッシェル・アンリがそのアート展の会長に就任して第1回カルヴィ現代アート展が開催される事になりその日程調整も入ってきた。 百貨店の展示会は一年~半年以上前に会期を含めて企画を決定して準備を始める。春になってもミッシェル・アンリから来日の返事は来なかった。私は、5月にパリに行き、ミッシェル・アンリに会った。 ミッシェル・アンリは日本は気に入っていて、私の仕事の仕事ぶりも高く評価してくれていたので、まずは安心した。私はミッシェル・アンリの絵画は同僚のビュッフェや後輩のカシニョールよりクオリティが高いと思っていた。 ビュッフェやカシニョールは1970年代からパリに画廊を持っている為永画廊やフランスの版画制作会社のビジョン・ヌーベルの日本代理店をが日本に入れていた。その頃はミッシェル・アンリはパリの為永画廊の隣のアメリカのフィンドレー画廊の専属画家で、毎年アメリカにばかり行っていたため為永画廊もビジョン・ヌーベルもミッシェル・アンリを扱わなかった。日本ではビュッフェやカシニョール程有名ではなかった。 私はミッシェル・アンリの価値を日本人に認めさせたいと思っていた。ミッシェル・アンリは頭の良い人でビジネスの事にも理解があるので、私の熱意を実現するため、毎年来日して協力したいと言った。 ミッシェル・アンリの絵画は全ての絵画的な要素において優れている。 1:構図:絵画は非常に大きくと安定感のある古典的な構図で描いている。 2:色彩:原色に近い輝きのある色彩をバランス良く使っているので、色彩が輝きを失わない。同系色を幾重にも重ねてもそれぞれの色が美しい。赤、黄色、ブルー、緑、茶色と様々の色を支配色として描く事が出来、色彩に透明感と宝石のような輝きを与える。つまり、様々な色彩を使いこなせる。ある時、ミッシェル・アンリの先生の社プラン・ミディはミッシェル・アンリが赤を明るい色彩として(普通赤は暗い色彩と考えられている)使用しているのを見て、「ミッシェル・アンリは私を越えた」と言った。ビュッフェはデッサンと単純化された一種漫画のような、表現に特徴があるが、色彩は表現は貧しい。 3:マチエール:マチエールは絵筆の軌跡、絵画の肌の事だ。タッチとはまた別の概念だ。カシニョールやビュッフェはマチエールを余り感じさせない表面がフラットな絵画を描く。日本画なども同じように表面がフラットなので、日本画を見慣れている日本人には、マチエール感が無いカシニョールやビュッフェの絵画に余り違和感がないが、印象派以降の西洋の絵画を見慣れている人には、物足りない。ミッシェル・アンリは美しいマチエールを付ける。 4:意図:絵画は画家の意図によって描かれる。芸術家は常に、自分が何を創造して、見ている人に何を感じて欲しいのか、自分が何を表現したいのかを意識してアートを組み立てる。それがなければ、デッサンをし絵具を付けているだけの機械的な作業だ。芸術家の職人の違いはそこにある。ミッシェル・アンリの絵画には意図する美しさがある。それぞれの絵画で千差万別なので一言で表す事が出来ないが、それぞれの絵画が特徴のある美しさを感じさせる。それは、画家自身がインスピレーションを得、意図し、工夫し、試みた結果として表現される。 つまり、ミッシェル・アンリの絵画は全ての絵画的要素が卓越している。 ミッシェル・アンリと親密に話して、彼は、私が如何に彼の絵画を正確に理解しているかを知ってさらに私を信頼してくた。 日程調整をして連絡するとのミッシェル・アンリの言葉を得てパリを後にした。 7月にミッシェル・アンリから連絡があり11月の来日が決定したが、ミッシェル・アンリの来日迄4月しかなく、百貨店での企画は難しい。ミッシェル・アンリは日本に来るために、サローン・ドートンヌの副会長を辞任したらしい。 今年はサンシャインのギャラリーアデカ、軽井沢プリンスショッピングプラザのギャラリーヴァンドフランスと千葉パルコで展示会を開催する事とした。
私(ギャルリー亜出果)とフランス画壇の巨匠ミッシェル・アンリがオリジナルリトグラフを共同制作し...
1995年からミッシェル・アンリを日本に招き、ミッシェル・アンリ来日展を展示会を開催した。展示会の1会場に20点~30点ぐらいは作品が必要だ。 1998年ギャルリー亜出果版元発売元Xミッシェル・アンリ共同制作 「黄色いブーケ」オリジナルリトグラフ 作家自筆サイン入り限定部数入↓ リトグラフの技法について説明しておこう。 18世紀末に発明され19世紀にヨーロッパで盛んになった印刷技法で、芸術家もリトグラフの技法を使って沢山の名作を生み出した。 水を吸いやすい石版の上に油性のデッサンクレヨンでデッサンして、その石販の上を水のついたローラーでなぞりデッサンしていない部分に水分を付着させる。次に油性の色インキを付けたローラーを転がしてその色を石販に付着させて、その付着した色を紙に移し取る。同じ作業を使用する色彩の数だけ繰り返してリトグラフ版画は完成する。 パリのリトグラフ工房制作風景↓ ミッシェル・アンリのオリジナルリトグラフの制作と展示会 ミッシェル・アンリが来日する場合は4会場で展示会をしたい。単純計算すると30(20)x4=80点~120点の作品が必要だ。それだけの量の油彩を用意するのは不可能だ。 そこで版画の出番となる。版画は数十枚から数百枚製作して、限定部数とそれぞれの版画のID番号を入れると同時に作家がサインする。 1996年に日本の版画卸の業者が連絡してきた。ミッシェル・アンリのリトグラフを一緒に制作しないかとの誘いだった。 私は版画のヴァリエーションがあると助かるので、一緒に作る事にした。もちろん、パリの工房でミッシェル・アンリが制作にあたり、版画が出来上がったらミッシェルアンリがサインを入れる。 1998年ギャルリー亜出果版元発売元Xミッシェル・アンリ共同制作<赤いーケ> オリジナルリトグラフ 作家自筆サイン限定部数入↓ 大体200部から250部限定が一般的だ。6号~8号サイズぐらいの花の版画2種類を200部限定で作る事にした。私は50部もあれば十分なので、卸業者が150部と私が50部で話が付いた。 出来上がったのは翌年の1997年だった。当然1997年以降の展示会には弊社とミッシェル・アンリが共同制作して、ミッシェル・アンリが自筆サインしたオリジナルリトグラフの展示して多いに売れた。 1998年プランタン銀座でのミッシェル・アンリ来日展にその作品も展示した↓ 来日したミッシェル・アンリと私 評判が良くて、卸業者も喜んだので、翌年は4種類を制作した。やはり、私が50部引き取って、卸業者が150部引き受けた。 日本の業者と揉め事が起こった 卸業者は、毎年4作づつ制作するつもりにしていたが、そこに大事件が起こった。 2000年はキリスト教国ではミレニアムで大変な年だ。キリストの生誕2000年祭だ。その前は1000年前だったから、1000年に一度のめでたい年だ。オリンピックどころではない。 私達が制作を依頼していたパリの版画工房が随分張り切ってミッシェル・アンリパリ2000というパリの風景と花のミッシェル・アンリの20点の版画セットを制作して発売した。2000年なのでパリの名所20ケ所を版画にしたのだ。 日本の卸業者は怒った。自分達が仕事を依頼していた業者に裏をかかれた形になったのだ。一般的に工房は版元の依頼を受けて、版画を制作するのが仕事なので、工房が版元になる事はない。日本の卸業者は、もうミッシェル・アンリとは仕事をしないと言い出した。 1998年ギャルリー亜出果版元発売元Xミッシェル・アンリ共同制作<ブーケパナッシェ>オリジナルリトグラフ 作家自筆サイン限定部数入↓ 私も、彼が怒るのは理解できたし、業者も私達に相談しても良かったかと思った。けれども、ミッシェル・アンリと独占契約をしていたわけではないから、あまり怒らなくても良いと思った。私達以前にも、フランスの業者がミッシェル・アンリの他のリトグラフを製作している。私もそれらのリトグラフを買って展示会で販売していた。 ミッシェルアンリは、フランスでもアメリカでも人気作家だ。日本とフランスでは考え方も商習慣も違うし、日本の常識は世界の非常識を言う言葉もある。 私は、ミッシェル・アンリの絵画が好きだし、ミッシェル・アンリはフランス画壇の巨匠で人気作家、大作家だ。サローン・ドートンヌの副会長でフランス最高の勲章レジオン・ドヌール勲章も受章して彼の展示会には当時のシラク大統領夫妻も来場するフランスの宝のような画家だ。...
私(ギャルリー亜出果)とフランス画壇の巨匠ミッシェル・アンリがオリジナルリトグラフを共同制作し...
1995年からミッシェル・アンリを日本に招き、ミッシェル・アンリ来日展を展示会を開催した。展示会の1会場に20点~30点ぐらいは作品が必要だ。 1998年ギャルリー亜出果版元発売元Xミッシェル・アンリ共同制作 「黄色いブーケ」オリジナルリトグラフ 作家自筆サイン入り限定部数入↓ リトグラフの技法について説明しておこう。 18世紀末に発明され19世紀にヨーロッパで盛んになった印刷技法で、芸術家もリトグラフの技法を使って沢山の名作を生み出した。 水を吸いやすい石版の上に油性のデッサンクレヨンでデッサンして、その石販の上を水のついたローラーでなぞりデッサンしていない部分に水分を付着させる。次に油性の色インキを付けたローラーを転がしてその色を石販に付着させて、その付着した色を紙に移し取る。同じ作業を使用する色彩の数だけ繰り返してリトグラフ版画は完成する。 パリのリトグラフ工房制作風景↓ ミッシェル・アンリのオリジナルリトグラフの制作と展示会 ミッシェル・アンリが来日する場合は4会場で展示会をしたい。単純計算すると30(20)x4=80点~120点の作品が必要だ。それだけの量の油彩を用意するのは不可能だ。 そこで版画の出番となる。版画は数十枚から数百枚製作して、限定部数とそれぞれの版画のID番号を入れると同時に作家がサインする。 1996年に日本の版画卸の業者が連絡してきた。ミッシェル・アンリのリトグラフを一緒に制作しないかとの誘いだった。 私は版画のヴァリエーションがあると助かるので、一緒に作る事にした。もちろん、パリの工房でミッシェル・アンリが制作にあたり、版画が出来上がったらミッシェルアンリがサインを入れる。 1998年ギャルリー亜出果版元発売元Xミッシェル・アンリ共同制作<赤いーケ> オリジナルリトグラフ 作家自筆サイン限定部数入↓ 大体200部から250部限定が一般的だ。6号~8号サイズぐらいの花の版画2種類を200部限定で作る事にした。私は50部もあれば十分なので、卸業者が150部と私が50部で話が付いた。 出来上がったのは翌年の1997年だった。当然1997年以降の展示会には弊社とミッシェル・アンリが共同制作して、ミッシェル・アンリが自筆サインしたオリジナルリトグラフの展示して多いに売れた。 1998年プランタン銀座でのミッシェル・アンリ来日展にその作品も展示した↓ 来日したミッシェル・アンリと私 評判が良くて、卸業者も喜んだので、翌年は4種類を制作した。やはり、私が50部引き取って、卸業者が150部引き受けた。 日本の業者と揉め事が起こった 卸業者は、毎年4作づつ制作するつもりにしていたが、そこに大事件が起こった。 2000年はキリスト教国ではミレニアムで大変な年だ。キリストの生誕2000年祭だ。その前は1000年前だったから、1000年に一度のめでたい年だ。オリンピックどころではない。 私達が制作を依頼していたパリの版画工房が随分張り切ってミッシェル・アンリパリ2000というパリの風景と花のミッシェル・アンリの20点の版画セットを制作して発売した。2000年なのでパリの名所20ケ所を版画にしたのだ。 日本の卸業者は怒った。自分達が仕事を依頼していた業者に裏をかかれた形になったのだ。一般的に工房は版元の依頼を受けて、版画を制作するのが仕事なので、工房が版元になる事はない。日本の卸業者は、もうミッシェル・アンリとは仕事をしないと言い出した。 1998年ギャルリー亜出果版元発売元Xミッシェル・アンリ共同制作<ブーケパナッシェ>オリジナルリトグラフ 作家自筆サイン限定部数入↓ 私も、彼が怒るのは理解できたし、業者も私達に相談しても良かったかと思った。けれども、ミッシェル・アンリと独占契約をしていたわけではないから、あまり怒らなくても良いと思った。私達以前にも、フランスの業者がミッシェル・アンリの他のリトグラフを製作している。私もそれらのリトグラフを買って展示会で販売していた。 ミッシェルアンリは、フランスでもアメリカでも人気作家だ。日本とフランスでは考え方も商習慣も違うし、日本の常識は世界の非常識を言う言葉もある。 私は、ミッシェル・アンリの絵画が好きだし、ミッシェル・アンリはフランス画壇の巨匠で人気作家、大作家だ。サローン・ドートンヌの副会長でフランス最高の勲章レジオン・ドヌール勲章も受章して彼の展示会には当時のシラク大統領夫妻も来場するフランスの宝のような画家だ。...