レイモン・ペイネ

レイモンペイネ愛と平和のメッセージ講演をした理由

レイモンペイネ愛と平和のメッセージ講演をした理由

お問い合わせは:03-5848-8605   又は右下チャットでどうぞ 2015年2月15日バレンタインデーに合わせて、レイモンペイネ研究家で神戸女子大講師の守屋智子さん、放射能災害に苦しんでいた飯舘村菅野村長と私(ギャルリー亜出果 武田康弘)が講師となってレイモン・ペイネの愛と平和のメッセージについて、東京恵比寿の日仏会館で講演を開催した。   事の起こりは2015年1月7日にパリ11区の週間風刺新聞<シャルル・エビドー>英語読みは<チャーリー・エブド>に過激派イスラムテロリストが乱入して、社員、警察官など12人が射殺された。   その日、私は弊社の画廊でパリクラブ(フランスに留学や駐在人達のクラブ)の友人などとパーティーをしていた。パリクラブの創立者で元NHKのニュースキャスター、初代パリ日本文化センター館長で弊社の契約画家ミッシェル・アンリ友の会会長の磯村尚徳氏もパーティーに参加していた。殆どがフランス生活の経験者でフランス好きの人達だったので、驚き、心配、怒りを感じていた。   磯村尚徳氏は、パリで幾つかの講演を頼まれたいて、翌々日1月9日にはパリに発つ予定にしていた。当時磯村氏は85歳の高齢だったが至ってお元気でいらっしゃったが、それでもパリに行く予定はキャンセルされると思っていた。 ところが、彼は予定通り、騒然としたパリに行ったらしい。約束をしたからと同時にジャーナリスト魂なのだろう。なにしろ、インドシナ戦争にも戦争ジャーナリストとしていき。失権寸前のカダフィー大佐にも単独インタビューをされた人だ。当時彼は85歳だった、その勇気と好奇心に脱帽としか言いようがない。   私は、すぐにレイモン・ペイネ研究家の守屋智子さんと飯舘村の菅野典雄村長に連絡をとり、愛するパリでのイスラム原理主義組織のテロのアンチテーゼとして<レイモン・ペイネ フランス発愛と平和のメッセージ>を日仏会館で開催する事にした。   守屋智子さんはレイモン・ペイネの作品についてお話をされた。彼女は東京芸大出身なので、作品解説は面白かった。飯舘村の菅野村長は、奪われた平和な日常について講演された。飯舘村は東日本大震災の放射能災害により、平和に日常を奪われた。パリのシャルル・エビドーの人達は、テロにより平和な日常から奪われ多くの人達が死んだ。私は、レイモン・ペイネの作品の中の恋人達の愛、自然や小動物達の平和な日常にレイモン・ペイネの愛と平和のメッセージについて話すと同時に戦争をなくす画期的アイデアをはなした。     私が思いついた戦争をなくす画期的なアイデアと以下の通りだ。国際的な平和推進機関を創設して(今の国連は第2時世界大戦の勝戦国が常任理事国になっているので、もっと民主的な機関を創設する。または、国連の常任理事国制度を廃止する)、全ての国を参加させる。そして、軍事予算と同額の予算をこの国際機関に寄付させて、そのお金は世界の平和、貧国の撲滅と文化芸術の振興にあてる。つまり、軍事予算を増やしたければ、それに見合った金額を平和な活動に使うべく義務付けるのだ。   私は30年以上も前に、現在のCO2買い取り制度を漠然と考えていた。私は、南米のアマゾンなど緑の豊かな非産業国は、自国の自然が生産する酸素の代金を、大量に酸素を消費してCO2を排出する産業国に請求するシステムを作った方が良いと言っていたが、今それか現実となった。   環境保護と同時に戦争が出来ない世界的なシステムの構築が急がれる。   レイモンペイネは愛と平和のメッセージと自然との調和を描き続けた。21世紀現在の私達の方が、レイモンペイネのメッセージをもっと切実に真剣に受け止める状況になっている。      

レイモンペイネ愛と平和のメッセージ講演をした理由

お問い合わせは:03-5848-8605   又は右下チャットでどうぞ 2015年2月15日バレンタインデーに合わせて、レイモンペイネ研究家で神戸女子大講師の守屋智子さん、放射能災害に苦しんでいた飯舘村菅野村長と私(ギャルリー亜出果 武田康弘)が講師となってレイモン・ペイネの愛と平和のメッセージについて、東京恵比寿の日仏会館で講演を開催した。   事の起こりは2015年1月7日にパリ11区の週間風刺新聞<シャルル・エビドー>英語読みは<チャーリー・エブド>に過激派イスラムテロリストが乱入して、社員、警察官など12人が射殺された。   その日、私は弊社の画廊でパリクラブ(フランスに留学や駐在人達のクラブ)の友人などとパーティーをしていた。パリクラブの創立者で元NHKのニュースキャスター、初代パリ日本文化センター館長で弊社の契約画家ミッシェル・アンリ友の会会長の磯村尚徳氏もパーティーに参加していた。殆どがフランス生活の経験者でフランス好きの人達だったので、驚き、心配、怒りを感じていた。   磯村尚徳氏は、パリで幾つかの講演を頼まれたいて、翌々日1月9日にはパリに発つ予定にしていた。当時磯村氏は85歳の高齢だったが至ってお元気でいらっしゃったが、それでもパリに行く予定はキャンセルされると思っていた。 ところが、彼は予定通り、騒然としたパリに行ったらしい。約束をしたからと同時にジャーナリスト魂なのだろう。なにしろ、インドシナ戦争にも戦争ジャーナリストとしていき。失権寸前のカダフィー大佐にも単独インタビューをされた人だ。当時彼は85歳だった、その勇気と好奇心に脱帽としか言いようがない。   私は、すぐにレイモン・ペイネ研究家の守屋智子さんと飯舘村の菅野典雄村長に連絡をとり、愛するパリでのイスラム原理主義組織のテロのアンチテーゼとして<レイモン・ペイネ フランス発愛と平和のメッセージ>を日仏会館で開催する事にした。   守屋智子さんはレイモン・ペイネの作品についてお話をされた。彼女は東京芸大出身なので、作品解説は面白かった。飯舘村の菅野村長は、奪われた平和な日常について講演された。飯舘村は東日本大震災の放射能災害により、平和に日常を奪われた。パリのシャルル・エビドーの人達は、テロにより平和な日常から奪われ多くの人達が死んだ。私は、レイモン・ペイネの作品の中の恋人達の愛、自然や小動物達の平和な日常にレイモン・ペイネの愛と平和のメッセージについて話すと同時に戦争をなくす画期的アイデアをはなした。     私が思いついた戦争をなくす画期的なアイデアと以下の通りだ。国際的な平和推進機関を創設して(今の国連は第2時世界大戦の勝戦国が常任理事国になっているので、もっと民主的な機関を創設する。または、国連の常任理事国制度を廃止する)、全ての国を参加させる。そして、軍事予算と同額の予算をこの国際機関に寄付させて、そのお金は世界の平和、貧国の撲滅と文化芸術の振興にあてる。つまり、軍事予算を増やしたければ、それに見合った金額を平和な活動に使うべく義務付けるのだ。   私は30年以上も前に、現在のCO2買い取り制度を漠然と考えていた。私は、南米のアマゾンなど緑の豊かな非産業国は、自国の自然が生産する酸素の代金を、大量に酸素を消費してCO2を排出する産業国に請求するシステムを作った方が良いと言っていたが、今それか現実となった。   環境保護と同時に戦争が出来ない世界的なシステムの構築が急がれる。   レイモンペイネは愛と平和のメッセージと自然との調和を描き続けた。21世紀現在の私達の方が、レイモンペイネのメッセージをもっと切実に真剣に受け止める状況になっている。      

軽井沢ペイネ美術館顧問としてフランスのアンチーブのペイネ美術館を訪問した理由

軽井沢ペイネ美術館顧問としてフランスのアンチーブのペイネ美術館を訪問した理由

私は2012年に軽井沢ペイネ顧問として南フランスコートダジュールのアンチーブ市立ペイネ美術館を訪問した。 南仏アンチーブのペイネ美術館↓ 私の会社(㈱アデカはギャルリー亜出果と、1995年~2015年の20年間軽井沢プリンスショッピングプラザと軽井沢プリンスホテルにギャラリーヴァンドフランスというフランス絵画専門の画廊を経営していた。 軽井沢プリンスショッピングプラザのギャラリーヴァンドフランス ギャラリーヴァンドフランスはフランス大使館が後援していた フランス大使館経済商務官のベルナール・ロラン氏と武田康弘夫妻↓ 2010年当時の軽井沢プリンスホテルの総支配人の小山正彦氏(現プリンスホテル社長)に頼まれて、軽井沢プリンスホテルで軽井沢を国際的な観光と国際会議都市にする為の講演会を開催した。当時、観光業界は不況で、軽井沢プリンスホテルもトップシーズン以外は稼働率の最低記録を更新していた。 軽井沢リゾートコンフェランス推進協議会講演 左から犬塚実践女子大教授    松田尚美学園理事長兼学長 磯村元NHKニュースキャスター  ギャルリー亜出果武田康弘↓ NHKの元ニュースキャスターで初代パリ日本文化センター館長の磯村尚徳氏、尚美学園大学の学長兼理事長の松田義之氏と松田さんの弟子で実践女子大学教授の犬塚氏と私の4人で第1回軽井沢国際リゾートコンフェランス講演を開催した。 世界中の超一流の政治家や経済人があるまるダボス会議で有名なスイスのダボスやアメリカの高級文化リゾート都市のアスペンなどの話で盛りあがった。第1回は、軽井沢プリンスホテルで開催した。翌2011年には森トラストの傘下の万平ホテルで開催されて、森トラストの専務伊達美和子氏(現社長)、通産省官僚、長野県観光課の人とプリンスホテルの総支配人小山正彦氏(現社長)が講演した。 磯村尚徳氏とギャルリー亜出果武田康弘↓ その度に、藤巻軽井沢町長も出席して町全体として盛り上がる雰囲気ができて、軽井沢リゾートコンフェランス推進委員会(軽井沢RCC)が設立されて、軽井沢町としても軽井沢RCCに予算を付ける事になった。 軽井沢のペイネ美術館は軽井沢の塩沢湖を中心にした総合文化公園<タリアセン>の中にある。タリアセンには、ペイネ美術家以外に軽井沢に住んだ作家の原稿を集めた軽井沢高原文庫、花の博物館などもって、半日位は楽しく遊べる軽井沢の観光資源だ。 軽井沢タリアセン内のペイネ美術館↓ 私が軽井沢に国際会議や観光客を呼び入れるセミナーに企画をしたり、パネラーになって講演した為、軽井沢界隈で少し有名になった。タリアセンにはペイネ美術館があり、私は版元のミュレさんから購入したレイモン・ペイネのオリジナル版画の世界一のコレクターなので、2012年にタリアセンから依頼を受けて、ペイネ美術館の顧問としてアンチーブのペイネ美術館を訪問する事となった。 軽井沢ペイネ美術館前のペイネの恋人達の像↓ 2012年の秋に始めて、アンチーブのペイネ美術館<正確にはレイモン・ペイネとユーモラスな作家の美術館>のグジョン館長とレイモン・ペイネの娘のアニー・ペイネに会い意見交換をした。 アンチーブペイネ美術館でペイネの娘アニーペイネとグジョン館長↓ 当時はアンチーブのペイネ美術館に来るアジア系は日本人のみだった。(現在は中国、韓国でもペイネが有名になり、日本人より中国人の来場の方が多いらしい。2019年にグジョン館長曰く) グジョン館長もアニー・ペイネも大喜びで私を迎えてくれて、アンチーブ市と軽井沢町を姉妹都市にする提案を貰った。アンチーブのペイネ美術館とピカソ美術館はいずれもアンチーブ市立美術館なので、グジョン館長も市の職員となっているので、この話はアンチーブ市に彼から提案することになった。また、軽井沢町の藤巻進町長一族が軽井沢タリアセン(ペイネ美術館)の経営者なので、前進すると私は思った。 ペイネ美術館のレイモン・ペイネのオリジナル版画<春夏秋冬>の前の アニーペイネ↓ 私は、軽井沢町とアンチーブ市の姉妹都市の提案を手土産に日本に帰り、タリアセン(ペイネ美術館)に報告をした。ところが意外な返事が返ってきた。町長が自分の経営する企業に有利な事案を進める事はできないとの返事が返ってきた。町長が公人なので役職を利用して私的な利益の係る事は出来ないとの事だ。それなりに理屈は通っているので納得するしかなかった。 軽井沢町は別荘地で地価が高いので、固定資産税が沢山はいってくる。聞くところによると、地方交付金を受けていない自治体は全国で東京都と軽井沢町だけらしい。軽井沢町は、観光政策など議論はしても、実際には余り本気にならないと他の人から聞いた。お金持ちの自治体なので、のんびりしているらしい。 2013年に安部政権が誕生して、景気が回復したのと観光立国政策が取られ軽井沢プリンスホテルの稼働率は急上昇して、㈱プリンスホテルの赤字から大幅黒字の時代となり、軽井沢を国際リゾートと国際会議都市にする事など誰も言わなくなった。小山正彦氏も常務取締役となりプリンスホテル西日本の総支配人になり京都にいってしまった。 弊社も2015年に小売り業から卸売り業に転身して、軽井沢プリンスホテルのギャラリーヴァンドフランスは閉廊して軽井沢から撤退した。 軽井沢とアンチーブの姉妹都市計画は1歩も前に進まなかったが、アンチーブのペイネ美術館のグジョン館長やペイネの娘との交流や軽井沢ペイネ美術館との交流は現在も続いている。 今後も軽井沢ペイネ美術館やアンチーブのペイネ美術館と一緒に20世紀フランスが生んレイモン・ペイネの恋人達の愛と平和のアート世界に多くの人達を誘いたい。

軽井沢ペイネ美術館顧問としてフランスのアンチーブのペイネ美術館を訪問した理由

私は2012年に軽井沢ペイネ顧問として南フランスコートダジュールのアンチーブ市立ペイネ美術館を訪問した。 南仏アンチーブのペイネ美術館↓ 私の会社(㈱アデカはギャルリー亜出果と、1995年~2015年の20年間軽井沢プリンスショッピングプラザと軽井沢プリンスホテルにギャラリーヴァンドフランスというフランス絵画専門の画廊を経営していた。 軽井沢プリンスショッピングプラザのギャラリーヴァンドフランス ギャラリーヴァンドフランスはフランス大使館が後援していた フランス大使館経済商務官のベルナール・ロラン氏と武田康弘夫妻↓ 2010年当時の軽井沢プリンスホテルの総支配人の小山正彦氏(現プリンスホテル社長)に頼まれて、軽井沢プリンスホテルで軽井沢を国際的な観光と国際会議都市にする為の講演会を開催した。当時、観光業界は不況で、軽井沢プリンスホテルもトップシーズン以外は稼働率の最低記録を更新していた。 軽井沢リゾートコンフェランス推進協議会講演 左から犬塚実践女子大教授    松田尚美学園理事長兼学長 磯村元NHKニュースキャスター  ギャルリー亜出果武田康弘↓ NHKの元ニュースキャスターで初代パリ日本文化センター館長の磯村尚徳氏、尚美学園大学の学長兼理事長の松田義之氏と松田さんの弟子で実践女子大学教授の犬塚氏と私の4人で第1回軽井沢国際リゾートコンフェランス講演を開催した。 世界中の超一流の政治家や経済人があるまるダボス会議で有名なスイスのダボスやアメリカの高級文化リゾート都市のアスペンなどの話で盛りあがった。第1回は、軽井沢プリンスホテルで開催した。翌2011年には森トラストの傘下の万平ホテルで開催されて、森トラストの専務伊達美和子氏(現社長)、通産省官僚、長野県観光課の人とプリンスホテルの総支配人小山正彦氏(現社長)が講演した。 磯村尚徳氏とギャルリー亜出果武田康弘↓ その度に、藤巻軽井沢町長も出席して町全体として盛り上がる雰囲気ができて、軽井沢リゾートコンフェランス推進委員会(軽井沢RCC)が設立されて、軽井沢町としても軽井沢RCCに予算を付ける事になった。 軽井沢のペイネ美術館は軽井沢の塩沢湖を中心にした総合文化公園<タリアセン>の中にある。タリアセンには、ペイネ美術家以外に軽井沢に住んだ作家の原稿を集めた軽井沢高原文庫、花の博物館などもって、半日位は楽しく遊べる軽井沢の観光資源だ。 軽井沢タリアセン内のペイネ美術館↓ 私が軽井沢に国際会議や観光客を呼び入れるセミナーに企画をしたり、パネラーになって講演した為、軽井沢界隈で少し有名になった。タリアセンにはペイネ美術館があり、私は版元のミュレさんから購入したレイモン・ペイネのオリジナル版画の世界一のコレクターなので、2012年にタリアセンから依頼を受けて、ペイネ美術館の顧問としてアンチーブのペイネ美術館を訪問する事となった。 軽井沢ペイネ美術館前のペイネの恋人達の像↓ 2012年の秋に始めて、アンチーブのペイネ美術館<正確にはレイモン・ペイネとユーモラスな作家の美術館>のグジョン館長とレイモン・ペイネの娘のアニー・ペイネに会い意見交換をした。 アンチーブペイネ美術館でペイネの娘アニーペイネとグジョン館長↓ 当時はアンチーブのペイネ美術館に来るアジア系は日本人のみだった。(現在は中国、韓国でもペイネが有名になり、日本人より中国人の来場の方が多いらしい。2019年にグジョン館長曰く) グジョン館長もアニー・ペイネも大喜びで私を迎えてくれて、アンチーブ市と軽井沢町を姉妹都市にする提案を貰った。アンチーブのペイネ美術館とピカソ美術館はいずれもアンチーブ市立美術館なので、グジョン館長も市の職員となっているので、この話はアンチーブ市に彼から提案することになった。また、軽井沢町の藤巻進町長一族が軽井沢タリアセン(ペイネ美術館)の経営者なので、前進すると私は思った。 ペイネ美術館のレイモン・ペイネのオリジナル版画<春夏秋冬>の前の アニーペイネ↓ 私は、軽井沢町とアンチーブ市の姉妹都市の提案を手土産に日本に帰り、タリアセン(ペイネ美術館)に報告をした。ところが意外な返事が返ってきた。町長が自分の経営する企業に有利な事案を進める事はできないとの返事が返ってきた。町長が公人なので役職を利用して私的な利益の係る事は出来ないとの事だ。それなりに理屈は通っているので納得するしかなかった。 軽井沢町は別荘地で地価が高いので、固定資産税が沢山はいってくる。聞くところによると、地方交付金を受けていない自治体は全国で東京都と軽井沢町だけらしい。軽井沢町は、観光政策など議論はしても、実際には余り本気にならないと他の人から聞いた。お金持ちの自治体なので、のんびりしているらしい。 2013年に安部政権が誕生して、景気が回復したのと観光立国政策が取られ軽井沢プリンスホテルの稼働率は急上昇して、㈱プリンスホテルの赤字から大幅黒字の時代となり、軽井沢を国際リゾートと国際会議都市にする事など誰も言わなくなった。小山正彦氏も常務取締役となりプリンスホテル西日本の総支配人になり京都にいってしまった。 弊社も2015年に小売り業から卸売り業に転身して、軽井沢プリンスホテルのギャラリーヴァンドフランスは閉廊して軽井沢から撤退した。 軽井沢とアンチーブの姉妹都市計画は1歩も前に進まなかったが、アンチーブのペイネ美術館のグジョン館長やペイネの娘との交流や軽井沢ペイネ美術館との交流は現在も続いている。 今後も軽井沢ペイネ美術館やアンチーブのペイネ美術館と一緒に20世紀フランスが生んレイモン・ペイネの恋人達の愛と平和のアート世界に多くの人達を誘いたい。

レイモン・ペイネの絵の人気が今高まっている理由

レイモン・ペイネの絵の人気が今高まっている理由

 レイモン・ペイネは20世紀フランスで最も人気の高かったイラストレーターで国民的なレベルで愛された。そのペイネの21世紀現代の人気と価値を解説しよう。 レイモン・ペイネの作品価値  1:レイモン・ペイネが制作した美術作品 レイモン・ペイネは雑誌などに作品を発表したイラストレーターなので、画家のように沢山の絵画を制作販売した訳ではない。雑誌用にイラストを制作したり、ポスターを制作してその原画を、インクや水彩、不透明水彩などで描いた。私の知る限り、油彩画は見た事がない。そのペイネが1978年に星座12宮のエッチングと1985年にリトグラフを40種類程と1990年代にやはりリトグラフを数種類制作して、オリジナル版画の証明として自身で鉛筆サインを入れた。つまり、レイモン・ペイネが残した作品で美術品としての価値があるのは、原画と作家自筆サイン入りのオリジナル版画(エッチングとリトグラフ)のみとなる。ポスターなども希少価値は、あるかもしれない。   2:レイモン・ペイネは20世紀フランスで最も人気の高いイラストレーターだった レイモン・ペイネは1908年に生まれて、1999年にニース近郊で他界した。 美術系の学校卒業後広告デザイン業界で働き、28歳の時フランスの英字新聞にイラストを描いて注目され、種々の雑誌等にイラストを描き、44歳の時雑誌に恋人達のイラストを発表連載して、ペイネの恋人達は一躍脚光を浴びた。その後、ペイネの恋人達の人気が高まるにつれて、玩具会社がペイネの人形シリーズを、食器会社がペイネの恋人達の食器(現在もドイツのローゼンタール社はペイネの食器シリーズを生産販売をしている)などを販売し、レイモン・ペイネはフランスで最も有名なイラストレーターとなり、レイモン・ペイネとその恋人達は国民的レベルの知名度を得た。戦後日本は漫画大国になり、様々なスター漫画家が誕生したが、レイモン・ペイネはフランスでは突出して有名なイラストレーターとなった。つまり、レイモン・ペイネの恋人達は、鉄腕アトム、アンパンマンとドラエモンを合わせた位の人気があった。   3:レイモン・ペイネ美術館とファン<レイモン・ペイネの美術館やテーマパークは幾つもある。>    ①日本の軽井沢にはレイモン・ペイネ美術館がある。軽井沢は日本一の高級別荘地だが、軽井沢の人気スポットのタリアセン(文化的総合公園>の中にペイネ美術館があり軽井沢の重要な観光資源となっている。 ②南フランスのコードダジュールのアンチーブ市にもレイモン・ペイネとユーモラな作家美術館がある。隣接するピカソ美術館と共に、アンチーブ市が経営していてアンチーブ市とコートダジュールの重要な観光資源となっている。最近、レイモン・ペイネは日本以外のアジアの国でも人気が出ていて、中国や韓国からの観光客も訪れている。韓国で大々的なレイモン・ペイネ展が開催されたり、中国でレイモン・ペイネの人形が生産販売されている。アンチーブのレイモン・ペイネとユーモラスな作家美術館のグジョン館長が述べている。 アンチーブ市ペイネ美術館内の写真、モナコ公国のグレース王女、イタリアの女優ソフィア・ローレンなどの有名人とレイモン・ペイネが一緒に撮影した写真が掲載されたパネルの写真とレイモン・ペイネの娘アニーペイネのペイネ美術館内での写真(武田康弘撮影)↓ ③岡山県美作市にはレレイモン・ペイネのテーマパークがある。名前は作東バレンタインパークとなっていて、その中にある作東美術館はペイネの絵の美術館だ。公園の愛の泉にはペイネの恋人達の像が置かれている。又、バレンタインホテルという結婚式場のあるホテルも隣接し建てられている。 ④サン・バレンタイン(St.Valentine)市はサン・バレンタインは愛の天使で恋人達の守護天使の名前ので、恋人達の愛をテーマに町作りをしている。レイモン・ペイネテーマ館があり、日本の作東バレンタインパークのある美作市と姉妹都市になっていて。ペイネの絵画、グッズを集まてレイモン・ペイネテーマ館がある。 レイモン・ペイネテーマ館の内部写真   サン・バレンタイン市発行のペイネの結婚証明書↓ この封筒に使用されている絵のオリジナルリトグラフ版画は日本のギャルリー亜出果が新品を収蔵して発売している↓        ⑤広島平和公園のは原爆ドームを中心とした平和を祈念する公園だがその一角のレイモン・ペイネの恋人達の像が飾れていて<愛と平和のモニュメント>と名付けられている。 愛と平和のモニュメント↓ ⑥フランスのサンブリアックはレイモン・ペイネの母親の故郷で、ここにもレイモン・ペイネ美術館がある。 サンブリアックのペイネ美術館↓  ⑦フランスのヴァランス市(Valence)にはペイネの野外音楽堂美術館(Musee Kiosque Peynet)がある。レイモン・ペイネが44歳の時ヴァランス市の野外音楽堂見てペイネの恋人達のインスピレーションを得て、野外音楽堂の恋人達を描いた事で、バランス市はペイネの恋人達の発祥の地とされている。   ペイネ野外音楽堂美術館↓  ...

レイモン・ペイネの絵の人気が今高まっている理由

 レイモン・ペイネは20世紀フランスで最も人気の高かったイラストレーターで国民的なレベルで愛された。そのペイネの21世紀現代の人気と価値を解説しよう。 レイモン・ペイネの作品価値  1:レイモン・ペイネが制作した美術作品 レイモン・ペイネは雑誌などに作品を発表したイラストレーターなので、画家のように沢山の絵画を制作販売した訳ではない。雑誌用にイラストを制作したり、ポスターを制作してその原画を、インクや水彩、不透明水彩などで描いた。私の知る限り、油彩画は見た事がない。そのペイネが1978年に星座12宮のエッチングと1985年にリトグラフを40種類程と1990年代にやはりリトグラフを数種類制作して、オリジナル版画の証明として自身で鉛筆サインを入れた。つまり、レイモン・ペイネが残した作品で美術品としての価値があるのは、原画と作家自筆サイン入りのオリジナル版画(エッチングとリトグラフ)のみとなる。ポスターなども希少価値は、あるかもしれない。   2:レイモン・ペイネは20世紀フランスで最も人気の高いイラストレーターだった レイモン・ペイネは1908年に生まれて、1999年にニース近郊で他界した。 美術系の学校卒業後広告デザイン業界で働き、28歳の時フランスの英字新聞にイラストを描いて注目され、種々の雑誌等にイラストを描き、44歳の時雑誌に恋人達のイラストを発表連載して、ペイネの恋人達は一躍脚光を浴びた。その後、ペイネの恋人達の人気が高まるにつれて、玩具会社がペイネの人形シリーズを、食器会社がペイネの恋人達の食器(現在もドイツのローゼンタール社はペイネの食器シリーズを生産販売をしている)などを販売し、レイモン・ペイネはフランスで最も有名なイラストレーターとなり、レイモン・ペイネとその恋人達は国民的レベルの知名度を得た。戦後日本は漫画大国になり、様々なスター漫画家が誕生したが、レイモン・ペイネはフランスでは突出して有名なイラストレーターとなった。つまり、レイモン・ペイネの恋人達は、鉄腕アトム、アンパンマンとドラエモンを合わせた位の人気があった。   3:レイモン・ペイネ美術館とファン<レイモン・ペイネの美術館やテーマパークは幾つもある。>    ①日本の軽井沢にはレイモン・ペイネ美術館がある。軽井沢は日本一の高級別荘地だが、軽井沢の人気スポットのタリアセン(文化的総合公園>の中にペイネ美術館があり軽井沢の重要な観光資源となっている。 ②南フランスのコードダジュールのアンチーブ市にもレイモン・ペイネとユーモラな作家美術館がある。隣接するピカソ美術館と共に、アンチーブ市が経営していてアンチーブ市とコートダジュールの重要な観光資源となっている。最近、レイモン・ペイネは日本以外のアジアの国でも人気が出ていて、中国や韓国からの観光客も訪れている。韓国で大々的なレイモン・ペイネ展が開催されたり、中国でレイモン・ペイネの人形が生産販売されている。アンチーブのレイモン・ペイネとユーモラスな作家美術館のグジョン館長が述べている。 アンチーブ市ペイネ美術館内の写真、モナコ公国のグレース王女、イタリアの女優ソフィア・ローレンなどの有名人とレイモン・ペイネが一緒に撮影した写真が掲載されたパネルの写真とレイモン・ペイネの娘アニーペイネのペイネ美術館内での写真(武田康弘撮影)↓ ③岡山県美作市にはレレイモン・ペイネのテーマパークがある。名前は作東バレンタインパークとなっていて、その中にある作東美術館はペイネの絵の美術館だ。公園の愛の泉にはペイネの恋人達の像が置かれている。又、バレンタインホテルという結婚式場のあるホテルも隣接し建てられている。 ④サン・バレンタイン(St.Valentine)市はサン・バレンタインは愛の天使で恋人達の守護天使の名前ので、恋人達の愛をテーマに町作りをしている。レイモン・ペイネテーマ館があり、日本の作東バレンタインパークのある美作市と姉妹都市になっていて。ペイネの絵画、グッズを集まてレイモン・ペイネテーマ館がある。 レイモン・ペイネテーマ館の内部写真   サン・バレンタイン市発行のペイネの結婚証明書↓ この封筒に使用されている絵のオリジナルリトグラフ版画は日本のギャルリー亜出果が新品を収蔵して発売している↓        ⑤広島平和公園のは原爆ドームを中心とした平和を祈念する公園だがその一角のレイモン・ペイネの恋人達の像が飾れていて<愛と平和のモニュメント>と名付けられている。 愛と平和のモニュメント↓ ⑥フランスのサンブリアックはレイモン・ペイネの母親の故郷で、ここにもレイモン・ペイネ美術館がある。 サンブリアックのペイネ美術館↓  ⑦フランスのヴァランス市(Valence)にはペイネの野外音楽堂美術館(Musee Kiosque Peynet)がある。レイモン・ペイネが44歳の時ヴァランス市の野外音楽堂見てペイネの恋人達のインスピレーションを得て、野外音楽堂の恋人達を描いた事で、バランス市はペイネの恋人達の発祥の地とされている。   ペイネ野外音楽堂美術館↓  ...

レイモン・ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館が放射能被害の飯館村にできたのは何故?

レイモン・ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館が放射能被害の飯館村にできたのは何故?

お問い合わせは:03-5848-8605   又は右下チャット  lineでどうぞ 東日本大震災で放射能被害を受けた飯舘村の村長が2018年に自宅の蔵を改造してレイモンペイネとミッシェルアンリの美術館にした。 2003年頃、飯舘村の菅野村長から弊社に電話があった。ペイネの美術館を飯舘村に作りたいので、レイモン・ペイネの版画を沢山欲しいとの電話だった。 当時は、弊社(ギャルリー亜出果)は軽井沢プリンスショッピングプラザに<ギャラリーヴァンドフランス>というフランス絵画版画の専門ギャラリー(1995年~2015年)を経営すると同時に軽井沢プリンスホテル西館の通路にも作品を展示して販売していた。 飯舘村の菅野村長は、その1月程前に軽井沢プリンスホテルでのセミナーに参加して、軽井沢プリンスホテル西館に弊社が展示していたレイモン・ペイネのオリジナル版画を5点程購入したらしい。私も軽井沢プリンスホテルの月末の売り上げ報告で、レイモン・ペイネの版画が数点売れたのは知っていた。 私は、菅野村長の電話から2月程して東京で菅野村長に合ってランチをして話を聞いた。飯舘村に愛の沢という場所があって、小さな湖を中心に運動場や温泉、宿泊施設、レストランもある村人の憩いの公園になっている。 愛の沢の愛の架け橋↓ 愛の沢には男性と女性の性器に似た石があり愛の沢という名前の由来になっているらしい。菅野村長は愛の沢にちなんで、ペイネの恋人達の美術館をオープンしたいとの事だった。ペイネ美術館は軽井沢と南仏アンチーブなどにあるが、飯舘村にも作りたいとの事だった。美術館はペイネのオリジナル版画は定価10万円~20万円程なので格安で美術館をオープンできるわけだ。 私は数か月後にその愛の沢を見に行った。菅野村長は、新しいアイデアと実行力のる人で、飯舘村発展のために色々な試みをしていた。愛の沢のペイネ美術館も村起こしの一環らしい。面白いので、それらの菅野村長の試みを幾つか紹介しようう。 1:村民俳句大会:1980年代に<サラダ記念日>という俳句集を出版して一躍有名になった俳人の黛まどか氏を審査員に呼んで、村民や一般公募の農村や飯舘村をよんだ句の審査会を開いて、選ばれた俳句を高さ30センチ程の石に掘り込み、愛の沢を一周する散歩道に数十個設置して、散歩しながら農村の俳句を楽しめるようにした。その句集も出版した。 飯舘村愛の沢の句碑↓ 2:若妻の翼:農家のお嫁さんのフランスへの集団旅行の企画をした。確か7~8回程実施したようです。農家の若い奥さん達が自分達でフランス旅行の企画を立て、予約も自分達でして、1週間程フランスを旅行するのだ。もちろん、フランス語はできないし、英語も大したレベルではないので、身振り手振りも交えて旅行中のコミュニケーションをすることになる。参加した彼女達はその企画によって自信をつけ、帰国後に村の中の様々な分野で積極的に活躍したそうだ。特筆すべきは、その旅行の実施は秋の収穫の農家が最も忙しい時期を選んで行われた事だ。忙しい時に農家の奥さんが不在になれば、農家は困る事によって、お嫁さんの重要度を認識する仕組になっている。発想が面白い。でも、この企画がフランスだったのはとても良かったと私は思う。アメリカだと犯罪に巻き込まれる危険が高いし、イタリアだと50メートル置きに男が付きまとう。フランスはジプシーやイタリア系のストリート泥棒はいるが、身の危険を感じる事はない。店やレストラン、ホテルで盗難の被害もそんなに多くない。 菅野村長は2年間程の間に数十点のオリジナル版画を買ってくれた。菅野村長は個人で買って、美術館が出来たら村に寄付する予定にしていた。数年後、菅野村長は仙台三越でのミッシェル・アンリ来日展に奥さんと一緒に来てくれた。ミッシェル・アンリの絵画を見て、同時に画家に会って感激し、予定の美術館は「ペイネ&ミッシェルアンリの愛と花の美術館」にする事になった。    ミッシェル・アンリ来日展を見に来てくれた飯舘村菅野村長夫妻とギャルリー亜出果 武田康弘↓   ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館建設は2006年に飯舘村議会で否決されたが、菅野村長は諦めていなくて機会をうかがっていた。菅野村長は自分が書いた本や、ブランドの飯館牛の肉の大きな塊を送ってくれたり、東京に来たときは一緒に食事をしたりして、私達はすっかり友達になった。 私は村長へのお礼にと思って2009年から毎年、子供達の夏休み中に飯館村に行って愛の沢のコテージに宿泊し、飯舘村から1時間程の松川浦という海水浴場にもいった。飯舘村のコテージの傍の草むらから見上げる夜空は素晴らしい物だった。飯舘村は高原で愛の沢のコテージは丘の上にあるので、周りには星空を遮る物がなく、真っ暗なので、満点の星空が広がっている。星が降るというのは、このような夜空の事だとおもう。 飯舘村ホテル+レストランの木こり館 このそばにコテージもある↓   飯舘村コテージに宿泊して近くのやま湖での花火大会や、村の夏祭りにも行った。菅野村長の奥さんが茹でてもってきてくれたトウモロコシを女房や子供と一緒に頬張りながら、花火を見た。村の祭りでは、飯館牛と村でとれた野菜でのバーベキューを楽しんだ。愛の沢を散歩しながら村民の俳句も楽しんだ。数メートル置きあるその民の俳句を口ずさみながら、湖をぐるりと散歩するのは楽しかった。村民が作った俳句をいくつか紹介しよう。「ひと声に牛の寄りくる秋の暮」「下校の子稲刈る父を見て帰る」「トラクターに新妻乗せて花野ゆく」など牧歌的な句が並んでいる。審査員の俳人黛まどかさんが選んだ句だ。私も一句作って、俳句で生活している友人に見せたら、ストレートすぎて俳句になっていないそうだ。彼曰く、私の性格そのままだそうだ。私のストレートな句は「夏の夜天まで響け祭り太鼓」花火の上がる前に、かがり火に照らされた祭り太鼓の演奏があり、太鼓の音が真っ暗な夜空に上って行っていたのを、私が俳句にした。 2011年3月11日東日本大震災が発生した。数週間すると飯館村が放射能で大変な被害に会っている事が解った。菅野村長に何かできる事が有るか聞きいたら、子供達が一番可愛そうなので、なにかプレゼントして欲しいと言われ、寄付を集め読売ジャイアンツと楽天のグッズ400個を飯舘村の幼稚園児と小学生に届けた。 飯舘村の幼稚園の先生にプレゼントを渡すギャルリー亜出果武田↓ まだ、飯舘村全村避難の命令がでる前だったが、3校ある小学校の子供達は、隣町の小学校の校舎を借りて勉強していた。 飯舘村の唯一の書店(町役場のすぐそばにある)↓ 中には1時間以上掛けて通っている子供もいた。子供達は以外に明るく遊んでいた。私は彼らに「今大変な時だけど、この状況を乗り越えた向こうには、素晴らしい未来が待っているから、大変だけど一緒に乗り越えて行こう。」と言いつつ、この子供達が将来苦しむ事が無いようにと祈るような気持ちだった。今でも、時々、あの時会った子供達の事が心に浮かぶ。元気で育って欲しいと念じる。きっと大丈夫だ、元気に育つと思った。 飯舘村の子供達にプレゼントを届けた武田康弘と教室の子供達↓ (株)ワニプラスの佐藤寿彦社長から、菅野村長の手記を出版してくれるとの親切な申し出があり8月に「美しい村に放射能が降った」を出版してくれた。...

レイモン・ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館が放射能被害の飯館村にできたのは何故?

お問い合わせは:03-5848-8605   又は右下チャット  lineでどうぞ 東日本大震災で放射能被害を受けた飯舘村の村長が2018年に自宅の蔵を改造してレイモンペイネとミッシェルアンリの美術館にした。 2003年頃、飯舘村の菅野村長から弊社に電話があった。ペイネの美術館を飯舘村に作りたいので、レイモン・ペイネの版画を沢山欲しいとの電話だった。 当時は、弊社(ギャルリー亜出果)は軽井沢プリンスショッピングプラザに<ギャラリーヴァンドフランス>というフランス絵画版画の専門ギャラリー(1995年~2015年)を経営すると同時に軽井沢プリンスホテル西館の通路にも作品を展示して販売していた。 飯舘村の菅野村長は、その1月程前に軽井沢プリンスホテルでのセミナーに参加して、軽井沢プリンスホテル西館に弊社が展示していたレイモン・ペイネのオリジナル版画を5点程購入したらしい。私も軽井沢プリンスホテルの月末の売り上げ報告で、レイモン・ペイネの版画が数点売れたのは知っていた。 私は、菅野村長の電話から2月程して東京で菅野村長に合ってランチをして話を聞いた。飯舘村に愛の沢という場所があって、小さな湖を中心に運動場や温泉、宿泊施設、レストランもある村人の憩いの公園になっている。 愛の沢の愛の架け橋↓ 愛の沢には男性と女性の性器に似た石があり愛の沢という名前の由来になっているらしい。菅野村長は愛の沢にちなんで、ペイネの恋人達の美術館をオープンしたいとの事だった。ペイネ美術館は軽井沢と南仏アンチーブなどにあるが、飯舘村にも作りたいとの事だった。美術館はペイネのオリジナル版画は定価10万円~20万円程なので格安で美術館をオープンできるわけだ。 私は数か月後にその愛の沢を見に行った。菅野村長は、新しいアイデアと実行力のる人で、飯舘村発展のために色々な試みをしていた。愛の沢のペイネ美術館も村起こしの一環らしい。面白いので、それらの菅野村長の試みを幾つか紹介しようう。 1:村民俳句大会:1980年代に<サラダ記念日>という俳句集を出版して一躍有名になった俳人の黛まどか氏を審査員に呼んで、村民や一般公募の農村や飯舘村をよんだ句の審査会を開いて、選ばれた俳句を高さ30センチ程の石に掘り込み、愛の沢を一周する散歩道に数十個設置して、散歩しながら農村の俳句を楽しめるようにした。その句集も出版した。 飯舘村愛の沢の句碑↓ 2:若妻の翼:農家のお嫁さんのフランスへの集団旅行の企画をした。確か7~8回程実施したようです。農家の若い奥さん達が自分達でフランス旅行の企画を立て、予約も自分達でして、1週間程フランスを旅行するのだ。もちろん、フランス語はできないし、英語も大したレベルではないので、身振り手振りも交えて旅行中のコミュニケーションをすることになる。参加した彼女達はその企画によって自信をつけ、帰国後に村の中の様々な分野で積極的に活躍したそうだ。特筆すべきは、その旅行の実施は秋の収穫の農家が最も忙しい時期を選んで行われた事だ。忙しい時に農家の奥さんが不在になれば、農家は困る事によって、お嫁さんの重要度を認識する仕組になっている。発想が面白い。でも、この企画がフランスだったのはとても良かったと私は思う。アメリカだと犯罪に巻き込まれる危険が高いし、イタリアだと50メートル置きに男が付きまとう。フランスはジプシーやイタリア系のストリート泥棒はいるが、身の危険を感じる事はない。店やレストラン、ホテルで盗難の被害もそんなに多くない。 菅野村長は2年間程の間に数十点のオリジナル版画を買ってくれた。菅野村長は個人で買って、美術館が出来たら村に寄付する予定にしていた。数年後、菅野村長は仙台三越でのミッシェル・アンリ来日展に奥さんと一緒に来てくれた。ミッシェル・アンリの絵画を見て、同時に画家に会って感激し、予定の美術館は「ペイネ&ミッシェルアンリの愛と花の美術館」にする事になった。    ミッシェル・アンリ来日展を見に来てくれた飯舘村菅野村長夫妻とギャルリー亜出果 武田康弘↓   ペイネとミッシェルアンリの愛と花の美術館建設は2006年に飯舘村議会で否決されたが、菅野村長は諦めていなくて機会をうかがっていた。菅野村長は自分が書いた本や、ブランドの飯館牛の肉の大きな塊を送ってくれたり、東京に来たときは一緒に食事をしたりして、私達はすっかり友達になった。 私は村長へのお礼にと思って2009年から毎年、子供達の夏休み中に飯館村に行って愛の沢のコテージに宿泊し、飯舘村から1時間程の松川浦という海水浴場にもいった。飯舘村のコテージの傍の草むらから見上げる夜空は素晴らしい物だった。飯舘村は高原で愛の沢のコテージは丘の上にあるので、周りには星空を遮る物がなく、真っ暗なので、満点の星空が広がっている。星が降るというのは、このような夜空の事だとおもう。 飯舘村ホテル+レストランの木こり館 このそばにコテージもある↓   飯舘村コテージに宿泊して近くのやま湖での花火大会や、村の夏祭りにも行った。菅野村長の奥さんが茹でてもってきてくれたトウモロコシを女房や子供と一緒に頬張りながら、花火を見た。村の祭りでは、飯館牛と村でとれた野菜でのバーベキューを楽しんだ。愛の沢を散歩しながら村民の俳句も楽しんだ。数メートル置きあるその民の俳句を口ずさみながら、湖をぐるりと散歩するのは楽しかった。村民が作った俳句をいくつか紹介しよう。「ひと声に牛の寄りくる秋の暮」「下校の子稲刈る父を見て帰る」「トラクターに新妻乗せて花野ゆく」など牧歌的な句が並んでいる。審査員の俳人黛まどかさんが選んだ句だ。私も一句作って、俳句で生活している友人に見せたら、ストレートすぎて俳句になっていないそうだ。彼曰く、私の性格そのままだそうだ。私のストレートな句は「夏の夜天まで響け祭り太鼓」花火の上がる前に、かがり火に照らされた祭り太鼓の演奏があり、太鼓の音が真っ暗な夜空に上って行っていたのを、私が俳句にした。 2011年3月11日東日本大震災が発生した。数週間すると飯館村が放射能で大変な被害に会っている事が解った。菅野村長に何かできる事が有るか聞きいたら、子供達が一番可愛そうなので、なにかプレゼントして欲しいと言われ、寄付を集め読売ジャイアンツと楽天のグッズ400個を飯舘村の幼稚園児と小学生に届けた。 飯舘村の幼稚園の先生にプレゼントを渡すギャルリー亜出果武田↓ まだ、飯舘村全村避難の命令がでる前だったが、3校ある小学校の子供達は、隣町の小学校の校舎を借りて勉強していた。 飯舘村の唯一の書店(町役場のすぐそばにある)↓ 中には1時間以上掛けて通っている子供もいた。子供達は以外に明るく遊んでいた。私は彼らに「今大変な時だけど、この状況を乗り越えた向こうには、素晴らしい未来が待っているから、大変だけど一緒に乗り越えて行こう。」と言いつつ、この子供達が将来苦しむ事が無いようにと祈るような気持ちだった。今でも、時々、あの時会った子供達の事が心に浮かぶ。元気で育って欲しいと念じる。きっと大丈夫だ、元気に育つと思った。 飯舘村の子供達にプレゼントを届けた武田康弘と教室の子供達↓ (株)ワニプラスの佐藤寿彦社長から、菅野村長の手記を出版してくれるとの親切な申し出があり8月に「美しい村に放射能が降った」を出版してくれた。...

レイモン・ペイネテーマパークIN美作

レイモン・ペイネテーマパークIN美作

宮本武蔵の故郷美作市レイモン・ペイネのテーマパーク、ヴァレンタインパーク 1988年岡山県美作市は(当時は英田郡作東町)はフランスの愛の村サン・バランタン(=聖バレンタイン村)と姉妹都市になり、それから10年がかりで愛をテーマの公園バレンタインパーク作東を作り、公園の中央に噴水池<愛の泉>とレイモン・ペイネ原作の<天使と恋人達>の像を置いた。バレンタインパーク内には愛をテーマのホテル、バレンタインホテルとレイモン・ペイネの恋人達の絵画や版画を収蔵した作東美術館、文化交流の館バレンタインプラザが建設された。作東美術館にはペイネの作品140点が収蔵されている。また、丘の上にはヨーロッパ風の鐘を頂く高さ30メートルの作東タワーつくられた。このバレンタインパーク作東はまさに、愛をテーマにしたテーマパークだ。       バレンタインパーク作東<天使と恋人達>  ペイネの作品を収蔵した作東美術館 の像と<愛の泉>     美作市立作東美術館   美術館内に展示されたペイネの作品     美術館内のロダン作<オルフェウス>像         美作市作東美術館の玄関 夫婦愛を象徴するギリシャ神話の紙  

レイモン・ペイネテーマパークIN美作

宮本武蔵の故郷美作市レイモン・ペイネのテーマパーク、ヴァレンタインパーク 1988年岡山県美作市は(当時は英田郡作東町)はフランスの愛の村サン・バランタン(=聖バレンタイン村)と姉妹都市になり、それから10年がかりで愛をテーマの公園バレンタインパーク作東を作り、公園の中央に噴水池<愛の泉>とレイモン・ペイネ原作の<天使と恋人達>の像を置いた。バレンタインパーク内には愛をテーマのホテル、バレンタインホテルとレイモン・ペイネの恋人達の絵画や版画を収蔵した作東美術館、文化交流の館バレンタインプラザが建設された。作東美術館にはペイネの作品140点が収蔵されている。また、丘の上にはヨーロッパ風の鐘を頂く高さ30メートルの作東タワーつくられた。このバレンタインパーク作東はまさに、愛をテーマにしたテーマパークだ。       バレンタインパーク作東<天使と恋人達>  ペイネの作品を収蔵した作東美術館 の像と<愛の泉>     美作市立作東美術館   美術館内に展示されたペイネの作品     美術館内のロダン作<オルフェウス>像         美作市作東美術館の玄関 夫婦愛を象徴するギリシャ神話の紙  

軽井沢ペイネ美術館

軽井沢ペイネ美術館

 軽井沢ペイネ美術館                              軽井沢のペイネ美術館は1985年にできた。オープンの時は、ペイネ夫妻も出席して式典が行われた。ペイネ美術館は軽井沢駅から2~3キロの所の塩沢湖を中心にした軽井沢タリアセンという総合文化施設の中にある。   ペイネ美術館前:ペイネ恋人達の彫刻   タリアセンには、ペイネ美術館以外では、軽井沢高原文庫、深沢紅子野の花美術館、睡鳩荘、イングリッシュローズガーデン、カフェ、レストランや湖上のボートなどが楽しめる。ペイネ美術館から始めて、タリアセンの魅力も紹介しよう。軽井沢は西洋人が発見した避暑地なので、いずれも西洋と深い関わりがある。   タリアセン内の地図     ペイネ美術館は旧帝国ホテル建設時に来日したアントニン・レーモンドが、昭和8年に建てた「軽井沢・夏の家」と呼ばれるアトリエ兼別荘を移築したもので、ペイネ美術館の建物も軽井沢の貴重な文化遺産となっている。   ペイネ美術館の展示品                  ペイネ美術館の建物 アントニン・レーモンド築   この涼し気な、軽井沢夏の家、ペイネ美術館には、ペイネのデッサン、不透明水彩、エッチング&リトグラフの版画、ポスター、ペイネの陶器、人形、などが展示されていると同時に、画集、ペイネのワイン、ペイネのグラス等のペイネグッズも販売している。パリで生まれたレイモン・ペイネの愛と平和の世界をここ軽井沢ペイネ美術館で堪能できる。     軽井沢高原文庫について   軽井沢高原文庫の建物                  軽井沢高原文庫の表示   明治、大正、昭和の文人達は西洋への憧れを軽井沢のイメージに重ねて、多くの作家、政治家、経済人が居住した。軽井沢に住んだ文学者、川端康成、有島武郎、野上弥生子、堀辰雄、室生犀星、立原道造、正宗白鳥などの手書き原稿を展示しているのが軽井沢高原文庫だ。その周りに、有島武夫別荘(浄月庵)、堀辰雄山荘、野上弥生子書斎などが移築されている。軽井沢の明るい自然に文化が調和した歴史を見る事が出来る。   有島武夫別荘(浄月庵)      野上弥生子書斎           堀辰雄山荘(1412番山荘)      

軽井沢ペイネ美術館

 軽井沢ペイネ美術館                              軽井沢のペイネ美術館は1985年にできた。オープンの時は、ペイネ夫妻も出席して式典が行われた。ペイネ美術館は軽井沢駅から2~3キロの所の塩沢湖を中心にした軽井沢タリアセンという総合文化施設の中にある。   ペイネ美術館前:ペイネ恋人達の彫刻   タリアセンには、ペイネ美術館以外では、軽井沢高原文庫、深沢紅子野の花美術館、睡鳩荘、イングリッシュローズガーデン、カフェ、レストランや湖上のボートなどが楽しめる。ペイネ美術館から始めて、タリアセンの魅力も紹介しよう。軽井沢は西洋人が発見した避暑地なので、いずれも西洋と深い関わりがある。   タリアセン内の地図     ペイネ美術館は旧帝国ホテル建設時に来日したアントニン・レーモンドが、昭和8年に建てた「軽井沢・夏の家」と呼ばれるアトリエ兼別荘を移築したもので、ペイネ美術館の建物も軽井沢の貴重な文化遺産となっている。   ペイネ美術館の展示品                  ペイネ美術館の建物 アントニン・レーモンド築   この涼し気な、軽井沢夏の家、ペイネ美術館には、ペイネのデッサン、不透明水彩、エッチング&リトグラフの版画、ポスター、ペイネの陶器、人形、などが展示されていると同時に、画集、ペイネのワイン、ペイネのグラス等のペイネグッズも販売している。パリで生まれたレイモン・ペイネの愛と平和の世界をここ軽井沢ペイネ美術館で堪能できる。     軽井沢高原文庫について   軽井沢高原文庫の建物                  軽井沢高原文庫の表示   明治、大正、昭和の文人達は西洋への憧れを軽井沢のイメージに重ねて、多くの作家、政治家、経済人が居住した。軽井沢に住んだ文学者、川端康成、有島武郎、野上弥生子、堀辰雄、室生犀星、立原道造、正宗白鳥などの手書き原稿を展示しているのが軽井沢高原文庫だ。その周りに、有島武夫別荘(浄月庵)、堀辰雄山荘、野上弥生子書斎などが移築されている。軽井沢の明るい自然に文化が調和した歴史を見る事が出来る。   有島武夫別荘(浄月庵)      野上弥生子書斎           堀辰雄山荘(1412番山荘)